甘い痛み
私の彼氏はとても可愛い。
そう言うと彼はむくれるのだけど、本当に可愛いのだ。
「棘くん、電車乗り遅れちゃうんだけど」
「おかか」
少し緩めのトップスにハーフパンツというラフな格好をした目の前の彼は、断固として玄関の前での仁王立ち体制を崩そうとはしない。
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土曜の今日、少し任務が落ち着いてきた棘くんは時計の短い針がてっぺんに来るくらいの明るい時間から家にやって来た。
ただなんというか、タイミングが悪い。ついさっき職場の人から誘われた飲み会に出席する連絡を返し終えたところだったのだ。
久々に二人でゆっくりできる時間が出来たと来てくれた棘くんに申し訳ないと思いつつもその事を伝えると、まあ見事に不機嫌が顔を出して、彼特有の美味しそうな単語で責められつつ、そのままなし崩しにベッドへと連行された。
まだ陽も高い昼間なのに、だ。
棘くんの性格上このくらいの事で本気で怒らないのは分かっている。それでも今日は独占するつもりだったのだと不機嫌を隠さない彼が可愛く思えてしまって少しからかったのが良くなかった。
「…腰痛い」
身支度をしたいのに身体が重くてしょうがない。手加減も何もないなあと思いつつ、少しの差ではあるがやっぱり彼の若さを妬んだ。日に日に増す独占欲と素直に欲を向けてくれる事はとても嬉しい。大好きな人と肌を重ねるのは私だって嫌いじゃないし。
ただ、嫉妬が絡むと少々行為がエスカレートするのは如何なものか。
すっかり機嫌を直した棘くんを部屋に残してシャワーを浴びメイクを施し、卸したての一目惚れしたワンピースに袖を通して棘くんの前に現れれば、またしても不機嫌が顔を覗かせる。
なんで?さっきまでのご機嫌はどこに行ったの?
「棘くん、私もう行かなきゃだから鍵かけて行ってくれる?お風呂も使っていいからね」
派手すぎないピアスやリングをチョイスしてバッグの中に必要な小物を滑り込ませていると返事をするわけでもなく棘くんが動き出した。
何をするのかと目の端で追えば彼は決して大きくはない我が家の玄関の前で仁王立ちをキメている。
仁王立ちとは言え、普段着ている高専の制服ではないし、仮にと付けているマスクとサラサラの白橡色の髪が相まってその姿は単に可愛い。絶対に言えないけど。
「何してるの?」
「高菜、ツナマヨ」
「いやいや何もないし、職場の人たちと飲むだけだから」
「おかか!…明太子」
「浮気?そんなのしないよ」
普段から気怠げな眼をしている彼だけど、今はそこにプラスで嫉妬の色が乗っかっている。
どうやら“職場”と称するその中に男性がいるのは分かっているらしく、オシャレのし過ぎが気になるようだ。
私の中は棘くんでいっぱいでそんな余裕ないんだけど、そう思って眉尻を下げて笑えば腕を組んでいた棘くんが突然ちょいちょいと手招きをした。
「なに?」
自分の鎖骨あたりを人差し指でとんとん叩いているから何かが付いているのかもしれない。
「何か付いてる?」
取ってくれるのかと思って近付いたのに、手で触れる真似をしたかと思ったらマスクを引き下げ急に鎖骨あたりに顔を寄せてきた。そしてサラサラの髪の擽ったさに小さく声がもれた時、チクッと痛みが走る。
「痛っ」
「しゃけ!」
気づいた時には手遅れ。割と胸元が広く開いたワンピースだと言うのにまんまとしてやられた。
確信犯である目の前の彼はとても満足気にマスクを摘んだまま笑っていて、呪印の施された口許も完全に弧を描いている。
「え、もうっ、こんな目立つところに付けるなんてありえない!棘くんのバカッ」
「おかかっ」
馬鹿じゃない牽制だ、とクスクス笑いながらマスクを戻している棘くんをねめつける。
せっかくのワンピースは今日はお預けだ。じゃなきゃこの独占欲の象徴を職場の人達に見せつけなければならなくなる。
「着替えなきゃ。うわっ、本気で電車遅れちゃう」
一通り満足したのか慌てる私を穏やかな表情で見ている棘くんをもう一度ねめつけて、私は再度クローゼットへと手を伸ばした。
絶対にいつか仕返ししてやると心に決めて。