incidental | ナノ


―おまえ、おかしいんだよ。
―おまえだけ、へんだ。

まだ私が何も知らなかった頃に掛けられた、高い声で吐き出される刃物のような言葉達。
子供というのは正直な生き物で、そこが美徳だと云う人もいる。自分の感情に素直な物言いをしても、幼さを理由に許されてしまう。
身近な大人の言うこと為すこと、丸ごと吸い込んで信じてしまうような存在であるにも関わらず、だ。

―おかあさんがいってたもん。
―ママもいってた! なつるちゃんはかわいそうねって。
―こいつきらわれてんだぜ! だからいえにもかえれないんだ!
―ママにもパパにもきらわれてるの?

子供らしく好奇心に満ちた心ない言葉は、柔らかかった私の胸にぐさりぐさりと、深くまで何度も突き刺さっては傷を残した。
唐突に、勢いよくぶつけられた不躾なそれらに、頭の中が真っ白になった。全身がビリビリと痺れたようなショックを受け流しきれなかった私は、当時傍でたった一人、話を聞いてくれていた存在に、泣きつくことしかできなかった。

―なつるは、おかしいの?
―おかあさんとおとうさんは、なつるがきらいなの?

否定を求めて、喉を引き攣らせながら問い掛けたのだ。
一人では言い返すこともできなくて、だけれど自分の心だけは守りたくて。
悲しかったし、悔しかったのだと思う。言い返す勇気も、否定できるだけの自信も持てなかったことが、嫌だった。
しがみつく私を困ったように眉を下げて見下ろしていたその人は、けれど深く息を吐き出すと、残酷な言葉を優しく紡いだ。

―なつるは、いい子だよ。

涙は暫く、止まらなかった。
その一言だけで、答えは解ってしまったから。









夢を見ていたことで、浅い場所を漂っていた意識が浮き上がる。
微睡みを引き摺る頭には、すぐに聞き慣れた二つの声が大きく響いてきた。
声を荒立てて何かを争う、二人分の男子の声。脳が完全に目を覚まさないまま、カーテンの向こうから聞こえてくる会話にぼんやりと耳を傾ける。

そして一瞬で、目覚めたことを後悔した。



「何の苦労もなくのうのうと生きてきた奴に、オレらの何が解るんだよ!」



そう叫んだ声は、弟のものだった。

なんてタイミング悪く目覚めてしまったのだろう。ズシリと胸に重石が落ちてきたような気分に、もう一度眠りに落ちたくなる。
体調を崩した知らせを、彼方くんから受け取りでもしたのかもしれない。迎えに来てくれたということは、もう夕方も過ぎる頃合いなのか。

随分と長い時間、眠ってしまっていたらしい。



「ああ、解んねぇよオレには! だからって見てるだけでいられねぇだろが!!」



すぐさま怒鳴り返した幼馴染みは、ここがまだ学校だということを覚えてくれているのだろうか。
気まずくて、重苦しい空気の中に出ていくタイミングが掴めない。起きたことを知らせることもできず、シーツに顔を埋める。

ずっとこのまま眠ったふりをしているわけにもいかない。それは解っているから、どうにか二人の声が途切れてくれることを祈るしかない。
何か、切っ掛けがあればいいのだけれど。
まだ鈍く重い頭を悩ませる私に気付かず進んでいく会話は、恐らく言い争う彼らよりも、こちらの胸に突き刺る。

ぐさり、ぐさり。
私だけなら、まだ耐えられたものだけれど。



「大体、解らなくて何が悪い! 恵まれた環境に感謝はしても、誰かに負い目を感じるようなことじゃないだろーが。だからってわけじゃないが、オレは昔っから、お前らをただ可哀想がるだけなんて御免なんだよ!」



刺々しいけれど冷たくはない、彼方くんの言葉が一番、致命傷を与えてくれる。
ぐ、と息を飲んだのは颯だ。それだけ気にかけられていると、あの子も身をもって知っている。知っているから、申し訳なさも増して苛立ちの行き場がない。

どうしようもないのだ。言い争いの元となった発言は聞こえなかったけれど、どうせ私が原因なのだということは察せられる。
それでも二人とも、私が目を覚ましたと知ればこんな部分は見せないし、お互いぶつかり合うようなこともしなかっただろう。
堪えて、黙って、普通を装い続けてくれていた今までのように振る舞う。
“今まで”が、永遠に続くわけじゃないと分かっていても。



(…限界かな)



颯にも彼方くんにも、甘やかされっぱなしだった。
都合の悪いものに蓋をして、長くは持たないと解っていて目を逸らしていた。
二人に、逃がしようのない鬱憤が溜まっていっていることも分かりきっていたのに、誤魔化して騙して、気付かないふりをしていただけだ。

私はまだ大丈夫よ。だましだまし、やっていけるはず。
でも、私以外が大丈夫じゃないのなら、どうすればいいのかな。

膝を抱えるように丸くなった時、ベッドがぎしりと音を立てて軋んだ。
ああ、これで気付いてくれないだろうか。卑怯にも、それで言い争いが終わればいいと思った。
そんな期待は、その願いを違う意味で裏切る声によって掻き消されてしまったのだけれど。



「なつるさん? 起きましたか?」

「!」



今まで、保健室内には弟と幼馴染みを加えた三人しかいないと思い込んでいたのに。降ってきた声に、それまでの寝たふりも忘れてがばりと身を起こしてしまう。
床を踏み鳴らす微かな音と、ベッドを囲んでいるオフホワイトのカーテンに映り出した影に、どくりと心臓が強く脈打つ。

何で。何で、いるの。



「テツヤ、くん…?」



嘘。どうしよう。聞かれていた?
テツヤくんがいたのに、あの二人はあんな会話を目の前で繰り広げていたの…?

一気に駆け巡る混乱に、狼狽える私とは打って変わって落ち着いた声が開けますよ、と一声掛けてくれる。
慌てて制服の乱れを正して座り直した時、カーテンが引かれる。争う声はもう、聞こえてこなかった。



「テツヤくん…何で……」



少しだけ開かれた部分から室内が窺える。軽く顔を覗かせて、それからベッド脇まで寄ってきたその人は、間違いようもなく昼に私をここまで連れてきた張本人だった。

窓から見えた空は薄暗い。颯がいるということは、既に部活も終わった時間のはずだ。
どうして、ここにいるの。
呆然と見上げた私の疑問を察してくれたのか、ほんの少し目蓋を伏せた彼は寝覚めにはありがたい穏やかな声音を崩さずに説明してくれる。



「部活が終わった後、気になって見に来たらまだ休んでいるようだったので…颯くんが来るまで付き添おうかと思ったんですけど」

「あ……わ、わざわざありがとう。ごめんね…」

「いえ。具合は大丈夫ですか?」



昼よりは顔色もよさそうですけど。

伸びてきた手に額を覆われて、軽く肩が跳ねる。熱を確認する彼の表情は私を気遣ってくれているのか、ほんの少し心配そうに眉を下げているだけで、普段とあまり変わらなかった。



(でも、聞かれた)



颯が来るまで待とうとしてくれたなら、私が聞けなかったやり取りも全て、聞いてしまったはずだ。
不穏な空気も、面倒な事情も、どこまでかは判らないけれど…。

ざわざわと、胸の内側に嫌な風が吹く。
身体が強張り始めたところで、確認を終えて離れていった掌がぽん、と肩を叩いてきた。



「なつるさん」

「っ」

「顔、硬くなってます」

「え…」



置かれたままの片手から、じわりと伝わる熱に強張りを溶かされる気がする。
おかしな目で見られてはしまわないかと、怯えていた気持ちは見上げた先にあった柔い笑みに包まれて消えた。

その瞳は少しも、異端者を見るようなものではなくて。
いつも私を見つめてくれる時と、同じ温もりを持っていたから。



「待ってる人もいますし。帰る準備、しましょうか」



残る不安も全て消し飛ばすように、最後にくしゃりと頭を撫でられる。
大きく震えた心臓は、満ちていく安堵に歓喜していた。

ああ、よかった。引かれてなくてよかった、なんて。
何も片付いていないのに、そう思ってしまう自分がいることに、また少し身体が重くなった。






襤褸集めの衆




カーテンを解放すると、少し離れた場所に幼馴染みが立っていた。
弟は念のためとタクシーを呼びに行ってくれたらしい。相変わらず判断が速いし、とことん私に甘い。

対して、幼馴染みの方は私の顔を見ると深い溜息を吐き出した。



「保健委員が体調管理できてないなんて…笑えるよね」

「なつる」



厳しい、というよりは凛とした声だった。
先程まで聞いていた言い争いを流そうとした私を、彼方くんは許してくれないらしい。
じっとこちらを睨んでくる目に、私は足を止めた。隣にいた、テツヤくんも。



(まぁ、そうだよね)



許してくれないくらい、限界なんだよね。だからといってどうするべきかは、私にも判らないのだけれど。

さっきだって、彼方くんは黙っていられないと言っていた。
それは彼の思いやりから出てきた言葉であって、間違った発言をしたわけじゃない。
間違ったのは、私だ。

私が、おかしな形を作ってしまった。



「いい加減、飯事遊びは終わりにしろよ」



お前、もう無理だろ。

哀れみも蔑みも一切含まない、幼馴染みの眼差しには親愛が含まれている。
それでも第三者の視点から冷静にものを見てくれる人だ。彼の答えが一番普通の正解に近いはずだった。
だから、素直に納得もできる。



「彼方くんが言うなら…そうなんだろうね」



でも、私にも幕の下ろし方が分からないんだ。

正しいぬくもりは近くにあるかもしれないのに、両手が塞がって伸ばすことができないでいるようだ。
償えるまで、もう無理でも、どれだけ綻んでしまおうと、まだ私は次に進む行動を決めきれずにいる。

あの子を、幸せにするまでは。

20140624.

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