*『ありがとう』の続きです。
部屋を出て数分もしないうちに、ポケットに突っ込んでいた携帯が振動した。
布に阻まれくぐもった着信音はポケットから引っ張り出せば静寂を切り裂いてけたたましく響いた。
面倒に思いながらも携帯を開けば、そこには『後藤和利』の文字。
先を急いでいる今、いつもなら電話に出ようか出まいか逡巡してしまう所だが(そして出ないという選択に行き着く)、地震の後である今は奈緒や敦子さん、まぁついで程度に後藤さんも心配ではあるなと、八雲は迷わず通話ボタンを押した。
『おっ!八雲!ようやく繋がったか!』
「…でかい声ださないで下さい」
繋がった途端耳をつんざいた大声に、八雲は思わず眉間を寄せた。
『ったく、こんな時でも可愛いげねえのな!まぁ、その様子じゃ何ともねぇみたいだな』
「ええ。じゃなきゃ電話になんか出れませんよ」
『へーへー、そうですねー!』
そんな言葉とは裏腹に、嬉しそうに豪快に話しだした後藤に八雲もいつものように憎まれ口を返す。
後藤さんこそ無事そうで良かった。
内心でそう思わない事もなかったが、絶対に口には出さない。
八雲の肩の力が少し抜けた。
『あっおい、八雲に繋がったぞ!』
「…は?何言ってるんですか?」
『おう、何ともねぇってよ。憎まれ口叩いてらぁ!…っはは、違ぇねぇな!』
「後藤さん?」
『全くだな…ん?わかったよ』
「…」
どうやら電話の向こうで敦子さんと話をしているようだ。
電話をかけた相手をそっちのけとは。
八雲はため息をついた。
『おい、八雲聞いてんのか?』
「…それはぼくに話しかけてるんですか?」
『あん?当たり前だろ、お前に電話してんだからよ』
「はぁ…後藤さんと話していると疲れます」
『は?何でだよ?』
「…もういいです」
電話の向こうで「何だよ」と苛立った声が聞こえたが、それは無視をする。
「で、そっちは大丈夫なんですか?」
『ああ。奈緒も敦子も無事だよ』
「それなら良かったです」
『お堂はまだ見にいってねぇ。まずはお前らが無事か気になったんでな。
これから見回ってくる』
「…そうですか」
苦笑交じりに八雲は返す。
あいつといい、後藤さんといい、人の心配をする前に自分の心配をすればいいものを。
そんなぼやきは胸の内に留め、八雲は後藤の言葉にただ照れたように頬をかいた。
『それで、晴香ちゃんは?晴香ちゃんにもかけたが通じなかったんだよ』
「あいつなら無事ですよ」
『そうか、そりゃ良かった!お前なら知ってると思ったよ!』
「どういう意味です?」
『言葉通りだよ。おい、敦子!晴香ちゃんも無事だってよ!』
またしても話し相手が敦子に変わったようだ。
『八雲情報だ。おう。…ははっ、お前の読み通りだったな!』
「…何が敦子さんの読み通りなんです?」
『あ、もしもし八雲君?』
今度は電話の主自体が代わったらしい。
『心配してたのよ。八雲君も晴香ちゃんも何ともなかったみたいで良かったわ!』
「敦子さん達も無事で何よりです」
『ありがとう。ふふっ、八雲君ならきっと晴香ちゃんの事知ってると思ったのよ』
「…どうしてそうなるんですか」
『八雲君なら晴香ちゃんを一番に心配してくれるでしょう?』
「…別に、あいつから電話がかかってきたんですよ」
これは嘘ではない。
確かに一番に脳裏に浮かんだのはあいつだったが。
八雲は気恥ずかしさを隠すように素っ気なく返事をしたものの
『そう!何にしても連絡ついたのなら良かった!』
そう軽快に笑う敦子の様子を見る限り、通用してはいなさそうだった。
『それはそうと、これから晴香ちゃんのところに行ってくれるのよね?』
「…!」
唐突な言葉に、ぎくり、と八雲の肩が揺れた。
何故、こうもお見通しなのだろうか。
八雲はまさかの敦子の言葉に動揺と驚きを隠せないでいたが、なんとか平静を保ち口を開いた。
「…何でそうなるんですか?」
『あら、違った?晴香ちゃんきっと心細いだろうし、片付けには男手があった方がいいかもしれないし…』
「…」
『でも八雲君が行かないなら心配だし…』
「……」
『私が行こうかしら』
「今、あいつの所に向かってます」
観念したように、八雲がぼそりと零せば、顔は見えないが、にやりと電話の向こうで敦子が笑ったのが分かった。
八雲は頭をがりがりと掻いて、内心で舌を巻く。
こういう所がどうにも敦子さんには敵わない。
『なら晴香ちゃんのことお願いね』
「…はい」
『あ、もし人手がいりそうなら声かけて。ほら、うちには力仕事には事欠かない人がいるから。こんな時こそ役に立ってもらわないとね』
そう敦子は軽快に笑った。
そしてその敦子の後ろで「それじゃまるでいつもは役にたたねぇみてーじゃねぇか!」
そんな後藤の咆哮が聞こえた。
思わずその様子に八雲は声を出して笑ってしまう。
──本当に、この人たちは…
「でもそっちも大変なことになってるんじゃないですか?」
『えぇ。まだお堂は見にいけてないんだけど、きっとそうでしょうね』
八雲が静かに問いかければ、敦子も笑いを切り上げた。
敦子も想像しているのだろうか、少しトーンの落ちた声に悲惨な様子であろう本堂が八雲にも想像できた。
恐らく、敦子たちがいる庫裏も痛手を受けただろう。
何しろ庫裏や本堂自体、造りも古いのだ。
ふいに、優しい微笑みをたたえた叔父さんの顔が浮かんだ。
このお寺はずっと叔父さんが大切にしてきたものだ。
それを思えば、ずきりと胸が痛んだ。
壊れてしまえば、元に戻らない。
時は無情に過ぎ行くけれど、そのどこにも“同じ”など再び存在できないことを知っている。
胸に鉛が落ちたようだった。
『でも、私たちは無事だもの!なんとかなるわ!』
唐突に耳に飛び込んできたのは明るく、強さを含んだ声だった。
淀みそうな思考の中で、それは八雲の胸を揺さぶった。
そうだ。
同じものが戻らなくとも、その先へと築いていける。
生きて、いるから──。
「…さすが後藤さんの奥さんですね」
『え?』
「何でもないです」
やっぱり敦子さんには敵わない。
そうすんなり思えて、八雲は小さく笑った。
まるで灯火が燈ったようだった。
『じゃぁ、八雲君も気をつけてね』
「ありがとうございます」
『それじゃ…』
「敦子さん」
また、連絡するわね。
そう電話を切ろうとした敦子の言葉は八雲の呼びかけによって止められた。
ひどく穏やかで柔らかな声だった。
電話の向こうで敦子は続きを待つ。
「明日、片付け手伝いにいきます」
そして、ぼそりと、でもはっきりと零された八雲の言葉に、電話の向こう側で少しだけ敦子は驚いたようだった。
そしてクスリ、と八雲の機嫌を損ねないよう小さく笑った。
『ありがとう。』
嬉しそうに返された敦子の言葉に八雲はそれ以上は何も言わず、頭をがしがしと掻いた。
その口元に優しい孤を描いて。
「…それじゃ」
『ええ、また明日』
そして今度こそ、ツーツーと電話の終わりを告げる音が静かに聞こえた。
再び訪れた静寂に、八雲は静かに息を吐き出す。
とても、穏やかな気持ちだった。
携帯を閉じて、ポケットに押し込める。
さっきは気付かなかったが、見上げた夜空には煌々とした月だけでなく、小さく煌く星がたくさん出ていた。
なんだか、真っ暗な世界などないのだと思えた。
この話をすれば、どうせあいつも行くと言うだろう。
自分のことよりも他人の事に一生懸命な彼女を思い出せば、また胸の中の明かりは大きくなったようだった。
そうとなれば明日の為にも、急いだ方が良さそうだ。
そう、少し緩やかになっていた歩調を早めた。
一人じゃないから
(ほら、大丈夫だよ。)
(2011/4/24)
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