Rivalis


「ですから」
 物音を立てずに立ち上がり、すっと背筋を伸ばし、シンドリアの法務官はシンドバッドを見据えた。会議の席の端で、ピスティが慌てて姿勢を正す音が聞こえた。
「国王陛下と雖も、司法権に対して直接的に関与することを許すことはできません。判決に納得いかなければ、然るべき手段で私どもの不信任が可決してください」
 高くも低くもなく、人が心地良さを感じる落ちついた声だった。激しい口調ではなかったが、有無を言わせない雰囲気があった。その法務官の横顔の向こうに、面倒臭そうな顔をしたシャルルカンの顔が見えた。この法務官が何故ここまで頑なになるのかを、彼は理解できないのだろう。
 法務官は正しかった。間違っているはずなどなかった。国王が司法権に直接関与することはできない。
「時間がないんだ、名前」
 シンドバッドは自国の法務官を宥めるように言った。強い口調で命じなかったのは、シンドバッド自身も、これが間違ったことであることを知っているからだろう。あくまでも特例として、穏便に済ませたい。
「時間がなければ司法権に介入するのですか」
 法務官は間髪入れずに、穏やかな口調でそう尋ねた。シンドバッドは表情を歪め、私の方を見た。この頑固な法務官を出し抜く方法を私に求めているのかもしれないが、私もこの場で思いつくとは思えなかった。法務官が言っていることは正しい。
「決着はつきませんが、そろそろ時間ですので」
 二人は私の方を見た。
「終わりにしませんか」
 法務官は静かに席につき、先ほどの剣幕はどこにやら、シンドバッドにふわりと微笑み、軽く頭を下げた。



 執務室に戻ると、スパルトスが訪ねてきた。祖国からの書状を私に手渡す。
「法務官殿は頑固だな」
 スパルトスは淡々と言った。嫌悪も困惑もなかった。会議中、スパルトスは一言も言葉を発さなかった。どちらにつく気もなかったのだろう、と私は思った。ただ、シャルルカンやピスティのように、今回の会議に興味がなかったわけではない。
「そうですね」
「私も似たようなものだが」
 気づいていましたか、と私は笑った。スパルトスはほとんど配慮のないこの国の中でも教義に従う。
 スパルトスと法務官は、顔の作りは少しだけ似ていた。法務官の出身国は、ササン王国のすぐ近くであったことを私は思い出した。
 スパルトスが立ち去ると、今度はシンドバッドからの呼び出しがかかった。例の会議、というよりも法務官の名前についてであろうということは安易に予想がついた。
 重い扉を開けた。シンドバッドはひとり、机に肘をついていた。何かにひどく呆れたような、諦めに近い表情を作ったまま、私の方を黙って見た。
 私が喋るのを待っているのだろうということを悟った。
「シン、名前の件ですか」
「頑固で融通がきかないというのは、役人に向いていない可能性があるな」
 先程の表情を一掃し、王らしくその双眸をただ真っ直ぐに、シンドバッドはそう言った。
「名前を不信任にするのは難しいでしょう」
「そうだな」
 法務官は叩き上げだ。何よりもシンドバッド自身が不信任にはしたくはないだろう、と私は思いたかった。
 シンドバッド王は私に思考を停止させる。私は従うしかない。私は思考をしない。私はただ従うだけだ。
 私は思案をするだけだった。
「何か良い案はあるか、ジャーファル」
 シンドバッドの言葉に、私は用意していた答えを言った。


 私は直ちに法務官の部屋に向かった。ノックをして入ると、いつも余裕のある表情を浮かべている法務官が、珍しく目を丸くして私を見た。しかし、すぐに何かを悟ったように目を細めた。
「ジャーファル殿、何か」
「出張命令です」
 私が書類を差し出すと、素早く手を伸ばし、普段の法務官のゆったりとした動きと比べると、やや乱暴に書類を奪い取るようにして受けとった。
「ササン王国ですか。私よりも適任がいるような気がしますが。陛下の命となれば、従う他ございません」
 法務官は諦めを含んだような自嘲を浮かべた。
「すぐに支度をしなければいけませんね」
 法務官は手元の書類を見やり、頬を骨ばった指で乱暴に掻いた。そして、すぐにペンを走らせ、書類の束を揃えて私に手渡した。
「ジャーファル殿。先日の件です。書類を作成しましたので」
 書類を手に取ると、僅かな湿気が手に染みた。温和怜悧そうな横顔に、僅かに濡れた黒い髪がひっついていた。鞄にペンや印鑑を入れ始めた法務官を横目で見つつ、書類を捲ると、それは政務官としての私に対する報告書だった。
 会議の一件に関する報告書。抜け目のない、申告を無視できないような隙のない書類だった。ただ、法務官の様子から、必ず私が見つけ出して、報告を却下することが可能な抜けがあるのだろう。私は出張に持っていく書類をまとめ始めた法務官を見ながら、あと少しここに来るのが遅ければ、私の実力では取り返しがつかないことになっていただろう、とそのようなことを考えていた。



 シンドリアの法務官がササン帝国に向かった一週間後、報せが入った。それを読み上げたのはスパルトスだった。外交に関する報せのため、まずは私の耳に入れる必要があったのだろう。書状を読みあげるまで内容を知らなかったスパルトスは、書状を読みあげながら青ざめた。
「法務官殿はあの国出身だったな」
 私は後悔に襲われた。法務官に対して敵意を覚えたことなどない。微妙な距離感に、ただ似ているところがある故の理解と親しみをお互いに覚え、そして似ているが故にその手腕に僅かな苛立ちを覚える、
 ただ、同時にスパルトスが書状を読みあげるまで、彼自身がこの事実を知らなかったことに私は驚いた。そして、このような内容の書状なのに関わらず、伝令に関わった者たちが誰ひとり騒いでいないことが妙に引っかかった。
“シンドリア王国の法務官がササン王国の過激派に襲われた”
 一国の法務官が訪問先の人間に襲われたにしては、妙に静かなのだ。
「明後日には、法務官殿が戻られるようです。ササン王国の船で」
 ササン王国の船を使う理由が理解できないわけではなかった。スパルトスも理解はしているだろう。ただ、スパルトスは尋ねてきた。
「迎えを出しますか」
「王に判断を仰ぎましょう」
 出さない、と仰せになるでしょうがね、と私は心の中で付け加えた。それでも、王に尋ねるのは、その決定を確固たるものにするためだった。



 よく晴れた日だった。法務官の帰国の知らせが届いたのを聞き、私は法務官の執務室に向かった。法務官は、執務室の奥に座っていた。机には大きな杖が二本立てかけてあった。
「お久しぶりです、ジャーファル殿」
 法務官は微笑んだ。頭は包帯で巻かれていた。
「大丈夫でしたか」
 まるで私自身は何一つ関わっていないかのように、私は尋ねた。法務官はすっと目を細め、そのまま窓の外を見やった。静かな空には鳥の姿ひとつ見えない。
「我が国はササン王国と争っておりましたので」
 窓の外には穏やかな海が見えるだけだった。
 ササン王国は法務官の出身国の近隣にあるが、宗派が違う。その宗派の違いが国民の感情を悪くしていた。嘗て両国はたびたび小競り合いを起こしていた。
「私が襲われた件ですが、協定による法的処置をとるだけで構いません。さすれば、大事になることもございませんし、公になることもありません」
 外交官が襲われたことを公にして、悪くなることはあれど、良くなることなど一つもない。なるべく周囲に広がらぬよう、注意をしていたに違いない。ササン王国の船で帰ってきたことが良い証拠だ。
 実際、法務官の怪我を誰も知らなかった。
 法務官は私に書類を差し出した。傷害罪に関する書類だ。法務官は、会議の時と同じように、感情の浮かばない表情を浮かべていた。恐ろしいとは思わなかった。そう感じても仕方がないはずだが、むしろ私は安心した。私の知る法務官には負の感情がない。緩やかに変わる表情を見ているだけでも、感情自体はあるのだろうことはわかる。ただ、その表情を見せる相手は、少なくとも私ではないだけだ。
「わかりました」
 最初から分かっていた言葉に、最初から用意していた言葉を投げた。そして、私は続けた。
「お見事でしたよ、名前殿」
 私の言葉に、法務官は僅かに眉を上げた。薄い唇は弧を描いたままだが、机の上で伸びていた左手の指が、机に爪を立てるかのように丸まった。
「私には、暴漢に対抗する力はありませんから」
 法務官がこのように答えることを私は最初から予想していた。だからこそ、私は法務官に関わらなかった。法務官は、私のように武官を兼ねているわけではない、ただの文官だ。王が同盟国以外に向かう際、同行することはまずない。
「シンドバッド王から書類を預かっていますので、置いていきますね」
 法務官は一瞬目を丸くして、白い歯を少しだけ出して笑った。その笑みがあまりにも自然で、いつもの法務官の自然な微笑が、まるで意図されたもののように思えた。それは間違ってはいないのだろうが。
「ありがとうございます。この体では歩くのが辛いので、助かりますよ」
 官服の中から覗く腕は細い。杖で移動するにも、この腕では頼りないだろう。
「そういえば、忘れていました。ジャーファル殿。お土産を買ってきたのですよ」
 法務官はあたかも今思い出したばかりであるかのように、自然な動きで左の掌に右の拳をぶつけ、机に取り付けてある小さな引出しを開けた。引出しの中には、黒に銀色で縁取られた小さな箱があった。法務官は指先だけで軽く挟むようにして小さな箱を取り出し、もう片方の手を添えて私に差し出した。
「ありがとうございます」
 箱を開けると、暗い紅色の布の上に、ペンが一本のっていた。
「何故、私に」
「使いやすそうだったので」
 よく見てみると、それは法務官の手元にあるものと同じものだった。薄らとした光沢感のある黒いペン。キャップには小さなカーネリアンを中心にした装飾が施されていた。
「お土産など買ってくる必要のない人だと思っていますよ。そして、あなたは私の書類を持ってくださる必要はないのです」
 私の手元にあるペンを絡めるのは骨ばった細い指だ。法務官は片手で書類を一度だけ撫でると、手元にあった書類にペンを置いた。紙の上を硬いものが転がる曇った音がした。
 書類に書かれた文字が、急にくっきりと見えてきた。
「そういう関係ではありませんか? ジャーファル殿」
 法務官は、普段穏やかな表情を浮かるその顔を、好戦的に歪ませて笑った。その手元には、法務官の出張命令に関する法律案の書類が置いてあった。その抜け目のなさに腹を立てても良いものだろうが、不快な気持ちにはならなかった。感情のない表情でも充分だった。何かに火がついたように頭の中を思考が駆け巡る。
 止めなくてはいないと思うのは、きっと私の意思だろう。去り際に、さりげなく書類に目をやる。きっと法務官が持っている、今私の手元にあるものと同じペンで綴られたのだろう。
 法務官は、既にいつもの微笑を浮かべていた。





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