今日も帰りが遅いとの連絡を受けたので、両親は待たずに颯と二人で夕飯を食べて片付けた後、入れ換わりでお風呂に入った。
フリース素材のネグリジェを身に付けて脱衣場に置いてある化粧水と乳液だけ、火照った肌に塗ってからバスタオルを頭に乗せて、廊下に出る。
地肌から流れる水分を吸収させるように、濡れた髪を優しくタオルドライしながら部屋に向かえば、扉の前で何やら考え込んでいたような様子の弟と目が合った。
「颯? どうかしたの、そんなとこに立って」
「ちょっと調べものしようと思って…姉ちゃんカタカナ事典とか持ってなかったっけ」
「うん、持ってるよ。でも、それなら別に普通に取っていってもよかったのに」
「…一応、女だし。勝手に入ったら嫌かなと思って」
「あはは、ないよ。今更颯に見られて困るものないし」
そこまで気を使わなくても、姉弟なんだから遠慮はいらないのに。
そういえば暫く前から、私がいない時の自室に颯が居座っていたりすることが無くなったことに今更気がついて、つい笑ってしまった。
これも思春期というものなら、随分とうちの思春期は平和だ。
どうぞ、と扉を開ければ素直に頷いて後についてくる姿に、小さかった頃を思い出して少し和んだり。
幾つになっても私の弟は優しくて可愛いと思う。
「姉ちゃんって変なとこ大らかだよな…」
「ええ? そんなことないと思うけど…あ、あった。はい、カタカナ事典ね」
「ん。ありがと」
白い本棚の上から算段目、資料類の本と様々な事典が並ぶそこから目当てのものを引き出して渡せば、受け取った先で少しだけ表情が弛む。
あまり頻繁に笑う方ではない弟だけれど、ふとした時に見せる微笑は柔らかい。
その笑みをこちらも微笑ましく思いながら、この子も密かに女子に人気があるタイプなんじゃないかな…なんて考えていると、すぐに引き返すかと思っていた颯は何か気になるものでも見つけたのか、壁際に置かれた私の机へと視線を移してぽつりと呟いた。
「付箋、無くなったの」
「え? あ…うん」
外出用のバッグから文房具類を入れるのに使っているポーチに移し変えるために出していた、新しい付箋に気づいたらしい。
何故かどきりとしてしまった私を追求するように振り返った颯は、珍しいね、と続けた。
「猫じゃなくて犬なんだ」
「う、うん…まぁ、たまにはね?」
「…ふーん」
何か、そんなに気にされるようなところでもあっただろうか。
じい、と見つめてくる猫のような目に、思わず意味もなく唾を飲み込みそうになる。
確かに、私は犬よりも猫の方が好きかもしれないけれど…動物は全般的に好きだし、そこまでおかしなことでもないと思うのだけれど。
「何かおかしい、かな?」
「いや、別にいいんだけど…黒子さん」
「へっ?」
「黒子さん、結構しっかりしてる人だったから、安心した」
「…えっと…う、うん? そう?」
バレた!?、と思った瞬間に続けられた言葉はがらりと内容が変わってしまっていて、軽くがくりと力が抜けた。
それでも、何故かは判らないけれど動揺を悟られたくなくて曖昧に頷けば、颯は少し間を置いてから小さく溜息を吐いた。
「は、颯…?」
「うん、まぁ…彼方じゃないし、あの人は、うん……いいか」
「いいって、何が?」
「何でもない。事典ありがと。明日も早いし、ちゃんと寝なよ」
「え、ええ? 颯?」
要点を得ない台詞を口走りながらくるりと踵を返したかと思えば、おやすみとだけ言い残して閉められた扉を、わけも解らずに見つめることしかできない。
いいって、何が。何が言いたいの、颯。
相変わらず自分の中で結論を出してもハッキリとは伝えてくれない弟に、焦れかけた胸を宥めるよう、深く酸素を取り込んで吐き出した。
「うん。わけが解らない」
でも気にしても解らないものは解らないものだし、仕方ない。
そう結論付けて深く頷いておいた。
とりあえず明日も早い。
颯に言われた通り早めにベッドに入ろうと考えながら、机の横に置いてある扉つきのキューブボックスに向かう。
三つ重ねた内の真ん中、マゼンタ色のボックスからドライヤーを取り出したところで、しかし私の視線はついつい先程弟が注目していた机の上へと引き付けられてしまった。
解らないものは、解らない。けれど。
(黒子くんは…やっぱり、優しいな…)
新しく買った可愛らしい付箋に指を伸ばした瞬間に、穏やかな心音が強く脈打った気がした。
小さな繋がり帰り際、勢いに任せて名前を呼んではみたけれど、喜んでくれただろうか。
あまりの気恥ずかしさに耐えきれず、彼の反応も確かめずに家の中に引っ込んでしまったけれど。
明日以降も、呼べるだろうか。
自信は殆ど無いけれど。
20120828.
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