仲秋の名月と師弟



僕が綺麗だね、と言うと、隣に座る師匠は少しだけ笑ってそうだなと答えた。

「綺麗だ」

小さな呟きはかつて拾ったどれよりも柔らかくいとも簡単に風にさらわれてしまったが、僕にだけはしっかり届いていた。隣にいて良かったと思った。彼もそう思ってくれていると思った。

「うん」

僕は元々口数が少ない方ではないし沈黙が続くことは苦痛だと感じていたがそれはそういう相手と雰囲気の時であり、不思議と彼と二人でいる時の沈黙は心地好かった。だから言葉を選ぶことを放棄してしまったのである。
「うん」の「ん」が外気に溶けきってしまうと辺りはすっかり静かになった。最近ようやく涼しくなり始めた夜風がするりと頬を撫でて通り過ぎていく。彼の長い髪が揺れて、先程使ったばかりのシャンプーの香りがした。僕のとおんなじだった。

師匠は黙って持っていたグラスを傾けた。中には冷えた麦茶と優秀な冷蔵庫が作り出した幾つかの氷が入っていて、からん、と音がする。

「ほら、やる」
「…えっ、いいの」
「ああ」

そんなに露骨に見たつもりはなかったのだが折角グラスを差し出されたので空気を読んで受け取ってみる。表面に張り付いた無数の水滴が手のひらを湿らせた。
冷たいと率直な感想を述べてから彼がしたように麦茶を一口飲む。本当に冷たかった。
お礼を言ってグラスを返した後で、もしかしたら彼は初めから僕に分けてくれるつもりでお酒ではなく麦茶を持ち出してきたのだろうかと想像してほっこりした気持ちになった。

僕はため息をついたきり何も言わなかった。師匠も何も言わなかった。何も言わないでひたすら上の方を見つめている。
なんとなく同じようにしてみると深い蒼と黒の中間のような色が視界いっぱいに広がってきて、その中に一つだけ浮かぶまあるい光はますます輝いて見えた。

優しい黄色はあまりにも柔らかく僕や師匠や僕らの座り込む狭いベランダを照らしてそれだけで僕を酷く幸せな気分にし、同時に悲しくないのに泣きたいような不思議な気分にもした。今の心境は複雑過ぎて伝えるための上手い言葉が思いつかないけれど、思いつかないことにもどかしさを感じないくらい満たされているのは確かだ。

「こんなによく見えているのに、本当はずっと遠くにあるなんて」

頭を左右に揺らすと隣や少し向こうの家は動いて見えるのに月だけは動かない。薄い水色と灰色をした空気の隔たりがあれを向こう側に追いやっているからだ。
僕は急に悔しくなった。ずっと遠くにあるくせに掴めそうだなんて、ずるい。すごく。

「嘘は良くないと思う」

明らかな言いがかりだった。それが嘘でも何でもなくて僕の思い込みの勘違いであることは解っていた。だが必死に否定しなければ今の僕は僕として成り立てなくなってしまう。
師匠が僕を見た。僕はあくまでも月を見上げていたから視界の端でそう動いたように捉えただけだが。

「………」
「い、いたたた!」

にんまり笑ったかと思った瞬間彼の腕がにゅっと伸びてきて僕の頬をつねってきた。指先から本気じゃないのがひしひし伝わってくる。けど痛い。

「むにーん」
「うぶふ」
「やべ、楽しい」
「っな、なにするんだよ!」

好き勝手に頬を引っ張り回す彼をなんとか離して抗議する。

「そんな不服そうな顔をするな」
「は?」
「月が欲しいならおれが連れてきてやる」

彼が何を思ってそんなことを言ったのかは何となく解っていた。次いで何故僕の頬を引っ張ったのかも解った。
しかしそれをまともに考えるのはやけに恥ずかしいことのような気がして、色々と思考を巡らせるのはやめた。

「危ないから本当に連れてくるのはやめてね」
「…なんだ、いらないのか?」
「だって師匠がいるし」

2つもあったら大変だよと続けると自分で言っておきながらやけに面白い言葉に思えて頬が緩んだ。このタイミングで笑顔になるのは相手の思うつぼだと思ったがそれでもいいと思った。

そうか、と頷いてから彼がまた腕を伸ばしてきたので慌てて頬を守る。しかし手のひらが触れたのは頭の方だった。

「濡れてる」
「お風呂上がりだから仕方ないよ」

それから肌寒さが目立つまでの数分間、僕らは時々他愛ない話を挟みながらたまご色の満月を眺めていた。こういうのってなんかいいなあ、と思った。




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