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 白髪に赤い髪が混じった金魚草のような色の髪。彼女が金魚草なのだから、彼女らしいと言えば彼女らしい。あの白豚の店から出た瞬間に派手に転び、彼女がまだ上手く歩けないことを私は知った。
「彼女、また上手く歩けませんから」
 扉の向こうから、桃太郎さんの声が聞こえた。出てこないのは、白豚に構っているからだろう。放っておけば良いものの。
「上手く歩くことはできないようですね。すみません」
 長い足を移動させて、ゆっくりと立ち上がる姿を見下ろす。いきなりこの足の長さだと、歩く練習も大変だろう、などと思いながら。
「本当にすみません。ゆっくり歩いていただけますか」
 彼女はゆっくり立ち上がって歩きだす。
「植木鉢に入っていた方が楽なんじゃないですか」
「そうですね。ですが、自分の足で歩くことができて、幸せです」
 その言葉が妙に引っ掛かった。私は、暖かな日差しに照らされた明るい横顔を見下ろす。
「一度尋ねたことがあると思いますが、もう一度」
 黒くまんまるな双眸が私を見上げた。
「あなたは私を恨んでいましたか?」
 恨んでいない、と答えた彼女の言葉を信用していなかったわけではなかった。ただ、本音を単なる事実の中に紛れ込ませて、わかりにくくするのが彼女の性格である。
「恨んでいませんよ」
 彼女はそれだけしか答えなかった。歩くので精一杯なのか、と思ったが、その程度で変わる性質であるとは思えなかった。
「あなたにしては、あまり喋りませんね」
「そうですか」
 ただ、その返し方は変わらなかった。返事をしたくないときの、返し方。何事もないような穏やかな声で淡々と返す。是でも非でもなく、なんらかの意味のある言葉でもない返し方。
「危ないですよ。足元がおぼつかないのですから、気を付けてください」
 転びそうになったところを、手をとって引き上げる。彼女程度の重さならば、全く力を入れる必要もなく、むしろ勢いでふわりと浮きあがってしまった。黒い眼を丸くして、そして彼女は眼を細め、そして口角をきれいに上げた。
「ありがとうございます、鬼灯様」
 そう言いながら、またふらつく。今度は自分で立ち直ると、それを誤魔化すかのように笑った。私はその様子に呆れて、小さくため息を吐いた。
何処へでも行けるけど何処にも行けない、僕はこんなにも自由なのに


 なんとか部屋まで連れて行くのに、半日かかった。閻魔大王の御前に連れて行ってもよかったのだが、あの距離を半日かけて歩いた彼女を連れていこうとは思えなかった。何人もの人にすれ違ったが、彼女は客人に見えたらしい。説明も紹介もすることなく、部屋までたどり着いた。
「足元をよく見ながら、物の少ない場所を選んで歩いてくださいね」
 私の忠告通り、彼女は黙ってゆっくりと歩いた。なるべく入口に近いところに小さな椅子を出し、そこに座らせる。
「ここはどこですか?」
「私の部屋ですが」
 彼女はきょろきょろと部屋の中を見渡した。
「ここにいれば良いですか」
「とりあえず、ここで待っていてください。あなたの部屋を確保します」
「私の部屋、ですか?」
「ここで寝泊りをされると、あらぬ噂を立てられます」
 年は二歳ほどだが、見た目は大人の女性。私は、淫獣のように失う物がないわけではない。あの偶蹄類と掠るようなことで噂を立てられる可能性は、排除しておきたい。
「ですから、ここでじっとしていてください」
 彼女を部屋において、閻魔大王の御前に急ぐ。今日は裁判をしていないため、彼女の話を持って行ったところで業務が大きく妨げられることはない。
「閻魔大王」
 やあ、鬼灯君、という聞きなれた声と言葉に迎えられる。
「即戦力にはなりませんが、一人獄卒を増やしてもよいでしょうか」
「誰か拾ってきたの」
「いえ、金魚草の一つが神になってしまいまして。私の金魚草なので何方にも迷惑にならないように善処しますが」
 頭が悪くないことは分かっている。歩き回るような仕事では足手まといになるが、亡者の管理などはできるはずである。
「へえー、名前はなんていうの」
「名前はありません」
 閻魔大王は口をあけてそして閉じた。僅かばかり間をおいて、それは残念だね、と返してきた。
 私は、すぐに空き部屋を調整し、自室に戻った。
目を逸らすことを赦されていただけで 本当はずっとそこに、向き合わなければならない物があった


 部屋に戻り、彼女に部屋の確保ができたことを伝えた。
「そういえば、鬼灯様の部屋には、鬼灯の絵が描かれているのですね。わかりやすくて良いですね。鬼灯様の名前の由来って何ですか? 誰がつけてくれたんですか? お母さんですか?」
 先ほどまでと打って変わって、地獄に戻ってきたことでいつもの調子を取り戻したのか、彼女は喋り始めた。いつもと変わらない柔らかい声で、次々と質問を重ねていく。
「そういえば、蛇のことも鬼灯というらしいですね。白澤様がおっしゃっていました。鬼灯様、眼が蛇に似ていますからね。釣り目なところとか、目が細いところとか。輪郭も結構似ている気がしますが」
 一体何を言いたいのか。
 女性にしては低めの声のため、耳障りではない。ただ、このように意味のなさそうなことを連ねていくときは、たいてい何か言いたいことがあるのだ。最初から言ってしまえばこちらも頭を使わなくて済むのだが、妙なところで気を遣う彼女はそれができないらしい。ただ、それがわかっていても面倒くさいことには変わりがないのだが。
 私はとりあえず質問に答えることにした。そういえば、私自身の過去のことを何一つ喋っていなかった、と思いながら。勿論、避けてきたわけではない。喋る切欠がなかったのだ。
「鬼灯という名前を付けたのは閻魔大王です。私は元は人間で、丁と呼ばれていました。丁というのは召使の意味です。私は村で生贄にされて死んだ際に、鬼火が入ることによって鬼となりました。もともと呼ばれていた丁に鬼火。それを合わせて鬼灯です。昔こそは意味のある名前でしたが、この鬼灯という名前は、意味のある名前ではありません」
 そこまで喋って、私は彼女が望んでいることにようやく気がついた。私は舌打ちをした。本当に分かりにくい。言いなさい、と喉まで出かかった言葉を飲み込み、ただその感想を述べる。
「あなた、本当に面倒くさいですね」
 息を吐くように言うと、彼女はさっと目を逸らせた。
「すみません」
 本当に意味がわかっているのかわかっていないのか。わかっているからこそ、性質が悪いのかもしれないが。
 そういえば、と私は閻魔大王のことを思いだす。私に鬼灯という名前を与えた閻魔大王は、口を開きかけてそして閉じた意味を悟る。決して心地の良いものではなかったが、やるべきことが見えた。
 私ははっきりとしないことは嫌いだ。
綺麗なものからは綺麗なものが生まれ、正しいものからは正しいものが溢れると、人は信じて疑わない


 名前がほしい。
 それに私はようやく気が付いた。その願望が理解できないわけでもなかった。私自身、今の名前は閻魔大王から与えられたものだった。元の名前があったが、私の今の役職である「第一補佐官」のようなものであり、意味があるゆえに意味のないものだった。だからこそ、名前がほしいという願望の意味は分かっていた。
「今さらですが、名前を差し上げます」
「面倒だったら良いんですよ」
 彼女は微笑む。彼女のこのような反応が面倒くさいのだ。彼女自身も自覚しているだろうから、毎回は言わずに時々言うに留めているが。
「面倒です」
 私はあっさりと言い切り、そして続けた。彼女の性格も面倒だが、名前をつけるということも面倒でないわけではなかった。
「ただ、差し上げます」
 それは彼女のためというよりも、私自身のためだった。彼女のせいではない、彼女自身の存在によって、望むものが得られないというのは、理不尽に思えた。ある程度、そのようなことが生まれるのも仕方がないことだ。ただ、私がそれを強いているような状況が私には不快で仕方だった。それは、あの村の人間とかぶりはしないが掠りはするからだ。
「名前、は如何ですか」
 ふと頭に思い浮かんだ名前だった。それが、亡者の名前だったのか、視察の際に見かけた名前なのかは覚えていない。
「特に深い意味はありませんが」
 私は、あっさりと付け加えた。彼女は座ったまま私を見上げた。
「名前ですか。嬉しいです。ありがとうございます」
 彼女は黒い眼を輝かせていた。面倒だったら良い、となどと言っても、このように喜ぶところが面倒くさいのだ。素直に言えば良い、と思うが、素直からかけ離れている彼女が、今さら素直になれるとはとても考えられなかった。
「配属先の希望とかは? そちらはあなたの希望を聞きます」
 慣れるまで歩き回るような仕事はできないが、それでも仕事はしていた方が良い。地獄は人手不足だ。
「えっ、私、働くんですか?」
 彼女は眼を丸くした。それに対し、やや語気を強めて言う。
「当然です。私の多忙をよく知っているあなたから、そのような言葉が出てくることが驚きです」
 あれだけ仕事の話を聞いておきながら、と思う。桃源郷であの極楽蜻蛉と一緒にいたせいで麻痺しているのだろうか。どちらにしろ、あの偶蹄類は害悪以外の何物でもない。
「すみません」
「さあ、名前さん、閻魔大王の御前に行きますよ」
 はい、と返事をして彼女は立ち上がる。その途端に盛大に転び、私は大きな溜息を吐いた。
世界なんて物はいつだって大きすぎるから、エゴだけを残して心から溢れ落ちてしまうばかりだ


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