いやに静かな室内に、一定の音を響かせる冷たい機械。
その少し前まで呼吸器の中で戦慄いていた唇は、今は僅かに開いたまま固まっていた。
最後の最後まで握り締めていたしわくちゃの手は、もう力を込めて握り返してはくれなかった。
担当医の時間と臨終を告げる声を遠くに聞きながら、私はまだ温かいままの手をずっと、握りしめていた。
『どうかしましたか?』
見慣れた文字が並ぶルーズリーフが視界の脇から滑ってくる。書かれた文字を読んではっと顔を上げると、隣で問題集を解いていたはずの彼の手は止まっていて、気遣わしげな目を向けられていた。
ああ、しまった。ぼうっとしてしまっていた。
ペンを握る指からも完全に力が抜けているのに気付いて、苦笑する。余白の多いルーズリーフ、一行だけ書かれた文字の下に何でもないよ、と書こうとして留まった。
(心配、してくれてるんだった)
自分の課題に集中する中なのに、僅かな変化を気取って心を砕いてくれる人に、理由もない誤魔化しなんて語りたくはない。
少し考えて、正直に考えていたことを記すことにした。
どうせ、それまでに続けていた課題もどこまでやったものか、覚えていないし。
『今朝見た夢を思い出してたの』
付箋でのやり取りとはまた違って、お互いの文字が交互に並ぶ様が不思議だった。
男子にしては丁寧な字も、流石に筆圧や癖は私のものよりは強いことに比べてみて気付く。
夢ですか?、と、返してくる彼を見上げれば、言葉を表すかのように首を傾げている。それに少しだけ笑顔を返して、四行目を書き加えた。
『昔本当にあったことを夢に見たから、印象が強くて。つい考え込んでぼーっとしちゃったみたい。』
さすがに、夢の内容まで書き連ねることは憚られた。人の亡くなる夢なんて、話題に出すには暗すぎる。ただの夢ではなく、現実にあったことなら尚更だ。
真っ白な蛍光灯の下、真っ白なベッドに横たわったその人は、多分最後まで生き延びようと足掻いていた。
それはベッド脇でその手を握り締めていた、私の為に。本当は苦しくて、死んだ方がましだとも思っていたかもしれないのに。
最後まであの人は謝り続けて、苦しみの果てに息を引き取った。
あれは確か、冬の出来事だった。窓の外の空が暗くなるのが早くて、何をどうすればいいのか教えてくれる身内の大人はいなくて、たった一人でいる事実にとてつもない不安を覚えた。
今でも、あんなに悲しいことはないと思う、巻き戻しようのない記憶。
『冬の出来事なのにこんな暑い中で見たから、不思議だなぁって思ったの。』
頬を弛めて、今までと同じようにペンを動かして書いた文字は、今更震えるようなこともない。
なのに、どうしてか。少し考えるように間を置いて、彼のペン先がルーズリーフを滑った。
『小腹も空いてきましたし、気分転換に外に出ませんか?』
書かれた文は疑問符か付いているのに、彼の中では決定事項なのか、広げられた問題集やノートが淡々と重ねられて仕舞われてしまう。
たまに現れる意外な強引さに目を瞠っている私に返された表情は、いつも通り柔く弛んでいた。
「あの、テツヤくん」
「はい」
「え…っと、私、気を遣わせちゃって」
「違いますよ」
そろそろなつるさんの声が聴きたくなっただけです、なんて涼しい顔をしながら否定してくる彼に、うぐ、と言葉を飲み込む。
これは気にしすぎるな、という言外の窘めだと、解るくらいには彼との心的距離は遠くない。
(優しい、なぁ…)
悲しいこともないのに、今頃少し、胸が締め付けられる。
本当に、テツヤくんには甘やかされてばかりだ。
偶然に図書館で鉢合わせたあの日から、テツヤくんは度々図書館に現れて一緒に課題を片付けるようになった。
と言っても、部活の練習が休みだったり昼に差し掛からない日に限定されているし、場所の手前そうそう会話できるわけでもないのだけれど。
約束をしているわけでもないし、いつでも会えるということもない。それでも隣に彼がいることは不自然ではなくて、嬉しくて。
でも、たまに。今みたいに、どうしてか胸が苦しくなって、目頭が熱くなったりして。
(困る、なぁ)
ふわふわと、私の覚束ない足取りに気付いた彼の手が、伸びてくる。
優しさとか、気遣いとか、そんな柔らかなものしか詰まっていないそれが、身体の横で揺れていた私の手を捕まえて、握りしめた。
「大丈夫ですか、なつるさん」
照り盛る太陽の下で、まだ室内の名残の残るお互いの手は汗で湿るほどは熱を持っていなかったけれど。
「…うん。大丈夫」
少しだけ力を入れてみた手を、しっかりと握り返される感触を胸に刻んだ。
夢路の愛惜今は暑い、夏の盛り。
あの季節までは、まだ遠い。
20130909.
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