二日に渡る文化祭における部の方の模擬店は盛況で、二日目の今日は前日に予定通り入れなかった穴埋めも兼ねてしっかりと取り組んだ。
気を使った弟が少しの間代理をしてくれていたとはいえ、私が一人分の働きができなかったのは事実なのだ。前日の集客から危惧していた通り長い休憩時間はとれなかったため、私の高校一年目の文化祭はあまり他の催し物を見て廻る暇はなく、仕事に追われて終わりを迎えると思われた。
その予想を裏切ったのが終了時刻間際の夕方、客足が途絶え始めた頃に入った一通のメールだった。
「あ…」
「ん? どうかしたのなつるちゃん」
「いえ、えっと…撤収作業って明日が主でしたよね。今日は、終わった後やることってありますか?」
「んー、軽い洗い物くらいじゃないかな。それもあと二、三テーブル分だし、用事があるならもう上がってもいいよ?」
「えっ、いや…さすがにそれは」
「いいよ。なつるちゃん、昨日も今日も他のところくに廻ってないんでしょ? 勿体ないから行きたいとこあるなら今行っときなよ」
片付けなんて十分も掛からずに終わるし、と笑って勧めてくれた先輩は、私が時間を気にしていることに気付いたようだった。
申し訳なく思いつつも、有り難い申し出なので頭を下げる。
「えっと、じゃあ…すみません。お願いしてもいいですか?」
「りょーかい。櫛木くんにも言っとくわ」
「ありがとうございます」
折角の厚意を無駄にもしたくない。肩を叩いてくれた先輩にもう一度頭を下げてから、軽く身支度を整えるために敷居で隠してあるブースの方へと踵を返した。
その間に、届いていたメールへの返信文を打つ。
大丈夫そうです、と。手短な文章を送信して一分もしない内に、制服のポケットにもう一度仕舞っておいた携帯が震えた。
「お疲れ様です」
最上階までの階段を上りきると、すぐ隣から聞こえてきた声にびくりと肩を跳ねさせてしまう。
振り向けばいつから待ち構えていたのか、手摺の陰に隠れるようにしゃがみこんでいたテツヤくんがゆっくりと立ち上がるところだった。
「…びっくりした」
「すみません。一応、隠れた方がいいかと思って」
見付かると少し厄介ですし、と普段と変わらない調子で呟く彼は、軽く固まっていた私の手を自然な流れでとって、歩き出した。
向かう先にあるのは、屋上の扉だ。
「テツヤくん…?」
こんな日だからこそ閉鎖されているはずの扉は、彼が少し力を込めるようにして押すと開かれる。
目を瞠る私を肩越しに振り返ったその顔は、ほんの少しの笑みを浮かべていた。
「鍵、借りてきたんです。内緒にしてくださいね」
「借りてきたって…それ、気付かれなかったの?」
学校側だって鍵の管理には厳しいのに、一生徒に貸し出し許可の下りるはずのない屋上の扉の鍵を借りてきたということは、その言葉の意味は推して知るべしといったところだ。
呆然としてしまう私がおかしかったのか、彼の口からくすりと息が漏れた。
そういう特質ですから、と彼は笑うけれど、ここまで来ると最早犯罪すら容易に行えるレベルだと思う。
勿論そんなことをするような人ではないとも分かっているから、手を引く彼に私も素直に従った。
悪いことをしている気分にはなれない。
悪いことをする気もないのだから、仕方のないことなのかもしれないけれど。
「テツヤくんって、意外と大胆…っていうか、怖いもの知らずだよね」
「なつるさんは怖いですか」
「ううん…叱られても、一人じゃないから大丈夫」
するりと口から出せるようになってしまった本音は、昔と比べて随分と変容してしまった。
踏み出した扉の外は傾きかけた日に強く照らされ、穏やかに吹く風を感じられた。けれど校舎という壁に遮られて、どこか閉鎖された空間のようにも思える。
ちぐはぐな空気に浸る余裕はなく、繋がれた手に視線を落とせば意識した心臓が蠢いた。
「やっぱり忙しかったみたいですね。盛況だったと小耳に挟みました」
「え…ああ、部の話? 確かに凄かったかも…口コミの効果かなぁ」
「人気なのはいいことですけど…」
「…うん?」
「昨日も今日も、折角の学祭なのに中々顔も合わせられなくて…予想はしてましたけど、少し残念でした」
危険防止に設けられたフェンスに近寄り、ビルの群れを包むように柔らかい色に染まりかけた空を眺める。
速まる鼓動に息が詰まりかけたけれど、隣に並んだ彼の目がこちらに向けられていない分、今はまだいい方だ。
(これは、前置き)
酸素を取り入れるために、ゆっくりと息を吸い込む。
そう、これは前置きだ。そう胸に言い聞かせる。
わざわざこうして二人で話すために呼び出されたのだから、本題は別にある。その内容の予測も、ついていた。
「昨日…ね」
切り出されるか、切り出すか。迷った末に選んだのは後者だった。
彼の口から話題を決められるのは、少し心臓に悪い。それなら自分から持ち出した方が負担は少ないだろうと、躊躇いつつも口を開く。
「昨日、あの後に桃井さんと話したの」
「…はい。そんな内容のメールが来ました」
「話したいことって、そのこと…?」
昨日、学祭に遊びに来た桃井さんと二人で話をした。
逃げられないところまで来てしまったと、自覚して認めさせられたこと。それでも、今現在はそれ以上考え込むようなことはできなかったから、掘り返されるとどうしたらいいのか判らなくなってしまう。
ほんの少しの不安を抱きつつ横目に見てみたテツヤくんは、僅かに間を置いてから浅く頷いた。
「なつるさんとゆっくり過ごす時間が欲しかったのも本当です」
「…うん」
「ただ、一体どんな話をしたのかと気になったのも本音です」
でも、聞かない方がいいのなら聞きません。
握ったままにされていた手に力を込められたのは、私が震えでもしてしまったからだろうか。
敵わないなぁと、目の奥に熱を感じながら笑った。
「テツヤくんは優しいよね」
「前にも言った気がしますけど…ボクは特別優しくもないですよ。なつるさん相手だと、でしゃばってしまうだけで」
「それが、私には優しいんじゃないかな」
受け手の気持ち次第だと返せば、それ以上は否定せずに、フェンスに軽く寄り掛かるようにして腰を下ろす。彼に促されるように私も隣に並んで座り込んだ。
少しだけ冷えたコンクリートの感触が足に伝わる。
軽く膝を抱えるようにしてスカートを正していると、頭頂部をフェンスに押し付けるようにして顔を持ち上げたテツヤくんが、どこかぼんやりとした声を吐き出した。
桃井さんには、幼馴染みがいるんですよ。
「ボクの中学時代の…部活の相棒、と言っていいのか判りませんけど」
「…男の子だよね」
「ですね。彼は天才で…突飛した才能を持っていたから、誰も敵う相手がいなくなって。しかもボクらの世代には彼に並ぶ天才が揃っていたから、少しずつおかしくなってしまって」
「おかしく…」
「一人でも勝ててしまう試合で…対戦相手も諦めてしまうから、チームは機能させる意味すらなくしてしまったんです」
夢の話でもしているようだけれど、遠くを見つめるような表情は確かに現実に思いを馳せていた。
中学時代の話なんて殆ど聞いたことがなかったから、私が聞いていいものかと少しだけ不安になる。戸惑う私の気持ちを察したのか、ちらりとこちらに流された目線はすぐに優しく細められた。
とくりと、胸の内側が疼く。
「桃井さんは、彼を放っておけなかったんだと思います。無意識でも、意識的にでも」
彼女が追いかけた背中は、幼馴染みのものだった。
何でもないように、軽く紡がれた台詞が物悲しく鼓膜を震わせた。
真っ直ぐに想える人だと思っていた。彼女は、目の前にいるテツヤくんを迷わず選べる人なのだと。
だけどそれは私の勘違いで、全てを見てきていない私が一部分だけを見て思い込んでいたことに過ぎなかったのかもしれない。
(だとしたら)
報われないのは、誰だろう。
「私…桃井さんのこと、傷付けちゃったかもしれない」
酷いことを言ってしまったかもしれない。私の自虐が彼女にまで至ってしまったかもしれない。
一番大切でもない人に、好意を向けるのは残酷なこと。
そんな言葉は、彼女の胸まで抉りはしなかっただろうか。
テツヤくんは、桃井さんを責めたりしない。その判断を根に持っているわけではなく、ただ事実として語ったのだろう。けれど、選ばれなかった選択肢だという自覚は彼にだってある。
気付いていなかった彼女に、知らずに私が棘を刺してしまった気がする。
「…ボクの話でもしたんですか」
「…ちょっとだけ。何も知らないのに、余計なこと言っちゃった気がする…」
「どんな内容かは分かりませんけど…なつるさんに悪意がないことは、桃井さんも解っていると思いますよ」
悪意に鈍い人でもないからと、慰めの言葉を掛けてくれるテツヤくんに情けない気持ちになる。
悪意がない方が、質が悪いよ。
人を傷付けるのに、免罪符なんて掲げたくない。
「それでまた傷付いてしまう、なつるさんの方が優しいですよ」
「…自滅してるだけだよ」
変に、器用に生ききれないだけだ。
罪悪感で満ち始めた心に、自然と身体を丸めてしまう。酷いことなんて誰に対してだってしたくないのに、うまくいかない。
静かに身体の中に落ちてくる鉛を感じていると、不意に外側にも重みがきて心臓が跳ねる。
左肩に乗ってきた透き通りそうな色の髪は、夕陽を浴びて不思議な色合いの光を反射していた。
「て、つやくん」
罪悪感なんて、気にしている余裕もなくなる。
震えた指先は握りこまれて、うまく息が吸えなくなる。
胸が苦しくなって、よくわからない衝動が涙腺を刺激してくる。首に感じる血の流れが音になって、彼の耳に届いてしまうんじゃないかと落ち着けない。
「なつるさんは優しすぎて、自分を蔑ろにするタイプですから」
「そ…んなことは…」
「どうしても傷付くなら、やっぱりボクはでしゃばるしかありませんね」
自分に優しくないなつるさんには、優しくしてあげないと。
俯いてしまった顔は見えないのに、その声はどこまでも穏やかに、笑っている時のように響いて届く。
泣きそうになっている私に、彼はきっと気付いていた。
だから、そういう優しさは、狡いのに。
絶え間なく降るもの「どうしても気になるなら、謝りますか。ボクから桃井さんに連絡もとれますし」
「…迷惑にならないかな」
「大丈夫だと思いますよ。悪い人じゃなかったでしょう」
「うん…いい子だと思った」
とくとくと速いままの鼓動を感じながら、掬い上げられてしまった罪悪感の行き場に意識は向いてしまう。
左肩に乗ったままの人の頭の重さの方が、暗く沈みかけた胸よりも重くなる。
救いとは、こういうものなのかもしれない。
空いた方で携帯を取り出したテツヤくんの手を、握り返してしまいながらほんの少し、目蓋を下ろした。
20140416.
prev /
next