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 喋る金魚草ということは聞いていたが、実際に喋っているのを見るとやはり驚きは隠せない。鬼灯様から預かった金魚草は、俺が抱えられる大きさで、見た目は他の金魚草と何一つ変わらないように見えた。いつも薬の材料として扱っている金魚草と何を喋ろうか、と鬼灯様と別れた俺はずっと考えていた。地獄を出て、門の方向へ歩いていく。金魚草は、くるくると忙しくなく頭を動かしていた。周囲の様子を見ているようだった。心なしか楽しそうにも見えた。
 そういえば自己紹介がまだだった、と俺は思い出した。
「俺は桃太郎っていうんだ。君には名前があるの?」
「ありません」
 女の人らしい柔らかい声で、金魚草は返した。
「困らなかったの」
 名前がないというのは不便だと思う。シロや柿助、ルリオにも名前がある。喋るのだったら、名前があった方が便利なはずだ。
「複数人と話す機会はありまなかったので、困りませんでした」
 俺を見上げて、金魚草は答えた。
「やっぱり、鬼灯様がつけるべきだよなあ」
 名前がないというのは違和感が合った。ただ、数日しか世話をしない自分ではなく、この金魚草の持ち主が名前をつけるべきなのだと俺は思った。
「ただ、名前はあまりよろしくないと思います。私は金魚草ですから。鬼灯様が私に名前を与えなかったのも、それゆえでしょう」
 柔らかな声だった。
 俺はひやりとした。それは悪い感情に起因しているのではなく、純粋に驚いたはずだった。自分は金魚草である、と金魚草は言っているのだが、その言葉がひどく人間らしかった。
「金魚草はずっと金魚草なのかな」
 そう尋ねると、金魚草は金魚の部分をひょいと傾けた。俺は自分で言いながら、自分の言っていることが伝わらない理由にもすぐに気付いた。言葉が足りていない。ただ、その言葉を付け加えて説明する気にはなれなかった。少なくとも人に向ける言葉ではなくなってしまうような気がしたからだ。
 いつの間にか桃源郷への門の前まで辿りついていた。
「ごめん、わかりにくかったね」
 俺は謝りながら、門を開けた。
「ここが桃源郷だよ」
 俺にとっては見慣れた光景だった。暖かな日差しの差し込む緑の世界。
「綺麗ですね」
 真ん丸の目を覗き込むと輝いていた。
「緑色で明るくて、暖かくて心地良いです。こんな場所があるんですね。桃太郎様は素敵なところにいらっしゃるんですね」
 周囲を見渡し、体を揺らす。柔らかで女性的な声は明るい。
 この子を何とかしてやりたいと思った。それを鬼灯様がしていなかったとしても、俺はこの子を金魚草として扱いたくはないと思った。
正しいことの為に戦ってきたわけじゃない


 部屋の隅に置き、水をあげて俺は仕事に戻った。いつもと変わらない仕事だが、金魚草の目を輝かせた桃源郷で仕事をするのは、いつもよりもずっと気合が入った。夕方に白澤様のところで薬の勉強をして、日が暮れてから自分の部屋に戻った。
 金魚草の世話は、水やりとお喋りをお願いされていた。あまり多弁な方ではないように思えたため、その仕事がこなせるか俺は心配だった。お喋りが仕事に入ってしまうと、下手なことが喋れないような気がして、それも不安だった。
 夕食を食べながら、金魚草と喋った。金魚草には仕事の話をした。俺の仕事の話は面白いとは思えなかったけど、金魚草は次から次へと質問を重ねた。その見た目と反して、金魚草は随分と普通の感性を持っていた。普段俺が一緒にいるのが白澤様だからということもあるだろうが、その平凡でありきたりな相槌は、俺を安心させた。決して楽しいわけではなかったが、悪くはなかった。
「桃太郎様は真面目ですね。鬼灯様が信頼しているのもよくわかります。あのような仕事のできる自覚のある、実際に仕事のできる人間は、人を信頼せず、一人で仕事をするのを好む傾向にあるのですが……鬼灯様はよく人を使えるのは、きっと周囲の方に恵まれているからでしょうね。あのような人間はなかなか私事で人に頼みごとをするのは嫌う傾向にあるので、桃太郎様は特に信頼されているのですね。特に人間性において」
 表情は読みとることはできない。ただ、言葉には表情があるような気がした。金魚草は柔らかい声で次から次へと言葉を紡ぐ。金魚草は多弁で、そして俺のことを買いかぶり過ぎていた。
「そんなことないって」
 慌てて否定すると、金魚草はゆらりと大きく左に揺れた。
「そう謙遜されて」
「謙遜じゃないって」
 慌てて言うと、金魚草は右へ左へ激しく揺れた。一体、どうしたのだろう、とちょっと首を傾げると、金魚草は動きを止めて、口を開いた。
「笑っているんですよ」
 そういうことか、と俺は納得する。声は明るい。煌々と光る明かりを、金魚の白い体が反射していた。
「ただ、流石に笑うことはできませんね。困ったものです」
 金魚草は明るくそう言った。ただ、その言葉はひどく歯がゆかった。それは俺が金魚草を薬の材料として扱ってきたからだろうか。
星屑の一つに過ぎないと嘲ったのに、その脆弱な光にどうしようもなく焦がれた


 俺は、金魚草の寿命はそれ程長くないことを知らないわけではない。だからこそ不思議だった。部屋の隅でゆらゆらと揺れる金魚草は、幼さを全く感じさらない。歳を聞いてみると、左に大きく揺れて静止し、まるい口を開いた。
「二歳くらいだと思います」
 二歳。
 その程度だとは思っていたが、やはり俺には強い違和感があった。
「二歳とは思えないくらい知識があるね。頭が良いというか、幼さが感じられない」
 むしろ俺よりもずっと大人びているのではないかと思うほどだった。
「鬼灯様も、それを疑問に思っていたんですよ。私にも分かりません。物心ついたときにはすでにこのような感じでしたね」
 金魚草はひれを口元にひょいと当てた。
「おかげで、皆さんとお喋りを楽しめて、私としては幸運だと思うのですが」
 金魚草は激しく体を横に揺らして笑っていた。俺は少し考えてから、聞きたかったことを聞くことにした。
「人になりたいって思ったことはないの」
「どうでしょう」
 聞きたかったことだった。ただ、聞きたかったことに気付くまで少し時間がかかった。そして、今、ここでそれを尋ねるまでにもまた少し時間がかかった。ただ、金魚草はあっされとそう返した。まるで、最初から答えを用意していたかのような速さで、そう答えた。
「どうでしょう、って」
 俺は少し戸惑った。尋ねる時に、勇気が必要だったのだ。それをこうあっさりと返されてしまってはたまらない。
「白澤さん、質問に答えたくない時に"どうだろうね"って言うんだよなあ」
 白澤様は俺の質問には大体答えてくれる。ただ、答えないこともある。薬に関することは、答えられないと言う。ただ、そうではないこと、白澤様の考えを尋ねる時など、答えられないはずもないことを答えたくない時に、白澤様は言葉を濁す。それが「どうだろうね」だった。最初は気付かなかったが、最近気がついた。
 白澤様は誰にでも一線を引く。俺はそんな気がしていた。
「ああ、ソレです、多分」
 金魚草は、あっさりと答えた。
「答えたくないの」
「答えを出したくないんです」
 金魚草は明るく返した。それが道化染みていた。
「鬼灯様の金魚草なのに、鬼灯様よりも白澤さんに似ているね」
 金魚草はただでさえ真ん丸の目をさらにまるくさせた。どこがですか、とそう尋ねる金魚草に、俺も首を傾げた。言葉に言い表せなかった。
 金魚草には、鬼灯様のような分かりやすさがないのだ。それを上手く言葉にはできなかった。失礼な言い方になるが、最も分かりやすい違いは恐れの種類だと思う。鬼灯様は、直接的な、まるで蛇に睨まれるような怖さ。ただ、白澤様と金魚草は、神に対する畏怖のような、もっと分かりにくく間接的で、絶対的なものだ。俺は、いつも鬼灯様と白澤様が怖いわけではないし、特に白澤様が怖いと思ったことなどほとんどない。この金魚草に恐れを抱いたこともない。ただ、もし白澤様と金魚草に恐れを抱くとしたら、その恐れの種類は似ているのだろうと思うのだった。
僕らは正義の味方なんかじゃない、まして聖人君子でもない


 人になりたいか。
 私は人になりたかった。精々生きられても数年の命。それが悲しかった。やるせなかった。その現実からずっと目を逸らせてきた。烏滸がましい望みを抑え込んできた。身の程を弁えない望みを晒すのは、見っともないと思っていた。他者はそうは思っていないのかもしれない。きっとそうだろう。ただ、私自身が嫌だったのだ。
 桃太郎様は優しい人で、そして分かりやすい人だった。鬼灯様に似ている。ただ、鬼灯様と違って、針でつついて楽しむようなことはしない。太刀を握りしめ、その太刀を見て、相手を見て、自分の胸に手を当てて決心を固め、そして一気に斬りこむ。
 鬼灯様は斬りこむことはしなかった。だから、逃れようがない勢いで斬りこまれたのは初めてで、私はひどく動揺した。ただ、答えはすぐに出てきた。まるで長い時を生きたかのごとく、私は誤魔化しが上手かった。
「白澤様に似ている」
 きっと神獣も長い間を生きているのだろう。だから、きっと誤魔化しが上手いのだろう。
 息が苦しかった。体が酷く砂っぽかった。土が気持ち悪かった。そのくせ、体は軽くなっていった。
 気がついた時には、私は倒れていた。白い足が、倒れた植木鉢にささっていた。



 人になりたいか。
 そう尋ねた日の夜だった。明りを消すと、金魚草はその真ん丸の目を閉じて、俺はそれを確認してから床についた。
「桃太郎様、桃太郎様」
 俺は柔らかい女性の声で起こされた。
「誰?」
 まだ、暗い。薄らと目を開けると、人の姿が見えた。華奢で、背が高い女性のようだった。何故なのだろう、何があったのだろう。頭にかかった靄を振り払い、ぱっと目を開けた。
「私、金魚草です」
 白と赤の綺麗な髪は肩ほどで、纏っているのは紅白の着物。白い肌に、冷めた色をしているが、大きく丸い黒い双眸。背が高く若い女性。
 俺は叫んだ。白澤さんの家まで響いたかもしれないけど、俺は何も思わなかった。俺はここで叫んでも何も言われまい。
例えそれが夢だとしても、醒めるまでは夢とは気付かないものです


 夜が明けて、うさぎ漢方極楽満月に慌てて飛び込んだ。金魚草は歩けるようになったばかりだったため、実際はゆっくりと歩いて行った。身長が高いせいか、上手くバランスが取れず、何度か転びかけたので、手を差し出した。
「すみません、ご迷惑をかけて」
 そう言いながら、ゆっくりとひざを伸ばす。
「いや、そんなことないよ。大丈夫?」
「ええ。自分の足で歩くことができて、幸せです」
 下を向いていた。ただ、月明かりが強くないからだろう、影はほとんどなかった。
「人になりたかった?」
 もう一度、尋ねた。ゆっくりと。すると、今度は誰にでもわかる笑顔を浮かべた。黒いまんまるの瞳をすっと細めて、口角をすっと上げて。
「はい」
 白と赤の髪を持つ背の高い女性は答えた。おぼつかない足取りでゆっくりと前に進みながら、笑顔を浮かべた。その後ろに、大きな三日月が昇りかけていた。
 何とか辿りついた極楽満月だが、俺はすぐに白澤様に会えるとは思ってもいなかった。何しろ夜遊びの激しい方だ。明け方など、熟睡しているのが普通だからだ。
 しかし、極楽満月には明かりが灯っていた。
「やぁ、桃タロー君」
 普段と何一つ変わらないにこやかな笑顔で、白澤さんは迎えてくれた。
「起きていらっしゃったんですね」
 薬を煮込む音がする。漢方特有の匂いが漂う。
「仕事が立て込んでいてねぇ」
 白澤様はにこにこと笑っていた。そして、俺の隣を見やり、僅かばかりわざとらしく目を丸くして、すぐにその人懐っこい双眸を優しく細めた。あーあー、と言葉にならないぼやきを隠すことなく、俺は上司を呆れ気味に見やった。
「お隣の可愛いお嬢さん、お名前は」
「ありません」
 女性らしい柔らかな声だが、答えはさっぱりとしていた。
「鬼灯様からお預かりしている金魚草です」
「へえー」
 白澤さんは、鬼灯様の名前を出した瞬間は、一瞬だけ表情を歪めた。しかし、すぐにいつもの人懐っこい表情に戻り、にこにこと笑いながら相槌を打った。
「突然、人間の姿になってしまって……」
「そっか」
 それを相談に来たのだ。これがどういうことなのか、俺にはさっぱりだった。金魚草は果たして人間になるのか。それは呪の類なのかなんなのか。俺は全くわからなかった。しかし、白澤様はまるで興味がないというわけではないが、女性に好かれそうな優しい声で相槌を打つだけで、驚きもしない。白澤様は決して表情が少ない方ではないのに関わらず、全く表情が変わらない。
「何でそんなに反応が薄いんですか?」
 そう尋ねると、白澤様は鍋の前から離れ、てくてくと入口までやってきた。そして、背の高い女性の白く長い手をとった。
「それは、このお嬢さんが人の姿をとることは不可能なことではないからさ」
 その手に口づけ、そして俺の顔を見た。白澤様は、この言葉で俺が分かっているかどうかを判断したかったようだった。俺は分からなかったため、首を傾げた。金魚草が人の姿になるなど、聞いたことがない。
 白澤様は、黒いまんまるな目とその細い目を合わせた。
「この子は神様だ」
 そして、その手をとったまま一歩引き、にこやかに笑いかける。
「ニーハオ、金魚草の女神様、仲良くしようよ」
 俺は「金魚草の女神様」を見た。俺の隣に立つ背の高い女性は、ただでさえまるい目をさらにまんまるにさせて、白澤様の方を見ていた。
君が諦めた昨日を大切に握りしめて明日に繋げようと僕は今日も足掻いている


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