折花
※悲話/多少のグロ描写有の部類となります。苦手な方はブラウザバックをお願いします。
私の世界にはもともと光なんてなかった。あったとしてもそれはほんのひと握り。やっとの思いで手にしたと思っても触れれば直ぐに泡になって消えていく、そんなもの。
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「いやだ、やめてっおばあちゃん!お父さん、助けてっ」
深く植え付けられたその思考の一つは祖母の執拗な虐待だった。
父方の祖母はどうしてか私の事が疎ましいらしく、成長するにつれて手をあげられる回数が増えていった。父は祖母の言うことに反論しない人で、母が居ない時であれば私が手を上げられていても助けてもくれない。
ただ静かに、助けを乞う私を光の宿らない目で見下ろす、ただそれだけ。
良家の跡取り息子、その娘。簡単な話だ、母は体が弱く子供は私一人しか身篭ることが出来なかった。そして産まれたのは女児。必要とされたのは一族を絶やすことのない男児。
出来の悪い嫁と望まれなかった子供。それを理解した頃には私の精神は荒みきっていたし、度重なる痛みと恐怖は心を壊すには充分で、母に連れられてあの家を出る頃には上手く笑うことが出来なくなっていた。
それでも月日はゆっくりと心を癒す。
母と2人だけの生活は慎ましくも穏やかで、ようやく家族の温かさを感じる事が出来るようになっていた。それなのに…
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「…おかあ、さん?」
学校から帰宅した家の中は血溜まりと血飛沫で真っ赤に染まり、今朝見たはずのそことは全く違う場所に見えた。ううん、違う場所であって欲しかった。
そしてこの場に居たはずの母の姿は無い。私の知っている母の姿は。所々に点在する母と思しき残骸に悲しみによる涙よりも恐怖からくる怖気と吐き気が私を支配する。
何が起こったの、泥棒?殺人?
でも、じゃあこれはなに?
なんでお母さんの体、殆ど……っ、!
思考が追いつく前に何かが私の髪を掠め揺らす。とても早く、冷たく、そして血腥い。ハラハラと落ちる自分の髪に赤黒い液体がドロりとついている。
呼吸が早くなる。何かが、確かに何かがここにいる。
束になり落ちた髪の毛の塊から視線を上げられずにいたものの、生温い息のようなものを感じて噴き出す汗を拭うことも出来ないままゆっくりと視線を持ち上げた。
− ママの ケぃタイ どこォ?−
「っひ、ぅ、あっ…」
声にならない声が漏れる。抵抗出来ない震えで歯がガチガチと音を立て目の前に現れた異形のモノから目が逸らせない。
“死ぬ”
そう思った。きっと母もこいつに殺られたんだ。
あまりの恐怖に目を閉じることすら出来ず、見開かれた自分の目に次に映ったのは別の異形。
ドチュッ!!グチャッ!!!
嫌な音だった。何かが潰れて液体が弾けるような音。普通では聞くことのないようなその音に血の気が引いていく。視線はそこに移せず自分がそうなる番をただ震えて待つしか無かった私に予想もしないような声が降ってきた。
「大丈夫かい?」
それは真っ黒な服に身を包んだ男の子。背丈は私より随分高いけどきっとそんなに歳は変わらない気がする。ちゃんと心配する色を宿した声は途端に私の体から力を奪い去った。意識が遠のく時、温かい何かに包まれているような気がして、お母さんに抱きしめられているみたい…そう思った。
それが私と夏油傑との出会い。
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「またやってるよ」
「ねぇ」
呆れたように言う硝子の隣で同年代が習うそれとはかけ離れた内容の参考書をトントンと揃える。視線の先には傑と悟の言い合う姿。喧嘩というより意見のぶつかり合いに近い。その末やり合うこともあるけど結局仲がいい2人を私は笑顔で見ていた。
「だいぶ笑えるようになったじゃんなまえ」
「皆のおかげだよ」
「9割夏油でしょ」
「なになに、何の話ィ?」
私が否定をする前に悟が話に割り込んできた。その後ろにはいつも通り落ち着いた表情で悟と私達を見る傑がいる。
私は傑のその表情が好きだ。見守ってくれているような優しさを感じるから。たまに同い年とは思えない時もあるけど。
「なまえが笑えるようになったのは大部分夏油のおかげって話だよ」
「硝子!」
「そりゃそうだろ。なんたって一から十まで傑が手取り足取り、アデッ!」
言いかけた悟の頭を容赦なく傑が叩く。溜息を吐きつつ「そこまでだ」と悟をいさめて笑顔の消えた私の手を引いた。
「行こうなまえ。ここには気遣いが欠如した人間しかいないから悪影響だ」
「えっ傑、ちょっと待って」
手にしていた参考書を机に置いて私の手を引く傑に着いていく。そんな私達を見送る硝子と悟の表情は“ニヤニヤ”と表現するのがピッタリのものだった。
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「ここなら落ち着くだろう」
「うん」
生徒数はそう居ないのに高専は広い。校舎と呼ぶにはどうかと思う建物の裏手、樹木の茂る一角に傑と落ち着いた。
「少し気張り過ぎじゃないか。別に高専にいる間中笑っている必要はないんだ」
「うん」
あの日私を救ってくれた傑は私を高専に連れて来てくれた。初めは治療の一環。でも母の一件以来何故か呪霊を認識できるようになってしまった私を最低限の学習が出来る高専で学べるように学長に話まで通してくれた。
呪術師としてみんなみたいに戦えるわけじゃないからせめてそのサポートが出来るようにと医学を学ぶことを決めた私にも笑顔で賛成してくれた。
そんな傑に他の人に向けるのとは別の感情を抱くのに時間はかからなかったし、まさしく地獄と呼べるあの場所から助け出してくれただけでも特別な存在。その人が今は私に過分な優しさと温かさをくれる。
「傑、少しだけ…いい?」
「いいよ。おいで」
本当はまだ上手く笑えない。それでも努力で笑顔を作れるようにはなった。それは本当に傑や硝子、悟のおかげだ。呪術師という危険と隣り合わせの組織の中にいるものの、彼らは私に安心できる場所をくれるから今はここが一番居心地がいい。
傑の胸に背中を預け、足の間にすっぽりと収まる。私を囲い込むように膝を経由して前で軽く組まれた傑の手は私とは違って大きいしゴツゴツしている。そっと触れれば、何を始めるのかと不思議に思ったのか傑の顔が背後から近付いてくるのが分かった。
「ん?」
「傑の手は大きいね」
「なまえと私じゃ違って当たり前さ」
「そうだけど、なんか……うん。安心できる感じなの」
そう言って組まれた両手ごと自分の腕で抱き込んで頬を寄せる。そうすれば悪戯に動かされる傑の指が擽ったくて小さく声が漏れた。
「ふふっ、私この時間が一番好き。傑の腕の中にいる時だけは一人じゃないって思えるから」
「そうかい?」
「うん。だからもしまた一人になってもこの時間のことは絶対に忘れない」
私の悪い口癖。
幼い頃から重ねられた心の傷はどうしても未来に光を見い出せなくなっていた。だから私がこの口癖を口にする度に傑は私を抱き締めて優しい声色で麻薬みたいな言葉をくれるんだ。
“もう一人にはしないよ” って。
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その日の夜は天気予報を見事に覆すような雨が降っていた。夕方までは雲もそんなになかったのに、今窓の外では稲光によって暗闇が時折眩い光に包まれている。
高専通いとはいえ呪術師でもない私は近くに小さなアパートを借りて暮らしていた。殺風景な部屋は年頃の女の子の部屋と呼ぶには寂し過ぎるものだったけど物欲がないから別に構わない。
ただ欲するのは安心できる場所と、慣らされ、満たされてしまったあの人の温もり。それだけだ。
「もう来ないかな」
今日は傑が任務を終えてこっちに帰ってくる予定の日。数日会えない日が続くと帰りがけにいつも顔を出してくれていたけどもう日付が変わる時間帯だ、さすがにないかと思い既に暗い部屋の中、ベッドへ潜ろうと立ち上がった時だった。
−コンコン−
インターホンではなく2回扉を叩く音、そして同じ間隔でそれが3回。傑との合図だ。扉の前に急ぎ簡易な鍵を迷わず開ける。
「傑」
「……」
「…それ、どうしたの」
その姿に直ぐには言葉が出てこなかった。傘が無かったのか、ずぶ濡れなのはまだわかる。でもそうじゃなくて、それじゃなくて。
「早く入って!どこか怪我したの?」
ずぶ濡れの傑の衣服には大量の血液が付着していた。この量、傑のものなら危険だ。
「大丈夫。私のではないんだ」
「そう、なの?」
俯いたまま視線の合わない傑を見つめながら何か胸の奥が嫌な音を立て始める。でもそれには気付かないふりをして、とにかく拭くものを。そう思い洗面所へ行こうと振り返えろうとした私の身体は傑によって動きを封じられる。
「傑?」
「……なまえ、私は、」
何かを言いかけたのにそれ以上がなかなか紡がれない。力なく、でも確かに抱き締められたままそっと傑の顔を覗き込んだ。
ここ最近、正確には星蒋体の一件からどこか傑の様子はおかしくて、昔みたいな“穏やか”だけで受け止められない笑顔が増えていた思う。悟の覚醒や灰原くんのこともあったし、いろんなことが重なったからなのかと踏み込むのを躊躇っていたけど、もしかしたらその判断は間違いだったのかもしれない。
「辛いことがあったなら言って、私に出来ることは少ないけ、ど…っん、」
言い終わる前に唇を塞がれた。まるで何かに急いているように順序を踏み倒すような深い口付けは傑にしては珍しくて、やっぱり胸の奥が不安で渦巻いていく。でも抵抗は出来なかった。
間違いなく愛しさからだけではない。傑の濡れた髪や服が私の身体を濡らしていく。肌を重ねても一向に温まる気配もなく、いつもみたいに優しい笑顔が向けられることもない。それがどうしようもなく不安で、こんなに近くにいるのに傑がどこか遠くに行ってしまう気がした。
「あっ、ん…すぐ、っる」
普段の行為とは全く違うそれに戸惑いつつも全てを受け入れる。何度達しても抵抗の言葉を吐くつもりはなかった。“抱き潰す”その単語がピッタリなくらい暴力的な行為、それでもこの行為によって傑を苦しめる何かからほんの一瞬でも彼を解放してあげられるなら私に出来ることは何でもしてあげたい。そして私も胸中に渦巻く言い様のない不安をこの快楽で掻き消したい。
「……どうして拒絶しない」
「はっ…だ、て……す、きだか、らっ」
本当の気持ちなんて言えるはずがない。不安で壊れそうな心の内を今の傑に吐露することは出来ない。
だからこんな私の言葉でも、ちっぽけな愛の言葉でも、傑を繋ぎ止めることが出来たなら、そう思った。
「ひ、…ぅっ」
私の言葉を聞いた傑は一瞬全ての動きを止めて、そして私の首に手をかけた。
突然酸素を取り込めなくなって体感したことのない苦しさが身体を襲う。視界がじわじわと歪んで傑の表情がぼやけていく。それでも何とか私の首を締め上げる傑の手に自分の手を重ねて、苦しみの中で出来る限りの笑顔を作った。
−い い よ−
声にならない声は届いただろうか。
どうしてこんなことをされているのかなんてわからない。だけど傑に殺されるなら構わない。もともと死ぬはずだった私を救って生かしたのは傑だったし、傑のいない世界で私は息を出来る自信がないから。
与えてもらうばかりで何も返してあげられなかった事を悔いながら遠のく意識の中で見上げた傑は笑った気がした。
「私も、愛していたよ」
身体から力が抜けて傑の手を離してしまった時、最後に耳を掠めたその声が聞き間違いじゃなきゃいいな…そう思いながら完全に意識を手放した。
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私が目を覚まして最初に見たのは、滅多に見ることのない硝子の悲痛な表情だった。
重く苦しさの残る身体はどうなってしまったのか。外は明るいけれど今はいつで、傑は…どこに行ったのか。
聞きたいことはあったけど身体は声が出せるような状況じゃなくて硝子が施してくれる治癒に大人しく身を委ねた。
「五条、なまえ生きてた」
通話先の相手である悟に言ったその言葉が意味するものは…。やっぱり傑はもうどこかへ行ってしまったんだと悟った。じわりと滲み始める涙が硝子の姿を歪めていく。
「なまえ、」
どうして。二度と会えないならあのまま殺して欲しかった。そうでなくても、せめてこんなに苦しくならないように憎ませて欲しかった。このまま手放されてどうやってあなたのことを忘れたらいいの?最後の最後にあんなに優しく笑って、
「…愛してたなんて、言わないでよっ」
回復したばかりの喉が絞り出した言葉はそれだった。
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それから直ぐに耳に入った傑の奇行。たくさんの人を手にかけて呪詛師へと転じ、自身の親すら手にかけたこと。全てが信じられなかったけどそれが事実。
私は傑から言わせれば“猿”の部類、けれど自分の親すら殺した傑が私だけは殺せなかった。それを忘れるなと悟に言われた。
そして“生きろ”と、殺しておけば良かったと後悔させてやれと。
私に無理矢理にでも生きる意味をくれようとした悟に笑ってみせたけどその笑顔は偽りだ。
傑のいない世界で生きれるかなんて分からない。でも悟や硝子の不器用な優しさや、今まで私を支えてくれた事には報いたい。それに、生きてさえいればまた傑に会えることもあるかもしれない。その時私が傑にとってどんな存在かなんて分からないけど、もう一度傑に会えたならその時はサヨナラを言ってあげたい。
本当は誰よりも優しい傑が、きっと一人で悩み続けた結果出した答え。それがこの世の中的には悪だとしても、私だけはその妨げにならないように。
今度こそ躊躇うことなく私の命を取れるように。