カリカリとペンを走らす音が静かな室内に響く。
自分の受持ち教科の計画書を書き上げていた晴香は、すっかり凝り固まった肩をほぐそうとペンを置き、そのまま組んだ両手を上へと伸ばした。
心地よい弛緩感が広がり、ほぅっと息をつく。
そしてそのまま汗を掻いたコップに手をかけ口に含めば、冷えた麦茶が心地よく身体を潤してくれた。


(集中力、切れちゃったなぁ)


一度途切れてしまえば、集中力を再び掻き集めるのは難しい。
こうなれば小休憩を入れようと、向かいの八雲に目を向けた。


「そういえば八雲くん、何か欲しいものはある?」


コトリ、と汗を掻いたコップを置けば、中に入っていた麦茶が光を受けてきらりと揺れた。

突然かけられた声に八雲がゆるゆると顔を上げる。
何だ急に、とでも言いたげなその表情の意味にすぐ気付き、小さく苦笑してしまった。


――相変わらず自分のことには無頓着なんだから。


「ほら、八雲くんもうすぐ誕生日じゃない?」

だから。


そう付け足してやれば、ようやく八雲も理解したらしく、小さく「あぁ」とだけ零した。
その短い一言と表情で、八雲自身忘れていたということが容易に見て取れ、思わず苦笑いになってしまう。


こういうところは出会った頃から変わらない。


それは無頓着なところだけでなく、ぼさぼさな頭も、眠そうな表情も、ひねくれているけど優しいところも、変わらず綺麗な瞳も、全部、ぜんぶ。

ただ変わったことといえば、二人がこうして共に過ごす場所がかつての映画研究同好会の部室ではなく、それぞれの部屋──そう、大学を卒業して、一人暮らしを始めた八雲の部屋、だったりすること。
それから二人の関係に“恋人”という名がついたこと、くらいだ。


「…特にないな」


一応考えてみたらしく、ほんの少しの間の後に八雲の返事が返ってきた。
その答えに晴香はがっくりと肩を落とす。


やっぱり。


恋人になってから、更に言えば八雲と出会ってから、何かリクエストをしてもらったことがなかったのだ。
それは特別な日に限らず普段からそうで、八雲が自分に何かを求めてくるということがほとんどなかった。
それはまるで、いつも遠慮されているようで、距離があるようにすら感じられて、寂しかった。


自分は八雲からいろんなものを与えてもらっていると言うのに。


「本当に?なんでも良いんだよ?」


だから今年こそ、それも誕生日という特別な日だからこそ、八雲が望むものを与えたい。してあげたい。


晴香は食い下がるように少し身を乗り出しながら八雲の目を覗き込む。それはもう真剣に。
その気迫に八雲は少し目を瞠り、そして小さく笑った。


「本当に、特にないんだ」
「物じゃなくたって、何かしたいこととか、して欲しいこととか!」
「何でもいい」
「もう!投げやりなんだから!」


今や机に手をついて前に乗り出していた晴香は、怒ったように拗ねたように口を尖らせた。
恨めしげでさえある視線に八雲は困ったように頭を掻く。
晴香は尚もふくれっ面。


カラリ、コップの中の氷が音をたてた。
そして小さく、八雲が息をつく音がした。



「…本当に僕は何でもいい。それは別に投げやりな訳じゃなくて、君からのものなら何でも良い、ということだ」


やがて観念したかのような声で告げられた言葉は、普段の捻くれた八雲からは想像もつかない程素直なもので。
思いがけない言葉に晴香が驚いて見つめれば、照れていると思ったその顔は、ただただ優しく微笑んでいた。


「僕はそれだけで充分だ」


穏やかな声音で更に告げられた言葉に、晴香は口を引き結ぶ。


きゅっと、胸が締め付けられた。


その表情は優しく穏やかなものだというのに、どこか切なくて、辛そうで、寂しそうだと思った。
とても遠くに感じられた。見ているだけで、苦しくなった。


まるで、自分にはそれだけで充分だと、諦めているようで。
求めることを怖がっているようで。



あぁ、そうか。八雲はまだ──




「全然充分なんかじゃないよ、八雲くん」


静かで、穏やかな晴香の声が響いた。
それは包み込むような温かな声だった。
湛えた微笑みはどこまでも優しくて、深くて。

八雲は驚いたように晴香に目を向けた。


「何かを求めることは、悪いことじゃないんだよ。もっと甘えたって、もっと我が儘言ったって、大丈夫なんだよ。
私じゃ頼りないかもしれないし、出来ることなんてたかが知れているかもしれないけど…」


えへへ、と晴香は眉を下げて笑う。


「それでも、一人じゃ叶わないことだって、二人でなら叶えられるかもしれないじゃない」


紡がれる言葉に八雲はただじっと晴香を見つめていた。
それはどこか眩しそうに、泣きそうに細められていて。

そんな八雲を、晴香もまっすぐと見つめて。



「だから、欲しいものは欲しいって言っていいんだよ」


──欲しがらなきゃ手に入らないものだってあるんだから




そう笑いかけた赤と黒の瞳が、確かに、揺れた。









「…君は、本当にお節介だな」


少しの沈黙の後、ようやく口を開いた八雲は小さく笑った。


「どこかの誰かさんが素直じゃないから、ついお節介になっちゃうんです」
「人のせいにするなよ。君は根っからのお節介だ」
「もう!」

本当に一言多い!

憎まれ口を叩く八雲はすっかりいつもの八雲で、これまたすっかりいつものように口をへの字にした晴香を意地悪げに眺めていた。

その顔は、どこか晴れ晴れとして。


「何でも良いと、君は言ったな?」


にやり、と八雲が口角を上げた。
明らかに好戦的なその笑みは、有無を言わさぬようなもので。
変わらず眠そうな半眼は、まっすぐ晴香をとらえていた。


「う、うん」
「本当だな?」


…何かとんでもないことを言い出すんじゃないだろうか。


意味深な確認にほんの少し怯みながら、晴香はごくりと唾を飲んだ。


それでも。
それでもさっきの言葉を撤回する気など毛頭ないし、その気持ちが変わるはずもなく。



「わ、私に出来ることなら!」



無茶な要求だろうが、事件の手伝いだろうが、何だってやってやる!


覚悟を決めて、もちろん、の意を込めて口を開き、八雲の視線をまっすぐと受け止めた。
確かめるように、試すように、意地悪げでどこか不安げなその視線を。



「…その言葉、忘れるなよ」
「え?」
「僕はそろそろ読書に戻る。君もさっさとその仕事を片付けるんだな」
「え、え??」


どんな要望もどんと来い!と息巻いていた晴香は拍子抜けして、思わず固まってしまう。

なんと八雲はそれだけ告げると、そのまま机の上に置いてあった読みかけの本をパラパラと捲りだし読みだしてしまったのだ。


「…八雲くん?」
「なんだ?」
「なんだじゃなくって、誕生日プレゼントの話は?」


怒りたくなる気持ちを抑えてそう問えば、白々しくも「あぁ」なんて呟いて。


「それなら決まった」
「じゃぁ、」
「でもまだ言えない」
「え?それじゃ用意できないじゃない」
「僕に用意が必要なんだ」


訳がわからない。


首を傾げる晴香に構うことなく、八雲はパラリとページを捲る。
その視線は完全に文字を追っていた。


長い付き合いで分かっている。
こうなってしまえば、八雲はもう教えてはくれないだろう。



「じゃぁ、その用意とやらが済んだら教えてね」



それでも欲しいものがあると言ってくれただけでもいいかと諦めて、晴香はひんやりとした麦茶に口をつけた。















「八雲くん!」

からりと晴れた青空の下で快活な声が響く。

淡いブルーのワンピースの裾をひらりと揺らし、夏らしいひまわりの造花がついた鞄を片手に晴香は小走りで八雲にかけよる。

「お待たせ」

何だかいつかの表参道での買い物を思い出した。

あれはデートと呼ぶには素っ気ないものだったが、今日のは正真正銘デートだ。

今日はいよいよ迎えた八雲の誕生日。
結局前日になっても八雲から欲しいものを告げられず、どうしたものかと考えていれば、
「明日一日、付き合ってほしい」
と八雲からの申し出があったのだ。
もちろん、元々八雲と過ごすつもりで予定を空けていたので問題はない。

そんなことよりもそう、滅多にない、八雲からの申し出なのだ。

これが喜ばずにいられるかと、晴香はお気に入りの服を身にまとい、あの頃とは違い控え目で、けれど自分を引き立たせてくれる化粧を施して、指定された待ち合わせへと向かった。


「遅い」


不機嫌そうに腕を組んだ八雲は、いつもと変わらぬYシャツにジーパンという出で立ちで。おまけに寝癖つきときた。
せっかくのデートだというのに何も変わらない。

まぁ、八雲らしいけど。

それでもあの時とは違い、恋人同士なのだから、もう少し雰囲気は大事にしてほしい。


「…八雲くんのばか」
「遅れてきておいて、随分な言い様だな」
「うっ…すみませんでした」
「全くだ」


隣に並んだ晴香をじとりと見遣り、八雲も歩き始めた。
その足取りは、ちゃんと晴香に合わせられ、ゆっくりしたもので。
ここらへんはあの頃と違うなと、晴香は小さく微笑んだ。

あ、そういえば、と晴香が急に声を上げた。


「すっかり言うの、遅くなっちゃったね」
「何がだ?」
「何がって…」


ついつい苦笑。


「八雲くん、誕生日おめでとう!」


仕切りなおして、そうとびきりの笑顔を浮かべて伝えたのは、今日一番に伝えたかった心からの気持ちで。

八雲が照れくさそうにがりがりと頭を掻く。
それから小さく返ってきたのは「あぁ」という一言で。


──あぁ、って何だ、ああって。


分かりやすいそれに、つい笑ってしまう。
可愛いやつだ。
ただ、笑えば八雲が不機嫌になるのが目に見えたので、ばれないようにこっそりとに止めておく。

八雲の扱い方も、慣れたものだ。


「…それにしても、なんだか懐かしいね」
「あぁ」


二人ゆったりと歩きながら、周りを眺める。
この道のりは晴香も八雲もよく知っていた。

二人が通い慣れた、といっても八雲は住み慣れた、あの明政大学の近く。


この近辺は二人にとって庭のようなものだった。
よく立ち寄ったコンビニやパン屋。
それから友達、たまに八雲を引っ張って連れて行ったカフェ。

なにより、この道は──

「大学に行くの?」
「そうだ」
「何で?」
「君は今日一日、僕に付き合ってくれるんだろ?」
「そうだけど…」

質問を質問で返された。

「じゃぁ、何だっていいだろ」

これは暗に、聞かずに付き合え、と言う事。

こういう所も変わらないなと晴香は小さく肩を竦め、大人しく懐かしい回想に浸る事にした。










「ちょっと八雲くん!鍵返してなかったの?」

批難めいた声で問えば、悪びれもせず「学校のは返したさ」と返ってきた。つまりそれはスペアか、とその手の中にある馴染み深い鍵をじとりと睨んだ。

八雲の宣言通り、明政大学に辿りついたのは先ほどだった。懐かしい校内を眺めながら横切り、よく見知ったB棟裏のプレハブに迷わず歩き進めた八雲は、一番奥の部屋前で足を止めた。そしてごく自然に、それまで黙って着いてきた晴香の目の前で件の鍵を取り出し、今に至るという訳だ。


全く何て奴だ。

これ以上言っても暖簾に腕押しだと晴香は諦め、懐かしい、穴が空いた扉へと視線をずらす。
その部屋にかつてのプレートこそもう掛かってはいないが、一番端のこの部屋を間違うはずもない。映画研究同好会というのは名ばかりの、八雲の部室兼自室。…だった部屋。
学生時代、よくこの扉の向こうの八雲に会いに行った。
やぁ、と開ければ必ず「またトラブルか」なんて出迎えられて。まぁ、確かにトラブルもありはしたものの、ここでは他愛ない話をして過ごした事の方が多い。
あの頃の自分達を思い出せば、甘酸っぱい気持ちが蘇るようだった。


本当に、いろいろあった。


懐古に浸っていれば、唐突にガチャリという音に引き戻された。

「えっ!まずいよ八雲くん!」

見れば八雲が鍵を開け、扉を開けていて。

「大丈夫だ。この部室は今も空き部屋だ」

だからって、
そんな言葉は、中に入っていった八雲には届かなかった。






ぷっ

八雲の後に続いて中に足を踏み入れた晴香は、堪らず吹き出してしまった。

そこに、まるで学生時代と変わらない八雲がいたからだ。

そこは本当に変わらないままだった。
…それは則ち、八雲がいかに無機質な部屋に住んでいたか、という事でもあるが。
そんな変わらない備え付けの机と椅子に、そしてあの頃の定位置に、八雲が腰掛けているのだ。

それがあまりにも学生の時と変わらなくてついつい笑ってしまったのだった。


「そうしてると八雲くん、あの頃と全然変わらないね」
「そう言う君は、歳取ったな」
「たった数年前でしょ!」

ガタンっと怒った晴香がこれまたあの頃の定位置、八雲の向かいに座った。

よほど腹がたったらしく、それを言うなら八雲くんだって同い年じゃない、と不貞腐れている。

女性に年齢の話をするなど、失礼だ。


「そうだな、君はいつまでもあの頃のままだ」
「え…」
「君の騒々しさはいつまで経っても変わらない」
「た、多少は落ち着いたもん!」
「どうだか」


むっとする晴香を他所に、八雲はふぁぁ、と伸びながら欠伸をしてみせる。
そんな姿を見れば、こちらまであの頃に戻ったように落ち着いてしまった。
晴香も気を取り直して懐かしい室内を眺めることにした。



「…あの日、」



ふいにぽつりと。
囁くような小さな呟きに、晴香は八雲に視線を戻す。
見れば八雲は、懐かしむように目を細めていて。


「あの日、君が初めてここに来た時の事を覚えているか?」
「うん、覚えてるよ」
「僕は正直、朧げにしか覚えてない。ただの通りすがりの人間のように、またすぐ関わりなんかなくなると、去って行くと思ってたから」
「八雲くん…」
「けど、今もこうして、君はいる」


あの時はこうなるなんて思いもしなかった。

そう、八雲は笑う。


「私も、第一印象は嫌な奴、だったのになぁ〜」
「君は最初から、僕にとってトラブルメーカーだったけどな」
「…やっぱり嫌な奴」
「事実だろ?事件が終われば君も去る、そう思っていたのに、実際君は何度もトラブルを拾ってはやってきた。懲りもせず、何度も」
「別に、トラブルがなくたって、来てましたよ〜っだ!」


確かに事実そうだったかもしれないが、それだけの目的で来ていたと思われていたなら、心外だ。
晴香はべーっと舌を出して抗議する。
そんな晴香に、八雲は「分かってるよ」と笑って見せた。


「…ただ、君とそれきりだったとしても、僕は君のことを忘れなかったと思う」
「え!?」


昔を思い出しているのだろうか。遠くを見つめるような何気ない八雲の一言に、どきりと心臓が大きく跳ねた。

それって…


「君は僕が出会った人間の中で、一番変な奴だったからな」
「失礼ね!」


──そんなことだと思った!

晴香は一人肩を落とすが、八雲は全く気にしてなどいるはずもなく。


「私は全然変じゃありません!」
「変だろ。極度のお節介で、馬鹿がつくくらいお人好しで、おまけに…僕の眼をきれいだなんて、そんなすっとぼけたことを言ったんだから」
「だって、本当にきれいなんだもん」
「だから、君の感性がどうかしてるんだ」


苦笑するように首を振って見せた八雲は、けれど嬉しそうでもあって。
そこでようやく、八雲なりの照れ隠しと分かり、晴香も小さく笑う。


こうしていると、本当にあの頃に戻ったみたいだ。


「今でも、そう思うか?」


一瞬、そう問いかけられて意味が分からなかった。
きょとんとすれば、八雲はちらりとこちらの返事を待っていて。
何てことない体を装ってはいるが、その奥底は不安げに見えて。

考えて、その意味をすぐに察する。


「当たり前じゃない」


逆に何でそんな事を聞かれるのか分からない。

晴香がそう首をひねれば、八雲は小さく息をつくように「そうか」とだけ零した。


そして


「やっぱり君は、変わってる」


そう呟いて、満足そうに微笑んだ。













──やっぱり、今日の八雲は変だ。


あの後、「よし、行くぞ」なんて八雲がいきなり立ち上がった。
今までのやり取りの余韻など一切ない唐突な切り替えに、晴香がついていけずポカンとしていれば、もうここに用はない、とだけ残して八雲は歩き出してしまったのだ。

用も何も、ここに来て座っただけじゃない!

そう追いつきながら言えば、八雲が呆れたような目で晴香を見やり、更にはため息までつくものだから、晴香はますます混乱したまま八雲の後を追うはめになった。


そして、手頃な店で遅めのランチをとったあと、また行き先を告げずに進みだす八雲に連れられ来てみたのは、あの川原で。


徐に川岸で手を合わせた八雲に倣い、晴香も手を合わせ、そして二人そろってぼんやりと景色を眺める。


キラキラと流れる川面や、水門を眺めれば、あの事件の記憶が鮮明に蘇る。
哀しい、事件だった。

そう言えばあの時は、本気で死を覚悟した。
けど、八雲が助けてくれた。それこそ、命がけで。

あの時だけじゃない。
いつだって、必ず八雲が助けてくれた。



「…君は、いつだって他人の為に必死になって、突っ走る」

八雲も同じ事を、あの時のことを思い出していたのだろうか。ぼそりと隣で零された言葉に驚いて、八雲を見上げる。

「それが不思議だったよ、僕には。理解出来なかった。純粋な優しさや、愛情など、ないと思っていたから」
「八雲くん…」
「けど、君は本当にそういう奴だった」

独白のようなそれは、優しかった。
そして同時に自分を線引きしているかのように感じられた。
そんなこと、ないのに。


「八雲くんだって、そういう奴じゃない。何度も私を助けてくれた」


どれだけ八雲が、優しい人なのか。
人の痛みが分かる人なのか。
近くで見てきた自分はそれを一番よく知っている。
その温かさを。

だから。


「八雲くんだって、人のこと言えないんだから」


そういつものお返しとばかりに嫌味たらしく言ってやる。
ほんの少し、八雲の物まね付きで。

八雲が、虚を突かれたような顔をした。それから、何とも言えない表情をして、がりがりと頭を掻いて。まるで苦虫を噛み潰したような顔。
それが面白くて晴香が笑えば、片眉をあげてじとりと睨まれた。

あ、からかいすぎた。

そう思ったが、時すでに遅し。


「でも、僕はそんなに危なっかしくない」
「そ、それは…」
「それに君は、いつも考えなしに首をつっこんで、迂闊で、」
「う…」
「挙句、一人で暴走するし」
「はい…」
「人のために自分が危ない目にあって助けられてちゃ、世話ないだろ」
「返す言葉もございません」
「全くだ」


案の定返り討ちにあった。
まさかデートで説教を喰らうなんて。
しかもある意味思い出深い、ここで。

しゅん、と小さくなる。
今までを振り返ってみればどんどん居た堪れなくなり、耐えきれずちらりと八雲の横顔を窺ってみた。
思いの外、その顔は柔らかく笑っていた。

八雲の視線は、少し茜色になりかけた空へと向けられている。

何となく自分もそちらへ視線を向けた。


「けど、そんな君に救われる人間もたくさんいる」


向かいの川岸を楽しそうに走って行く、小学生の声に紛れて聞こえた、それ。


「え?」
「…とにかく、僕は君といると心臓がいくつあっても足りないってことだよ」


なんだかはぐらかされたような気がしたが、八雲はもう空へ目を向けたまま動かない。聞きたい気もするが、その纏う空気が優しいから、これ以上の追及はしないことにした。
…逆に痛い目を見そうだし。
ただ、悔しいから少しばかりの揚げ足取り。


「それはつまり、私といると、退屈しなくていいってこと?」
「そうだな、君といれば一生退屈しなさそうだ」
「へ…?」

い、一生って!?


思わず硬直した晴香を他所に、また八雲は「行くぞ」と歩きだす。


…ほんと、八雲には敵わない。


晴香はがっくりとうな垂れて、その背中に走りより、せめてもの仕返しにと八雲の脇腹をつついた。

八雲が、跳ねた。









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