*『大丈夫』の続きです。
ふわふわとした心地好い感覚。
まどろみの中に深く沈んでいるような、
水の中を漂うような、実体のない意識。
夢見心地な纏まらない思考の中に、ふと、暖かい温もりを感じた。
その温もりは優しく頭を撫でている。
――八雲。
そう、小さく呼ばれた気がした。
まるで、心に直接呼びかけられたようだった。
柔らかで甘やかな声。
深く、自分を包むよう。
──八雲。
再び、声が聞こえた。
それは心を小さく揺する。
…母さん?
ほとんど覚えていないはずなのに、記憶の奥底に消し去っていたはずなのに、
どうしてか母が浮かんだ。
優しく、愛しむように微笑んでいる母が、自分に笑いかけている。
そして、その白く細い指で、柔らかく自分の頭を撫でている。
労るように、ただ優しく。
そこに、かつて恐怖を刻んだ冷たさはない。
ひどく、胸が痛んだ。
朧げな、いつかの記憶なのだろうか?
思い出せはしない。
けれど忘れ去られた何かが断片的にちらちらと心を焼くようで。
幸せとも懐かしみともとれるそれに身を切られそうだ。
――八雲君。
再び聞こえた声は先程よりはっきり聞こえた。
確かな響きを持っていた。
その声は優しく力強い、ひどく安心するものだった。
尚も感じる温もりが、自分の全てを包むようで。
ぼくは、知っている。
この温もりならよく知っている。
想うと同時に、母とすり代わるように浮かんだ姿。
ああ、これは――
「あ、起こしちゃった?」
ぱちりと覚醒した視界に飛び込んできたのは、心配そうに覗きこむ、そう紛れも無く意識を手放す前まで思い浮かべていた彼女だった。
「どう、して…」
驚きの中何とか振り絞った声は掠れていて、自分でも情けないくらいに弱々しかった。
声をだした事で喉が乾いて、張り付くような痛みに思わず顔を歪めた。
「はい」
すっと差し出された物に目をやれば、ペットボトル。
そのラベルにはスポーツ飲料の名前が記されている。
どうして君が、という問いはスルーされてしまったが、一番欲しかった飲み物を差し出され、そのタイミングの良さにまた驚いた。
「水分とらなきゃね」
ぼくのそんな心中を知ってか知らずか、彼女はにこりと笑ってみせた。
飲み物が欲しかったのは事実で、断る理由も別にない。
ありがとう、と痛むのどでぼそりと返して重い上半身を何とか起こした。
急に上体が起き上がったからか、くらくらと一瞬目の前が白くなった。
そこで、ぽとりと何かが落ちて気付く。
起きた拍子に額から滑り落ちたのは花柄のハンカチ。
自分の部屋には凡そ不釣合いな淡い桃色のそれをそっと拾えば、ひんやりと濡れていた。
「あ、それ?熱が高かったみたいだから熱冷ましにと思って」
まじまじと手元を見つめていたぼくの視線に気付いたようにかけられた言葉に、ようやく彼女が看病していてくれたらしい事に気付いた。
――ずっとついていてくれたのか。
その驚きにコイツの顔を見れば、キョトンとした顔をしていて。
逆にまじまじと見つめ返されてしまった。
何だか気恥ずかしい気持ちを悟られまいと、冷たいスポーツ飲料を一気に流し込む。
熱した身体に冷たさが隅々まで広がるようで。
ひりつく喉も潤いいくらか痛みがマシになる。
ほんの僅かな爽快感を心地よく思いながら、半分くらいを一気に飲み干した。
そうして飲み終えた所で、ごく自然に目の前に手を差し出された。
…お手?
一瞬なんのことかと思案する。
「あ、まだ飲む?」
そう聞かれて、ようやくペットボトルの事だと理解した。
いまいち何故そう問われるのかも分からず、
首を傾げてそれを渡せば、その手に持っていたキャップを閉めて、
「こんな寒い部屋にいるから風邪ひくんだよ」
なんて想像した通りの小言を零して冷蔵庫へと立ち上がる。
どうやら、しまってくれるようだ。
何だか予想以上に甲斐甲斐しく世話を焼く姿に苦笑が漏れた。
その笑いに気付いたらしい彼女が振り向き首を傾げて、何?と言わんばかりにその口ほど物を言う眼で訊ねてきていた。
「別にそれくらい出来る」
ごまかすように言葉を投げかければ、
途端じとりと睨まれた。
「よく言うわよ。来た時、うんうん苦しそうに唸っていたくせに」
「それはさっきのことだろ。今はもう大丈夫だ」
半ば呆れたように言われた言葉がどうにも罰が悪く、視線は逸らしたまま悪態つく。
こいつにはそんな姿を見られたくなかった。そんな事を思った。
「…びっくりしたんだからね」
すると、トーンの下がった声音が飛び込んできた。
ちらりと彼女を伺えば、思い出しているのだろうか、
眉を弱々しく下げて視線を落とし、ぎゅっと唇を引き結んでいた。
その辛そうな泣きそうな表情にずきりと胸が痛んだ。
「悪かった。今は、本当に大丈夫だ」
安心して欲しくて
少し笑ってみせる。
事実、さっきより身体は大分楽になっている。
そんなぼくをじっと見遣った後、
「ホント素直じゃないなぁ」
なんてため息混じりの声がして、
立っていた彼女はこちらに歩み寄り傍らにしゃがみ込んだ。
そして。
「!?」
突然額に感じた冷たさに驚いた。
しゃがみ込んだ彼女は迷うことなくその手を伸ばし、ぼくの額にあてがった。
一気に縮まったその距離に思わず身体が固まって。
でも予想以上にひんやりとしたその手の感触が心地好かった。
「まだすごく熱いよ」
非難めいた口調の後、あてがわれたその手がゆっくり離れる。
それが少し寂しいなんて、そんな子供みたいな事は思っていない。
断じて。
「…君の手が冷た過ぎるからそう感じるんだ」
「別にそんなことないと思うけど…」
「さっきまで冷たいペットボトルを持っていたことをもう忘れたのか?」
わざとらしく盛大にため息をついてやれば、ムスっとした顔でようやく黙り込んだ。
それを横目に、今がチャンスだと少し煩い心臓を落ち着かせるべく深く息を吸い込む。
――全く、どこまで無防備なんだか。
言葉に出来ない文句を飲み込んで、
肺にいっぱいになった空気を吐き出した。
そして気を緩めたその瞬間
「八雲君」
何もかも固まってしまった。
目の前の衝撃に息さえ忘れた。
彼女の手は僕の頬をしっかり固定して。
目の先には彼女の伏せられた瞳。
そして唇には微かな息さえかかって。
額には先程の手とはまた違う、
微かな温もりを宿した、ひんやりとする彼女の額が合わせられていた。
つま先から頭の先まで、まるで電流が流れたかのように何かが駆け抜けて、
一気に体温が上昇した。
「んー、やっぱり熱いよ」
少しの間の後、呆然と固まるぼくの様子に気付きもせず、そんな声とともにようやく彼女は離れていった。
やっぱり薬買ってくるね、なんて呑気な事を言って。
視界いっぱいから彼女が退き、
一気に緊張が解けてそのまま崩れそうになった。
何とか上半身はそのままに、思わずうなだれた。
「や、八雲くん?」
大丈夫?なんて心配そうな声が耳に入ってくるが、到底顔は上げられそうにない。
触れ合った額から、飛び火したように全身が熱い。
暴れる鼓動が、煩い。
こいつは今自分が何をしたか分かっていないらしい。
「…寝る」
なんとかその一言だけ返して。
そのまま顔は見られないように彼女に背を向けて横になる。
「うん。手で測った時より熱上がってたみたいだし、寝た方がいいよ」
そんな彼女の発言を背中に聞いて、ただただ盛大にため息をついた。
「…君のせいだ」
熱に浮かされたようにぼそりと零してしまったそれは、どうやら届かなかったようで。
「え?何か言った?」なんて問い掛けが聞こえたがそれはもう聞こえない振りをした。
きっとこれ以上はこっちの身が持たないから。
そっと静かに目を閉じる。
尚も身体は熱くだるいが、
彼女がいると言うだけでとても穏やかな気持ちだった。
全く現金なものだと、自分自身に苦笑した。
それでも、どうしようもなくこの空間が心地よくて。
ありがとう。
そう、独り言のように呟いた言葉は口の中に消えて。
緩んだ口許はまぁ彼女からは見えないからと、そのままにした。
傍らに君の気配。
何だかさっきよりもよく眠れそうな気がした。
君のせい。
「おやすみ、八雲くん。早く良くなってね」
深い眠りに落ちる中、そんな囁くような声が聞こえた。
(身体を包む熱も忙しない心臓も、君のせいなら悪くない。)
clap?
‐‐‐‐‐‐
おでこで体温測定はお約束。
他に風邪といえば何かあったかなぁ(´・ω・`)
ネタがほしい。
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