じゃあ、と小さく会釈をして離れていく背中が、まるで逃げて行くようだと思った。
確実に何らかの衝撃を与えてしまったのだろうことは容易に想像できて、狼狽えていた表情を振り返ると自然と溜息が漏れる。
呼び止めない方がよかっただろうか。
小さな後悔を覚えるも、一度顔を合わせてしまったものは仕方がない。視界に入った彼女に必ず声を掛けてしまうのは、最早習慣のようなものだった。自分の隣に誰がいるか、よく考えずにいたこちらの落ち度だ。
「テツくん」
「…はい」
「えっと…一つ、訊いてもいいかな?」
文化祭の噂を聞き付けて、遊びに来ていた桃井さんにも悪意はない。
彼女が去ってすぐ、僅かに気を落としたボクに持ち前の観察眼で気付いたのかもしれない。控えめに掛けられた声に顔を上げると、ぎこちなく上がった口角が目に入った。
「えっと…さっきの女の子、白雲さん?」
「はい…白雲なつるさんです」
「そう、その…あの子と、仲、いいの?」
ゆっくりと胸に掛かる重から潰されそうになる肺に、空気を取り込む。
下手な誤魔化しや嘘は、この人には通用しない。しても、そんなものに頼るわけにもいかない。
僅かに感じる苦味から意識を逸らし、素直に頷いて返した。
「ボクは、良いと思ってます」
「そ、そっか!……うん、そうよね…名前で、呼ぶくらいだもん、ね」
そりゃそうだよね、と笑う桃井さんの顔は、やはりうまく装えていない。
気まずいような申し訳無いような何とも言えない気分で見守っていると、数秒間俯き黙った桃井さんはぐっと喉を鳴らしたようだった。
「も、しかして…なんだけど」
見慣れない制服のスカートを握る手が、力を込めすぎて震えるのが視界に入る。
それを握って安心させてあげられるような立場にいないことは、素直に心苦しかった。
「テツくん、あの子のこと……す、すす…っ」
ぎゅう、と固くなる拳を眺めながら、途切れてしまった声に目蓋を伏せる。
傲りでも何でもなく、目の前に立つ人の気持ちを少なからず理解していたから、その先を紡ぐ勇気が出ないことも察せた。
その口に皆まで言わせるのも酷だと思ったし、自分の気持ちをはっきりと形にするのも、その心を傷付けてしまいそうで躊躇われた。
誰かを傷付ける人間になりたくない、エゴも含まれていたと思う。
「恐らく…桃井さんの想像通りです」
分かりやすい言葉にしなくても、充分に伝わるだろう。
守りに走ったボクの回答に、目の前にある肩が大きく揺れた。
「っ……そ、う…なんだ…」
多くの人が犇めく廊下なのに、震えた声は強く耳朶を打つ。
泣いているだろうか、堪えているだろうか。俯いたままの桃色の髪を、慰めるために撫でてもあげられない。
望まれる気持ちを持たないなら、不用意なことをしてはいけない。居たたまれなさに自分の胸まで痛みそうになっても、それは堪えるべきものだということは、知っていた。
無理に高く明るく繕って、笑い声に近付ける桃井さんは、痛々しかったけれど。
「わ、私知らなくて、テツくんの邪魔…しちゃったね」
「いえ…それはボクの所為というか、タイミングが悪かっただけなので」
確かに、なつるさんに対しての現状は少しばかり困ってはいるけれど、桃井さんは普段通りに接していただけで、うまく立ち回れなかった責任は自分にある。
寧ろ桃井さんにとっても嬉しくない事実を晒してしまったのだから、責められるはずもない。
だから桃井さんの所為じゃないです、と首を振ると、漸く上げられた顔は少し傷付いた目をしながらも笑っていた。
「あは…ありがとう。でも、本当、いいなぁ……テツくんに好かれるなんて、素敵だよ」
「…そうでもないと思いますけど」
「そんなことないよっ!…私が、保証する! けど…っ」
スカートから離れた手が、しっかりとした拳に作り替えられる。
真っ直ぐに見上げてくる馴染みの顔は、瞳は、強かった。
「それでもっ…まだ私だって、諦めないからねっ! まだチャンスはあるもん! 頑張るのみだよ!」
「は…」
「だから…ごめんね、私テツくんの応援はできません!」
呆気にとられるボクの前で、勢いよく頭が下げられる。
予想外の反応に少し戸惑って、それからよく見ればまだ震えていた拳に気付いて、物悲しい感覚に頬が弛んだ。
応えてあげられれば、ボク自身も一番楽だろうに。
「桃井さんは強いですね」
「そ、そう…かな」
「はい。きっと、誰より…ボクらより強いし、優しいです」
応えられないのが、申し訳なく、惜しく、悲しいほどに。
気持ちに素直に生きる桃井さんを見ても、過る面影は自分が思っていたよりも深く根付いているようだ。
けれどきっと、そうでなくても、この手は取れなかっただろうという思いもある。
まず、この人が最後にボクを選ぶことはない。
そんな残酷な前提条件を、既に知らされた後でもあるのだから。
「じゃあ、私他のところも廻るから…またね、テツくん」
「はい、気を付けて。青峰くんにもよろしく伝えてください」
「あはは…うん、伝えておくね!」
じゃあね、と手を振って駆け出した人の声が、最後に上擦ったことに気付きながら呼び止めはしなかった。
気付けば、休憩時間はもう僅か。今は落ち着かない気分には蓋をして、行事に専念するよりなさそうだ。
暗く飾られた教室内に引き返しながら、大きく息を吐き出した。
比重は揺らがず明日は時間をとれるだろうか。
ゆっくりと話す機会は作れるだろうか。
一人になった瞬間、傷付いた表情を押し隠した彼女を思い出してしまう。
あの穏やかな笑顔を見られたら。
どうしても、願ってしまう気持ちに嘘を吐けないのも本当だった。
20131226.
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