家庭科室近くまで迷いこんできた仔犬は、トレイを持っている所為で両手の空いていない私から然程距離を空けることなく着いてきてくれた。
途中で何かに気を引かれて、どこかに行ってしまいはしないかと不安だったのだけれど。
たまに虫や葉っぱを追い掛けてみたりはしても、声を掛ければ思い出したように振り向いて駆けてくる。
「もうすぐ着くからねー」
わん、といい返事をしてくれるその子が可愛くて、つい頬が緩む。
部の友人達の予想は間違ってもいなかったらしく、動物的なやんちゃさはあっても賢い子だ。
私も動物は好きだし、手さえ塞がっていなければ撫でてあげるところなのだけれど。
そう思う頃には体育館に着いてしまって、少しだけ残念な気持ちにもなった。
ボールやバッシュが打ち鳴らす床の音に混じって、ホイッスルが高く響く。扉から覗き込んだ館内は、まだ夏の気候を引きずり熱気がこもっていた。
比較的近場で指示を下しているリコ先輩の近くに、まずは歩み寄る。
仔犬は上げてもいいのかと少し迷って、目を離すのはまだ心配だったのでそのまま着いてこさせることにした。
「あのー…リコ先輩…」
「えっ? なつるちゃん?」
ちらちらと、こちらに気付いた部員の皆さんから視線を貰いつつ、振り向いてくれた先輩に軽く頭を下げる。
夏の関わりで大分打ち解けられたからか、特に不思議そうな顔をされるということもなく。もしかして差し入れ?、と笑顔で訊ねてくれる先輩にほっとした。
「はい、それもなんですけど…この子が、家庭科室の近くまで迷いこんでて」
「えっ?…二号!?」
「あ、やっぱりそれバスケ部のユニフォームなんですね」
彼方くんが教えてくれて…と説明する間もなかった。
驚いたリコ先輩に勢いよく抱えあげられた仔犬は、ぱたぱたと尻尾を振っている。
二号、って名前なのかな。
「気付かなかった…! ありがとうなつるちゃん、後で慌てるところだったわ!」
「いえ…部員の皆、可愛いって喜んでましたし。あと、こっちが差し入れです」
「いつもありがとう! 皆喜ぶわ」
「さすがにワンちゃん用の食べ物はないんですけどね…」
先輩の腕の中から首を伸ばしてトレイの匂いを嗅いでいる仔犬は、やっぱり可愛い。
動物用のレシピなんかも、調べてみても楽しいかもしれないな…なんて考え始めた頃、指定されたメニューをこなした部員がぱらぱらとこちらに寄ってきた。
「なに? 差し入れ?」
「おっ、ゼリーか」
「フルーツゼリーです。入ってるフルーツが一定してないから早い者勝ちだって、彼方くんが言ってました」
「ありがとうな! 櫛木にも伝えてくれ!」
さすがに先輩達は揃って体力がついているらしい。集まりが早い。
嬉しそうに食べてもらえるから、作り甲斐があるなぁ。
トレイから減っていくカラフルなゼリーを入れた器と部員を見ていると、一人だけ、火神くんが何やら難しそうな顔をしながら近付いてくる。
「これ、一人一個だよな」
「えっと…うん。ごめんなさい、足りないよね…」
彼の食欲の凄まじさは夏の合宿で見たからよく分かっている。
さすがに個数を増やすのは不公平だし…と人数分しか用意してこなかったけれど、やっぱり多めに作ってくるべきだったろうか。
じっとトレイを見つめてくる迫力に圧されて後退りたいような気持ちになっていると、すぐ横から静かな溜息が聞こえた。
「火神くん、なつるさんが困ってます」
「あ?……あ」
「て、つやくん」
久しぶりに、少し驚いた。目の前のことに気を取られて、周りが見えていなかったらしい。
流れる汗を拭いながら近くまで寄ってきていたテツヤくんは、端から見ても判るくらい呆れた目を火神くんに向ける。
「君みたいな人に見下し続けられたら、怯えるに決まってるじゃないですか」
「てめっどういう意味っ!…あっいや、悪ぃ。どれにしようか迷ってただけで、別に怒ってねぇから…!」
「え、ううん…大丈夫だよ。テツヤくんも、お疲れ様」
慌てて謝ってくれる火神くんに、少しでも怯えてしまったのが申し訳ない。
こちらこそごめんね、と言うのもなんだかおかしいから、口にはしなかったけれど。
とりあえずテツヤくんにも取りやすいようにトレイを少し回してどれにする?、と訊ねれば、一瞬考える間を置いた彼はふ、と視線を私に戻して表情を崩した。
「なつるさんの作ったものがいいです」
「うっ…うん。じゃあ、はい」
この、小さく綻ぶような笑みにはいつも、私の方まで嬉しくなる。なっていた、はずだ。
なのに、なんだか最近は無性に恥ずかしいような気持ちになる。テツヤくんの言葉にも、何故か胸の辺りがざわついてしまって。
それを誤魔化すように、私の作ったもの中から林檎をメインに置いたゼリーを選んで差し出す。
丁寧にお礼を言って受け取ってくれる彼は、いつもと変わらない…はずなのに。
(私…)
どこか、おかしくなっているのだろうか。
それともおかしかったのは今までで、今の状態が正常なのか。
漸く選び終えたゼリーの器を持って立ち去る火神くんや、他の部員の人達の声が一枚の硝子で隔てられるかのように遠く感じる。
それなのに、差し入れを配り終えた私の傍に佇むテツヤくんだけが、硝子の内側にいるよう。
何かが、胸に詰まっているみたいだ。
空間が狭く感じるのは、いつもより浅くなる呼吸の所為だろうか。
「あ」
「えっ?」
そういえば、という呟きにびくりと肩を跳ねさせた私がおかしかったのか、気付いた彼の顔がまたほんの少し、楽しげに弛む。
体育館の壁に寄り掛かって並ぶ、距離はきっと二十センチも空いていなかった。
正体不明の動揺「そういえば、学校で会うのは久しぶりですね」
夏休みの間も会ってたし、そこまで久しぶりな気もしませんけど。
楽しげな表情を崩さないまま、落とされた言葉は、どうしてかぐっと胸を握りしめてくるようで。
そうだね、と絞り出した私の頬は、紛れもなく熱を持っていた。
(何で、どうして)
(今、恥ずかしい気持ちになるの)
20131028.
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