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 私はゆっくりと息を吐いた。そろそろ彼が来る時間だ、と。そう思いながら少しだけ上を見やると、案の定黒い人影が見えた。彼がこの時間に来ることは珍しいが、私は今日はこの時間に来ることを知っていた。今日は仕事が休みで、桃源郷に行くことを本人の口から聞いていたからだ。午後から桃源郷に行ったとしても、夜遅くなることはまずない。そんなことがあれば、あのよく話に聞く桃源郷の神獣の身が持たないだろう、と私は思う。そして、その神獣に会った日には、大抵私のところに来る。彼が桃源郷に赴く日は、例外はあれども大抵休みの日なのだ。
 すらりと背の高いが、華奢には見えない体つき。そして黒い金棒。鬼灯様は金棒を横たえ、私の眼の前に座ると、神獣の話を始めた。基本的には話に出すのも嫌なようだが、私は神獣と面識がなければ、今後会う予定すらない。きっと神獣に会った者は、知り合いとしての好意や愛着を抱くのだろうが、私にはそれがない。また、それだけ鬼灯が神獣の存在を意識をしているなどということは私にも分かるが、そんなことを言われるのも、それどころか思われることも嫌っていることを私は知っているため、そのようなことは億尾にも出さない。そのせいなのか、鬼灯様は私に桃源郷の神獣の話をする。
 この日もそうだった。事の一部始終を淡々と説明し、わざとらしい溜息をつき、膝の上に肘をつく。楽しそうには話さない。嫌いであるというのは事実のようで、心底嫌そうには話さないが、嫌だというのはよく伝わってきた。そして、そのあとはずっと仕事の話をする。私はずっと聞き手だ。ただ、鬼灯様の話は少しの無駄もなく、事実を淡々と述べていくだけなので、私は全く苦痛ではなかった。
 鬼灯様は、話したいことを全てを話し終えたのか、黙って私の方を見た。大抵そうなのだ。鬼灯様が納得するまで喋った後は、私が喋る番なのだ。私は喋りたいことを頭の中でぐるぐる回した後、それを飲み込み、そして回し、収集がつきそうにないことを悟ると、口を開いた。
「鬼灯様はよく喋りますね」
「私は寡黙ではありませんので」
 私の感想に対して、鬼灯様はさらりと返した。鬼灯様は、私の率直な感想に対して、自分の思っていることをそのまま返す。蔑まれていると思われても仕方がないことに対して、怒ることもなければ、賛美に聞こえる可能性のある言葉を喜ぶこともない。ただ、淡々と言葉を紡ぐ。それが重ねるような言葉であったり、私とは違う、それどころか反対の意味を持つ言葉であったりするのだが、それは否定でも肯定でもない。ゆえに穏やかなのだ。
「そうかといって、饒舌でもないでしょう」
 鬼灯様は骨ばった細い指で私に触れた。冷たい。死んでいるのだから、当然だが。
「あなたは饒舌ですが」
 はっきり、きっぱり、淡々と。いつもの変わらない調子で、鬼灯様は続けた。
「私は言いたいことは全て言っていますよ。いつでも。食べ物のことも、飲み物のことも。具合が悪い時のことも」
「ただ、あなたはあなた自身が喋りたいと思っていないようなことも喋る」
「そんなことはありませんよ、鬼灯様。私にとっては、ここを吹く風の変化も、通りかかる人々も、おそらくあなたにとっては些細なことかもしれませんが、私にとっては大きな出来事なのです。そうですね、今日は酷く暑くて、ただ風は心地良かったです。体の動きもとても良くて、明日もこんな天気だったら疲れてしまいそうですね。ただ、こういう日も悪くない、と私は思うのです。ですから、今日は良い日でした。そうですね、今日は小鬼の唐瓜様と茄子様が通りかかりましたよ。お喋りに付き合ってくれました。良い子たちですね。二人は途中でちょっとした言い合いになってしまって、喋りすぎてしまったのではないか、と少し心配になりましたが、そうではないのですね。二人ともとても仲が良くて、羨ましいなあ。と途中で思いました。ただ、喋りすぎてしまったのは事実であるようで、二人とも慌てて食堂に走って行きましたよ」
 私は、唐瓜様と茄子様と話したこと、二人の会話などを話した。鬼灯様は黙って聞いていた。そして、私が喋り終わると、顎に手をやった。私が次の言葉を投げようと、口を開けた瞬間、それを制するように口を開いた。
「全く、よく喋るからといって、ほとんど役には立ちませんね」
 表情はほとんど変わらない。長く鬼灯様と話をしているが、表情の変化はほとんどわからない。ただ、鬼灯様は正直だ。そして、素直なのだ。過激な言動と行動に隠されてしまいがちなのだが、何事にも素直で隠し事を好まない。素直であるということは、案外難しいのだ。思っていることをそのまま述べるということは勇気のいることなのだ。鬼灯様は強いのだと思う。そして、私のような者が弱いことも分かっている。木を森の中に隠すかのように、言葉を重ね続ける私が。
「水がほしいのでしょう。どうぞ」
 鬼灯様はその切れ長の目をさらに細めて、溜息をついた。そして水を汲む。与えられた水は生暖かくて、少しだけ甘いような気がした。
言葉は見えないし残らないけれど、消えないし無かったことにもならない。


 久しぶりに鬼灯様が私のところに話に来てくださった。そのことがわかった私は、やはり言いたいことを頭の中でぐるぐる回しながら、とりあえず頭の中で生成された文を思いついたままに喋ろうと思った。このようなことは滅多にしないのだが、私はいつもよりも甘えていた。
「うさぎになりたいと思いました。ぴょんぴょん、と。私とはあまりにも違いすぎますが。色は灰色が良いですね。私の心のようなグレー。もこもこしていて良いですよね。そして、可愛い。耳は小さめな方が好きです。ただ、ナキウサギほど小さいのは嫌ですね。ほどよい大きさ。ユキウサギとか可愛い耳だと思うのです」
 鬼灯様は動物好きだ。あわよくばそのまま楽しい動物の話に発展して、楽しく会話が続けられるだろう、と私は思っていた。ただ、鬼灯様は一瞬怪訝そうに眉間に皺を寄せた。勿論、それも長くは続かず、すぐにいつもの無表情に戻ったが。
「何を突然」
 鬼灯様は淡々と、いつもの無表情で返した。ただ、何を言いたいのか、何か深い意味はるのか、と怪しんでいるのは確実だった。
「薬師になりたくなってのですか、それとも獄卒になりたくなったのですか」
 無理なことを尋ねてくる。ただ、その聞き方にも納得していないのか、顎に手をやり、何かを考えているようだった。
「何をおっしゃるのですか、鬼灯様。私はうさぎになりたいのです。灰色のユキウサギ」
「雪でできた雪うさぎでは嫌なのですか」
「うさぎという名前も好きなので、雪うさぎにもなりたいのですね。ただ、希望が叶うのならば、灰色のユキウサギが良いです。私、グレーが好きなんですよ」
 私がしつこく灰色のユキウサギについて話すと、鬼灯様は、興味をなくしたかのように、そうですか、と答えた。そして、その後は鬼灯様が仕事の話をした。私は話をする順番を逆にしてしまったことに気付き、ひやりとしたが、鬼灯様は私の変化に気付くはずもなく、閻魔大王様が仕事をしない話や人材についての話を続けていた。ここに暫く話に来れなかった理由である、彼の三徹も。鬼灯様は有能だが、無理が過ぎる、と頻繁に感じることをやはり今回も感じながら、私はぼんやり話を聞いていた。
 鬼灯様は話したいことを話話し終わると、少しだけ間を置いて口を開いた。
「やはり、あなたは面倒臭い程度に賢いですね」
 鬼灯様は私の頭に手をやり、そしてその手をゆっくりと動かした。乾燥した冷たい掌は、骨ばった外見とは裏腹に滑らかだった。鬼灯様は何度か手を動かすと、立ち上がり、廊下を歩いて戻って行った。
「また、ここに来ることかできるように、仕事に戻ります」
 地面が冷たくなっていったような気がした。
 寂しいという気持ちが肯定されるのなら、死んでしまえるような存在であることが肯定されているのなら、私はうさぎになりたかった。今の私の身では、寂しいというのは合理的ではないのだ。理不尽なのだ。だから、寂しいと言っても、理に適う存在に私はなりたかった。鬼灯様は何も言わなかったが、それで良かった。私の感情は、合理的ではないのだから。
 鬼灯様が去った後の風は温かかった。地獄を吹く温かい風は嫌いではない。ただ、冷たい地面も嫌いではない。地獄は心地良いと私は思う。私は地獄しか知らないから、言いきることはできないのだが。ただ、この中途半端なところが、私には合っているような気がした。
淋しくて死んでしまえるのならうさぎになりたかった


 その日の鬼灯様は、話すことはありまなかったらしい。いつものようにやってきては、少しだけ仕事のことを話す。そして、しばらく時間を置いて、私の体に触れた。
「本当にあなたはどこをとっても微妙ですね」
 それが見た目のことであるということは、私もすぐにわかった。私は自分の容姿に全く自身がない。そして、鬼灯様が気にするのも、私の見た目であることぐらい、私は知っていた。私の見た目は、私の価値を決めていると言っても過言ではない。生まれつきの性質が多くを規定するそれによって、私の価値が決まるというのが、やるせないと思わないわけではない。ただ、私は気にしないようにしていた。何食わぬ顔を装い、表情一つ変わらない鬼灯様を見上げる。
「それはすみません」
「構いませんが」
 構わないなら言う必要はない。きっと、ただ言いたかっただけなのだろう、と私は思った。鬼灯様は言いたいことを言ってしまう。話を聞いている限りでは、私に対してだけではなく、多くの者に対してもそのように言いたいことを言っているようだ。そのような点でストレスを溜め込まないのが、鬼灯様が仕事を進められる理由なのかもしれない、と私は思っていた。
 ある言葉が喉まででかかったが、私はそれを飲み込んだ。喉は乾いていない。ただ、落ちつかなかった。鬼灯様を見上げる体が、重くなっていくような気がした。
 鬼灯様は私から目を逸らさず、やはり表情を変えることなく、淡々とつぶやいた。
「最初は、少しは役に立つのかと思ったのですよ」
「そうですか」
「それなのに、役には立たないですし、面倒臭いですね」
「そうですか」
 私は、既にその言葉だけしか返すことができなくなっていた。ただ、喉まで出かかった言葉を飲み込み、中身のない言葉を返していく。体は冷めていた。水を貰ってから時間は経っている。体が冷える理由はないが、体の芯はひどく冷たかった。
「しかし、卑屈にならなければ、怒りもしないのですね」
「そうみえますか。卑屈にならないわけでもないでしょうが、私は私。それは仕方がないことでしょう。鬼灯様がその黒い髪をしているのも、私がこのような体をしているのも。そして、小鬼が鬼灯様のような体の大きさに成長しないのも。小鬼の唐瓜様と茄子様はやはりあの体の大きさがよく似合うと思うのです。閻魔大王も同じです。あの性格の好いこと。あの体の大きさと体格も、閻魔大王のお人柄らしいと思いますよ」
 ええ、と鬼灯様はいつも調子で曖昧に相槌を打った。
「あなたが頑なに卑屈にならないので、つい戯れを」
 そして、鬼灯様は無表情でそう言い切ると、ゆらりと立ち上がり、私の前から去っていった。
「ひどいですね」
 私はぽつりとつぶやいた。そして、鬼灯様の姿が消えるのを見届けてから、ゆっくり域を吸い、そして吐き出す。
「私には価値がない。放っておいてくれれば良いのに」
 欠片も思ってもいない保身の言葉は、最初から喉まで出かかっていた。全てを閉ざし、慰めてもらえる可能性すらある言葉は、とても卑怯なのだ。ただ、それは嘘なのだ。だから、誰にも聞かせたくなかった。
 言葉を吐きだすと、体の奥が少しだけぬるくなっていくような気がした。
こんなガラクタ置いていけばいい


 鬼灯様は枯れた金魚草を抱えていた。乾燥させてあるためなのか、腐敗臭はしない。その姿を私はただ見ていた。何も言わず、ひゅーひゅーと小さく息をしながら。鬼灯様は私の視線に気づいたようで、屈みこんで目を合わせた。
「枯れた金魚草は薬に使います」
「そうですか」
 鬼灯様が抱えている金魚草の目には光はない。私はそれを一瞥すると、口を開いた。
「そういえば、今日はお香様がいらっしゃいましたよ。聡明な女性ですね。道理がわかる方でした。鬼灯様もお話していて楽しいでしょう。私もお香様とのお喋り、とても楽しかったです。最近、鬼灯様が無茶ばかりされているのを心配していましたよ。誰の目から見ても多忙なんですね」
 ふらりとやってきたお香様は、私とお喋りを興じられた。鬼灯様の小さい頃の話など、おもしろい話をいくつも聞かせてくださった。見た目は幾分か可愛らしかったが、中身はまるで変わっていないということなど。兎に角、とても楽しくお喋りをさせていただいたのだ。
 鬼灯様は、私の言葉に対して、そうですか、と適当な相槌を打った。そして、口を開いた。
「あなたは」
 いつもと変わらない、地を這うような低い声でぼそり、とそして一息をついてから続けた。
「私を恨まないのですか」
 それが何を指しているのかはすぐに分かった。
「恨み、ですか」
 私は顔を上げた。鬼灯様は屈んでいるものの、それでも私よりもずっと高い位置に顔があるため、私を見下ろしている。そのせいか、その顔には暗い影が入っていた。
「何をおっしゃいますか。感謝はしても恨みなどしませんよ、鬼灯様。働いてもいないのに、毎日心地良く過ごさせていただいて。鬼灯様は誰かを恨んだことがあるのですか。いやあ、鬼灯様に恨まれたらたまらないでしょうねえ。私だったら絶対に嫌です。本当に何をされるか……」
「私は恨んだことがありますよ」
 私の言葉は、鬼灯様によって遮られた。いつもと同じ声量といつもと同じ声の高さ。そして、いつもと同じ表情だった。ただ、鬼灯様が、私が喋っているところを遮るのは珍しく、私はまずそのことに驚いた。その内容よりも遥かに。
「ですから、あなたが私を恨まないのが不思議です」
 その蛇のような目は見慣れていた。切れ長で光のない双眸。私は鬼灯様以外の鬼を知らない。そのため、それ自体に恐れを抱くなどいうことはなかった。いつもと何一つ変わらないはずなのに関わらず、私は体が冷えていくのを感じた。
やさしく温かいものだけで出来ていたならどんなに良かっただろう


 あの日、鬼灯様は大きな鉢を持ってきた。
「暫く不在にします」
 私を丁寧に引き抜き、赤玉を引いた鉢に私を乗せた。長い指を絡めるようにして私の体を支えながら、柔らかい土をかぶせていく。白い手の先は土で汚れていた。
「私がいない間は、桃太郎さんが面倒を見てくださります」
 鬼灯様は、私を鉢に植え替えると、ぽんぽんと手を叩いて土を払った。
「桃太郎様は、今、桃源郷で働いているという方ですか? ということは私も桃源郷に?」
「ええ、不安な点もいくつかあるのですが」
 例の神獣だろうと私は思ったが、黙っていた。私は不安ではなかったし、鬼灯様にもそれは伝わっていることは分かっていた。むしろ、楽しみだった。私の世界は、この廊下と、この庭だけだったのだから。また、話を聞いている限りでは、その神獣も悪い者には思えなかったのだ。鬼灯様が不在にされるというのに、私はきっと明るい表情をしているに違いない。私は表情を消すために、ゆっくりと息を吐いた。
 鬼灯様はいつもと変わらぬ表情で、私を見ていた。
「水やりだけは他の方にもお任せできるのですが、話し相手をお願いできる人がいるほど、地獄は暇ではないので」
「すみません」
 つらつらと、地を這うような落ちついた低い声で、嫌味でもなんでもなく、ただの事実を鬼灯様は連ねていった。
 足音が聞こえた。大きな足音だった。鬼灯様とは全く違う、また小鬼とも違う大きな足音だった。
「桃太郎君が来ましたよ」
「鬼灯様、僕が預かる金魚草って」
 明るい声だった。私は足音のした方向を見た。廊下の向こうから、淡い色の着物を着た男性が走ってくるのが見えた。
「私です。桃太郎様」
 優しい目をした人だと思った。桃太郎様は私の声に驚いたのか、慌てて会釈をしてきた。本来、金魚草は喋ることはない。しかし、何故か私にはしっかりとした自我があり、また言葉も知っていた。そして、言葉には全く不自由がなかったのである。私が初めて喋った時には、いつも無表情の鬼灯様も驚いた表情をされていた。その後は淡々と、驚きましたね、と普段と変わらぬ調子で喋っていたが。
「よろしくお願いします」
 この人の働く、桃源郷はどのようなところなのだろう。私は鬼灯様と桃太郎様を見上げ、まだ見ぬ桃源郷を想った。
その世界は美しいですか、優しいですか、嘆きを癒してくれますか


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