ぱたり、と読んでいた文庫本を閉じ、何気なく携帯を開く。
明るい光を漏らすディスプレイに浮かぶ数字は、まもなく一日を終えることを示していた。
「そろそろ寝るか」
誰にともなく呟いて、寝袋を引っ張りだそうとしたその時だった。
カタカタと机の上に置いていた湯呑みが小さく震えたかと思った瞬間、それは机ごと激しく動きだした。
湯呑みからまだ僅かばかり残っていたお茶が飛び出す。
ごごごと唸るような音とともに金属が軋む音やどこか違う部屋からか物が割れる音が聞こた。
机の上から文庫本は落ち、視界の端で大きく横揺れしたロッカーが傾いた。
反射的に身体が動き、辛うじて手を伸ばし押さえたところで揺れは急速に穏やかになり、やがてぴたりとおさまった。
――長かったな…。
再び訪れた静寂に小さく息を吐き出した。
ロッカーをしっかり元に戻し、机の上から落ちたであろう携帯を床から拾い上げすぐに確認すれば、地震速報が確認できた。
震度5強。
これは外は大混乱だろうな。そんなことを呑気に思うと同時に
「あいつ…」
脳裏に浮かんだのは脳天気に笑うどこぞのトラブルメーカー。
――あいつは大丈夫だろうか。
この時間なら恐らく部屋にいただろう。
ざわざわと八雲の胸が騒ぐ。
あいつの部屋は確か4階だ。
地上に比べてだいぶ揺れたに違いない。
前に見た限りはまだ新しい建物のようだったから倒壊なんてことはまずないだろうが、小物なんかが多いあの部屋は大変なことになってるだろう。
下手したら冷蔵庫や棚は倒れているかもしれない。ドジなあいつが下敷きになっていることだって考えられる。
ぐるぐると駆け巡る嫌な憶測だけが先走り、八雲は鼓動が激しく波打つのを感じた。
急いでその手にもっていた携帯から履歴を開く。そしてすぐに表示されたその番号へリダイアルしようとした時だった。
ピリリリリ
着信を告げる機械音とともに携帯が振動し、画面が切り替わった。
こんな時に一体誰だ。
すぐにでも切ってやろうと電源ボタンに伸ばした指は、表示されている着信相手の名前に留められた。
『小沢晴香』
ディスプレイに表示された名前は八雲がまさにかけようとしていた晴香のものだった。
八雲はほっと息をつく。
無事だった。
『も、もしもし、八雲くん!?』
急いで通話を押した瞬間、電話口から聞こえたのはそんな叫び声だった。
慌てたその声に八雲は落ち着かせるように出来るだけゆっくりと喋る。
「そんなに叫ばなくても聞こえてる」
『だって何回かけても通じなかったから…』
「回線が混み合ってるんだろうな」
『とにかく繋がって良かった!それより、八雲君大丈夫だった!?』
「あぁ。ぼくは大丈夫だ」
『良かったぁ…。すごく心配したんだよ』
慌てたように不安に駆られていたその声は、八雲の言葉で心底安堵したような穏やかなものに変わった。
じわりと八雲の胸が温かく疼く。
“心配したんだよ”
耳を擽ったその言葉が、気恥ずかしくもあり、嬉しく思った。
「…ぼくのことより、君こそ大丈夫なのか?」
『あ、うん!私は、大丈夫』
「怪我は?」
『ないよ、平気!』
「…そうか」
元気な様子から分かってはいたが、本人の口から聞けたその言葉に八雲は晴香に聞こえないよう安堵の息をついた。
しかし気掛かりなのは――。
「部屋は大丈夫なのか?」
『え?あ、あ〜、大丈夫だよ』
苦笑いと一緒に聞こえたその声に、八雲は悲惨な様子なんだろうと悟る。
「どうせぐちゃぐちゃなんだろ。君の部屋は物が多すぎるんだ」
『うっ…』
まぁ、君が無事ならそれでいい。
そんな言葉は胸のうちに留めておく。
『そっちは?映研部屋は?』
「特に被害はないよ。君の部屋と違って整理されてるからな」
『整理されてるんじゃなくて“何もない”だけじゃない!』
「失礼だな。ぼくは必要最低限のものだけに留めているんだ」
『よく言うわよ!』
呆れたような晴香の声はすっかりいつもの調子に戻り落ち着いていた。八雲の口許が微かに緩んだ。
本当に無事で良かった。
胸の内に沸々とそんな想いが込み上げた。
『…ねぇ、そっちに行ってもいい?』
ふと、そんなことを考えていた八雲の耳に届いたのは晴香の懇願するような声だった。
なんてことない風を装っているその声は隠しきれない不安を滲ませていた。
それもそうだろうと思う。
女性の一人暮らしだ。不安で怖かったに違いない。
意地っ張りで、優しい彼女はきっとそんな事言わないだろうけど。
でも彼女を思えばこそ。
「今は下手に外へ出ない方がいい」
電車だって止まっているだろうし、この暗さじゃ道だってどうなっているかわからない。何よりこんな時間だ。
来たらいい。
本当はそう言いたかったが彼女にそんなことはさせられない。
『…うん。わかった』
「もう揺れないとも限らないしな」
『…やっぱりまだ揺れるかな』
「余震はくるだろうな」
『そうだよね。皆大丈夫かな…』
「人の心配してる場合じゃないだろ。君はただでさえ鈍臭いんだ。気を抜かず気をつけろよ」
『もう!一言余計なんだから!』
憤慨した調子の声もわざと明るく振る舞っているのは分かっている。
だから。
「ぼくが行くまで、寝るなよ」
『…え?』
そう告げて、コートを掴み、冷蔵庫から鍵を取り出した。
ちらりと机の上の倒れた湯呑みが八雲の目に入ったがそれは無視してドアに向かう。
帰ってきてから片付ければいい。
『いいよ!八雲君危ないよ!』
「のろまな君と一緒にするな」
『それなら私が行くよ!』
「わざわざ怪我しにか?」
『もう、違うよ!だって、何で…』
全く。
“何で”なんてよく言う。
人の心配なら散々するくせに。
八雲はため息をこぼす。
「もう、切るぞ」
これ以上は埒があかない。
ちょっと八雲くん!そんな制止の声が聞こえたがそれには構わず電話を切った。
ガチャリ。
扉を開けば、まだまだ冷え込んだ夜風が身体を包み思わず身を竦めた。
静寂に包まれた外は月明かりで思いのほか明るい。
さっきの揺れがまるで嘘のように穏やかだ。
――頼むから、もう揺れてくれるなよ。
慌てたあいつが怪我しかねない。
願うように、そんなことを思った。
肌寒い首を埋めて歩きだせば、不意に携帯からメールの着信音が響いた。
暗い世界に開いたディスプレイから眩しいほどの明かりが漏れる。
そしてそこに映し出された文章に、八雲は優しく目を細めた。
“ありがとう。
気をつけてね。”
心配そうに微笑む彼女の姿が容易に浮かんで。
じわり。
また心が温かくなるのを感じた。
部屋の片付けが済んだら、きっとあいつはココアをいれてくれるだろう。
それまで精々扱き使われてやるとするか。
そんな事を思えば、自然と歩調が速くなる。
彼女の家まで、あともう少し。
不思議と寒さはもう、気にならなかった。
ありがとう
(ぼくも君のことを想ってる。)
(2011/4/14)
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