「最後に付き合って欲しいところがある」
川原からの帰り、帰宅する人々で溢れる電車の中。人ごみから守るように晴香の前に立っていた八雲は、流れる景色を車窓から眺めながらそう言った。
その顔は、何かを決意したようで、けれどまだ揺らいでるように不安げで。その横顔が、切なくて。
そんな顔を、一人でしないで。
気付いた時には晴香は思わず、その手を握りしめていた。
「もちろん、どこへだって、八雲くんと一緒なら行くよ」
驚く八雲に、温かな笑顔を浮かべてただ笑ってみせれば。
あの日、晴香が欲しいものを尋ねたあの時のような。
眩しそうで泣きそうで、嬉しそうな、そんな笑みを八雲は浮かべて。
そっと小さく頷いてみせた。
どこへだって。
その言葉に、気持ちに、偽りなどなかった。
そうして強い決意を持ってやってきたのだが。
「八雲くんの行きたいところって、ここ?」
「…ああ」
まさかまさかと思いはしたが、坂道を登りきり、門をくぐったところで疑念は確固たる確信に変わった。
──そこは、八雲の実家である、お寺だった。
予想外の場所に思わず拍子抜けしたのは、仕方が無いだろう。
「八雲くん、本当にここでいいの?」
「なんだよ、ここじゃ悪いのか?」
「そうじゃなくって、せっかくの誕生日だし、他に行きたい所があったんであれば、」
「いいんだ。君と、ここに来たかったんだ」
足を進めながら、八雲はきっぱりと言い切った。
そんなの、いつだって一緒に来れるのに、とか。
ちょっと前にも八雲と二人、後藤家の夕飯に誘われて来たばかりじゃない、とか。
言いたい事はたくさんあったが、八雲がここに来たかった、と言ったのだ。
ならば自分は全力で八雲の望みを叶えるだけだ。
ふと、八雲が立ち止まる。
そこは、
「…一心さん」
八雲の叔父であり、父親でもある、一心の墓の前で。
あぁ、そうか。
八雲は誕生日に、父親の元へ来たかっただけだ。
何だか、すとんと納得出来た。
手ぶらで来てしまったことが悔やまれたが、一心ならば笑って許してくれるだろう。
またきちんと来ますね、と、心の中で詫びてから、晴香は手を合わせる為しゃがみ込んだ。
そして、気付いた。
「あれ?」
供えられている季節折の菓子も花も、真新しい。
それこそ、今日供えられたような…。
「あぁ、今日の朝来たからな」
晴香の目線に気付いたらしい八雲がしれっと説明する。
「え?じゃあ何で…?」
「言ったろ、君と来たかったって」
答えになっているようで、なってない。
しかし八雲はまたもやそう言いきり、晴香の隣にしゃがみ込み手を合わせて黙ってしまった。
晴香もそっと手を合わせ、目を閉じる。
穏やかに笑う一心の姿が、浮かんだ。
八雲を心から愛していた人。
過酷な運命の荒波に、八雲と懸命に立っていた。それどころか、受け止めて、立ち向かっていた。
その上で、いつだって八雲や奈緒に笑いかけていたのだ。
こんなに強くて優しい人を、他に知らない。
(一心さん、八雲くん、最近よく笑うんですよ。捻くれ者は変わらずだけど)
心の中で語りかけながら、伏せていた瞼を上げ、そっと隣の八雲を見る。
その横顔は、優しい。
(自分の信じる道を進んでて、隣で見てると眩しいくらい。いろんな人の想いを、救ってるんですよ。私を助けてくれたように)
今の八雲は、どことなく一心に似ている。
全てに絶望していた八雲が、それでも光を見失わなかったのは。
その心を喪わなかったのは。
きっと、一心が傍に居たおかげだろう。
一心は、八雲を導き、照らす光だったに違いない。
それは、今も。
(一心さん、今も皆を見守ってくれていますか?笑ってくれていますか?)
…ふいに、脳裏に、一心が逝った日の八雲の背中が思い出された。
壊れそうで、崩れ落ちそうだったあの背中。一緒に運命に立ち向かってくれていた一心は、八雲にとってはもはや半身のようなものだったのだろう。
八雲も、一心を心から愛していた。
だから。
(私、ずっと八雲くんの隣にいます)
だから、あの日、心に誓ったのだ。
一心の代わりにはなれない。
けど、自分は何があっても、八雲の傍にいようと。
出会った頃から、利用するとか、されるとか、そんなのを抜きにした関係でありたいと思っていた。
きっと、あの時から私は八雲の事を──…
(約束します。だから、安心して見ていてください)
あなたが繋いで導いてくれた、私達のこれからを。
晴香が再び目を開けると、穏やかな眼差しの八雲と目があった。
「随分長いこと話し込んでたな」
「うん」
立ち上がった八雲に倣って、晴香も立ち上がり伸びをする。
見上げた空はすっかり夜の帳が降り、星が綺麗に輝いていた。
「八雲くん、ありがとう」
「…は?」
「ここに、一緒に来たいって言ってくれて」
あなたの大切な人の元へ、いつだってこうして連れてきてくれて。
あなたの大事なものを、いつだって一緒に大事にさせてくれて。
にこりと笑えば、八雲がぽかんとして固まっていた。
少し見開かれた左目からは、綺麗な赤がよく見える。
やっぱり、きれい。
「君は、本当に変わってる」
やがて小刻みに肩を振るわせ、八雲は笑いを押し殺すように言った。愉快そうに。
ただ、笑われるようなことを言った覚えのない晴香は困惑ばかりだが。
ついには八雲が声をあげて笑った。
「や、八雲くん?」
「ありがとう、と来るとは思わなかった」
なんとか笑いを呑み込んで、八雲は晴香に向かい合う。
さぁっと優しい夜風が二人の髪を揺らす。
「君に、聞いて欲しいことがある」
「うん」
「本当は、もっと違う場所が良いんだろうけど、どうしてもここが良かったんだ」
そっと優しい目をして、一心の墓石に目をやって。
それから晴香に戻した視線は、どこまでも真っ直ぐだった。
月明かりに照らされた赤い瞳が吸い込まれそうなほど綺麗で、晴香は小さく息を飲む。
「君には、僕といるせいで、辛い想いばかりさせた」
「え?」
「叔父さんのことだってそうだ。それだけじゃない。僕といる事で、たくさん危険な目にも、悲しい目にも合わせた」
「そんな事…!」
「そんな事、あるんだよ。僕は、今までこの運命を…この瞳を憎んで来た。この眼を潰そうとしたことさえあった」
「八雲くん…」
「僕を受け入れてくれた、大事な人でさえ、この眼で不幸にしてしまった」
それは、明美先生のこと?
思わず聞きそうになって、呑み込む。
きっと明美先生は八雲のせいなんて思っていない。私がそう思っていないのと同じように。
でも、私がそう伝えたところで、きっと意味はない。
八雲はちゃんと分かってるから。
それでも割り切れないのが、人の心なのだと、知っている。
「僕が存在すれば、周りを不幸にすると思ってた」
「違うよ!」
ついに我慢出来ずに叫んでしまった。
そんな悲しいことを言わないで欲しかった。
そんな想いに囚われることこそが、呪いだと言ったのは、他ならぬ八雲なのだから。
「分かってるよ。昔の話しだ」
やがて真っ直ぐとぶつかった強い瞳が、安心させるように柔らかくそう告げた。
そして。
「…僕は、君の一言に、救われた」
ぽつりとした八雲のその一言に、晴香は目を瞠った。
「君が、きれいと言ってくれた。この左眼を。僕が憎んで仕方がなかった、僕自身を。それだけで、僕は救われた」
まるで吐き出すような、小さな声だった。けれど、八雲の心からの叫び。
「その一言だけで、充分だった。なのに、君は、どんな時も一緒に居てくれた。今まで、他人は利用するだけして、離れていくものだと思っていたのに、君は違った。いや…違うな」
「え?」
「叔父さんや、…まぁ後藤さんだとか、僕と関わろうとしてくれた人はきっと今までもたくさんいたんだ。僕が逃げて、気付かなかっただけで」
あぁ、出会った頃の八雲とはもう違う。
そう感じて、嬉しくて、泣きそうになってしまう。
「そんな大切な事に気付けたのも、君のおかげだ」
「そんな、私は何もしてないよ」
「いや、君のおかげだよ。ずっと傍にいて、支えてくれた。背中を押してくれた。分かち合ってくれた」
「…っ」
「ありがとう、晴香」
こんなの反則だ。
気付いた時には、ポロリと一粒涙が溢れてしまっていた。
そんな優しい笑顔だとか、愛おしげな声だとか、…滅多に呼ばない名前を呼ぶだとか。
こんなの、泣かないでいられる訳がない。
「…なんで君が泣くんだ」
呆れた笑い声とは裏腹に、ぽん、と頭に置かれた掌の温かさに、さらに目の奥が熱くなってしまった。
答える代わりに、ただただ首を振った。
小さく笑う声がした。
「この前、君は僕に欲しいものがあるかと聞いただろ?何でも良いと君は言ってくれた」
「うん」
「一つだけ、僕にも欲しいものがある。…欲しがってはいけないと、思っていたものだ」
そっと八雲が晴香の手を取り、握りしめる。
晴香も応えるように、その手を握る。
「言って、八雲くん」
にこりと、笑ってみせる。
きっと、八雲はずっと昔から、求めることを諦めてきたんだろう。
求めなければ傷つかない。
望まなければ、失望もしない。
だけどそれでは、幸せになんてなれない。
人は誰しもが、幸せになることを望んでいいのだから。
その為に、皆一生懸命に生を生きるのだから。
ぎゅっと、手を包む。
──求めることを怖がらないで。
──欲しがったって、いいんだよ。
晴香がそっと頷けば、八雲の赤い瞳が穏やかに細められた。
そして。
「君が、欲しい」
真っ直ぐだった。
その心からの願いも、その瞳も、揺るぎのない強さも。
「僕と一緒になると言うことは、僕の抱える全てに君を巻き込むと言うことだ。
危険な目にだって、また合わせることもあるかもしれない。…君を幸せにできないかもしれない。それでも、」
ほんの少し、その瞳に影がさす。
それでも紡がれる言葉にもう迷いは感じられなくて。
「それでも、君と居たい」
諦めようと思ったところで、諦める事など出来るはずもなかったのだ。
この身に過ぎると思っても、もう手放す事など考えられなかった。
あの時、
『欲しがらなきゃ手に入らない』
そんな当たり前な事ですら、晴香の一言で許されて、呪縛が解けた。
望んでいいのだと、思えた。
「僕と、結婚してほしい」
だから、もう迷わない。
八雲は握りしめていた晴香の手をそっと離す。
ほんの少し俯いたその表情は見えなかった。
きっと困惑しているに違いない。
それでも、伝えたことに後悔はなかった。あとは、晴香次第だ。
「よく考えて返事をしてくれれば、」
「はい」
「…は?」
大事なことだ。
だから、時間をかけて考えてくれたらいいと思っていた。それこそ、一ヶ月でも、一年でも。考えてくれると言うのなら、いつまでも待つ気でいた。
だが。
「はい!」
顔を上げた晴香は、その両目にきらりと光る涙を浮かべ、嬉しそうに二つ返事で了承した。
今度は八雲が呆気に取られる。
「はいって…ちゃんと分かってるのか?僕の生まれも、抱える問題も、知っているだろ?」
「うん?」
「その、いろいろ覚悟だとか、考えないといけないことがあるんじゃないのか?」
「自分でプロポーズしておいて、何よそれ…」
珍しく慌てる八雲がおかしくて、晴香はついクスクスと笑ってしまう。
八雲の言いたいことは分かってる。
どれほどの想いで言ってくれたかも。
だからこそ、晴香には、この返事しか考えられないのだ。
「幸せになるのに、覚悟なんて要らないよ」
ぽろぽろと零れ落ちる涙をそのままに、この幸せを、喜びをとにかく伝えたくて、精一杯の笑顔を晴香は浮かべた。
八雲はと言えば、ただ言葉なく晴香を見つめて。
その赤と黒の瞳の中で、晴香が幸せそうに微笑む。
「八雲くんと居ることが幸せなの。だから、幸せに決まってる」
覚悟なんか、必要ないんだよ。
そう涙を拭う事なく言い切った晴香に、八雲はそっと目を伏せる。
噛みしめるように。救われたように。
そしてようやく八雲も口を開いた。
「ありがとう」
そう、ただ一言。
泣きそうに、笑って見せた。
永遠(とわ)に
そっと八雲がポケットから小さな箱を取り出した。
その中には、月の光を受けてキラリと光る、指輪。
「八雲くん、これ…」
「言ったろ?僕に用意がいるって」
晴香が驚いていれば、八雲はまるで壊れものに触れるかのように、大事そうにその左手を取って。
そして、静かに薬指に指輪を通した。
「愛してる」
それは、掠れるような、本当に小さな声だった。まるで、泣いているかのようにも聞こえた。
晴香は言葉も出ずに、自分の左手を胸に抱きしめて泣く。
愛おしくて、温かくて。
込み上げる幸せが溢れて、その頬を濡らしていた。
「…僕は、彼女と生きていくよ」
やがて八雲がぽつりと言った。
視線を上げれば、その顔は晴香ではなく、墓石に向けられていて。
だから、晴香も八雲の視線の先に、同じように微笑んでみせる。
その指に光る指輪を、まるで誓いのように翳して、報告する。
そして静かに、心の中で語りかける。
(約束、守ります)
ずっと、八雲の傍にいます。
“おめでとう”
そう一心が、確かに笑った気がした。
*
*
*
*
*
「決めたよ、叔父さん」
ぽつりと呟いた声は、静かな辺りに溶けた。
目の前の墓石をただただ見つめる八雲の瞳は、穏やかに細められていて。
風が優しくその黒髪を揺らした。
「正直に言うと、自信はないよ」
供えた花が風に揺られる。
「けど、もう、決めた。…あいつが、言ってくれたんだ。充分じゃないよって、欲しがったっていいよって。」
──そう、言ってくれたんだ。
柔らかな声だった。
小さく笑ったその表情は、先日のことを思い返しているのだろう。とても、優しい。
「きっと、叔父さんも同じことを言うだろ?」
誰よりも、ずっと。
そう伝え続けてくれていたことを、八雲はちゃんと知っていた。
あの頃は素直に受け止められなかったけれど、今なら、分かる。
「本気で、僕の幸せを願ってくれた」
掠れたその声は、震えているようにも聞こえた。
「だから、僕は、ちゃんと進むよ」
与えてもらった無償の愛も、優しさも。
伝え続けてくれた、慈しみも。
ぜんぶ、繋げていく為に。
「約束する」
そう、真っ直ぐと、力強く。
不安はあるけれど、迷いはない声で。
一際、大きな風が吹き抜けた。
もう、一心はここにはいない。
それは、大丈夫だと、安心して逝ってくれたからだと知っている。
それでも、八雲には一瞬、一心の姿が見えた気がした。
あの穏やかな笑顔を浮かべ、頷いてくれていた。
気のせいじゃない。きっと──…
「見ててくれよ、叔父さん」
静かに八雲は立ち上がった。
そして、少し空を眺めて、その赤い眼を眩しそうに細めて。
晴香との待ち合わせ場所に向かうため、大きく一歩を踏み出した。
clap?
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八雲誕生日おめでとう!!!
実は『幸せを滲ませて』とリンクしてたりします。
もっともっと幸せになれ八雲〜!!!(もちろん晴香と^^)
(2013/8/3)
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