部活帰りに書店に立ち寄ったのは、ほんの気紛れのようなものだった。
I・H予選間近とはいえさすがに日曜まで練習が長引くことはなく、平日よりも時間が余ってしまう。
家に帰るにはまだ早いし、何かしら面白い本でも見つからないかと訪れたそこで、彼女の姿を見つけることになるとは嬉しい誤算だった。
いつも括られている髪は上の方だけ編まれ、柔らかな色をしたレース飾りのバレッタで留められている。残りの髪がウェーブを描いて背中や肩にかかる様は、普段に輪を掛けて彼女を女性らしく見せた。
淡い紫のワンピースの裾が、歩く度にふわふわと風に揺られる。そんな些細な動きまで気になってしまうくらい、ついつい視線を引き寄せられているボクのことなんて彼女は知らない。
同じものを手に入れて嬉しくなったり、自分以外で仲のいい人間を少しだけ面白くなく感じたり、ただ名前を呼べるだけで自然と頬まで緩むような感情を、今まで誰かに抱いたことはなかった。
(不思議だ)
悪い気はしない。
厄介なものなのかもしれないが、決してその言葉にできない感情を疎ましく感じることはない。
隣を歩くなつるさんは漸く照れも引いたようで、またいつも通りの穏やかな笑みを浮かべている。
先程までの反応も新鮮で見ていて楽しく思う気持ちもあったけれど。やはり彼女の浮かべる表情で見ていて一番落ち着くのは、その笑顔だった。
学校外で見る彼女はいつもよりも少しだけ着飾っていて、横の後れ毛が風に揺られる度に少しだけ、手を伸ばしたくなる。その気持ちは深く息を吐いて、誤魔化した。
「なつるさんは不思議な人ですよね」
近寄る度に、胸の奥から誰かに急かされているような気持ちになる。
見つけてしまうと、頭で考えるよりも先に足がそちらに向かってしまう。
そんな他には向けないような感覚を抱かせるのは、彼女だけだ。
ボクの言葉にぱちりと瞬く瞳。それを縁取る睫毛が長いことに気づいて、少しだけ鼓動が乱れる。
「それは、黒子くんの方じゃない?」
「ボクですか?」
「うん。黒子くんも充分不思議だと思うけど…あ、もちろん悪い意味で言ってないよ?」
ぱたぱたと手を振って付け足す彼女に、解ってますと頷くとほっとしたような笑顔を返される。
そんな、ありふれた言葉でも誰かを傷つけないように気を配るようなところも、彼女の傍に寄りたくなる原因の一つなのだろうと思った。
「私は黒子くんの方が不思議」
「そんなことないと思います」
「そんなことあると思います!」
「なつるさんの方がずっと不思議ですよ」
「絶対ないと思うけどなぁ…」
言葉遊びのようなやり取りに笑顔を溢す彼女を見ていると、ずっとそのままでいてほしくなる。
そのまま、ずっと笑っていてほしい。
こんな気持ちを誰かに抱いたことが、今までにあっただろうか。
なかった気がするな、と、これまでの人生を振り返って思った。
だからきっと、ボクよりも彼女の方が、不思議な人だ。
「あ」
どんな言葉でそれを認めてもらえるだろうかと、考えている時だった。
小さく声を漏らした彼女が、何かに気づいたように片手を挙げた。その視線の先を辿れば、民家の門から出てきた一つの影。
「颯…!」
今いる位置からそう遠くはない家から出てきたその影は、彼女の呼び声に反応して振り向いた。
遠くから見掛けたことはあっても顔を合わせたことはなかった彼女の弟は、どこか乏しい表情をそのままに近付いてくる。
「姉ちゃん…と、この間の人?」
「え」
数歩先まで近寄ってきた彼は彼女から自然な仕種で視線を外したかと思うと、ボクに焦点を合わせた。
「校門で。喋ってましたよね」
校門、というキーワードを頼りに思い出せる出来事と言えば、彼を見かけた日ぐらいしか思い当たるものがない。
しかしそれよりも、ボクの存在に気づいていたこと、今もすぐに合わさった視線に、驚いて一瞬息をするのを忘れた。
「…気づいたんですか」
乾きかけた喉から声を引き絞れば、彼女よりもつり目がちな瞳が不思議そうに瞬く。
その隣に歩み寄るなつるさんは、どこか楽しげに眦を下げていた。
「そりゃ、まあ…」
「颯も観察眼が人並み以上なの。颯、こちら黒子くん。偶然街で会って、送ってくれたんだ」
「どうも、黒子テツヤです」
「そっか…一人で帰ってこなくてよかった。送ってくれてありがとうございます、黒子さん」
なつるさんの弟だという彼は、特に表情を動かさずに軽く頭を下げた。
いつも穏やかな表情を浮かべている彼女とは、あまり性質は似ていないのかもしれない。
家も近く弟が出てきたのならここから先に進むのも図々しいかと、それではボクはこれで、と身を翻そうとしたところ、慌てた仕種で引かれた腕に肩が跳ねた。
「えっ! ちょ、ちょっと待って黒子くん! ここまで送ってくれたんだからお茶くらい飲んでいって?」
「え、でも…」
「もしかして、急ぎの用とかある…?」
「いえ、それはないですけど」
いいのだろうか。確か彼女の弟は、彼女のことをかなり気にかけていたようだったが。
二人きりでないとはいえ、家に上がらせるというのは快く思われないのでは、と視線をそちらに向ければ、彼は特に気にした様子もなく軽く首を傾けていた。
「まだそんな遅い時間じゃないし、よければどうぞ。姉ちゃんが作ってたパイもあるし」
「…それじゃあ、少しだけお邪魔します」
決して食べ物に釣られたわけではないけれど、頷いたボクを見て、未だ腕に手を添えたままだったなつるさんが嬉しげに顔を綻ばせる。その笑顔には、釣られてしまうかもしれない。
彼女の弟も、表情は変わらないが少なくとも不快には思われていないようなので、安心してこちらも頬を緩めた。
玄関先での初めまして触れられたままの腕に、少しだけ感じたのは優越感。
20120820.
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