レッテルの不足


 階段から声が聞こえた。
「名字名前ー、名字名前サンはどこですかー」
 聞き覚えのない知らない男の声だった。妙に間延びしていて、教師特有の気取った色のない声だった。それでも、最初は教師だと思った。思い当たることもなかったが、私は慌てて階段の方へ走っていった。
 階段には背の高い男子高校生がいた。スリッパの色から三年生だということがわかった。ただ、やはり面識はない。私の名前を呟きながら、スマートフォンを片手にきょろきょろと周囲を見渡している。
「名字名前ですが……」
 恐る恐る話しかける。すると、その人懐っこい顔にぱっと笑顔を浮かべた。
「よかったよかった。赤葦からさっき連絡があって、お前探して一緒に飯食ってくれって」
 はい、と口から漏れたの声は、見事なほどにひっくり返っていた。目がパチパチと動く。頭がぐるぐると回転する。目の前の三年生は私の言葉を待つように黙って立っていた。
 大人しい幼馴染みだった。余計なことをせず、ただ自分のことをしっかりとこなす、そんな子だった。
 私に頼る先輩のいないことを推測し、周囲の友人たちに気付かれないようにこの三年生に連絡をとった。その行動は誰にでもできることではなく、私も予想することができないものだった。ただ、頭の良い京治ならばできる。ただ、彼がその行動を起こしたということは受け入れられなかった。
 余計なことをしないし言わない、利口な幼馴染みの印象が、理解を邪魔していた。
「木兎さんは赤葦君の先輩ですか」
 ようやく言葉を絞り出す。三年生を見上げる。赤葦兄弟に慣れているせいで、背が高いということにはすぐに気付かなかったが、体格もあるためかとても大きく見えた。
「おう、俺が主将であいつが副主将」
 目の前の三年生は、待ってましたと言わんばかりに大きな声でそう言うと、にかっと笑った。
「どこで食べるか? 鷲尾のところにでもするか。あいつ、いつも一人で食っているからな」
 はい、と私は答えた。鷲尾という人がどのような人かは分からなかったが、この三年生の友人ならば大丈夫だろうと思った。そして、何よりも変に遠慮するよりもこの三年生についていくことが最も良い選択に思えた。
 階段を登り、廊下を歩く。三年生の斜め後ろを歩く。その明るい性格のイメージのままに交友関係が広いのか、三年生はすれ違う人に声をかけられていた。私のことを尋ねる人もいたが、三年生は後輩とだけ答えていた。マネージャーとでも思われていたのだろうか、それ以上言及されることはなかった。
 廊下は随分と長く感じられた。つきあたりのすぐ横の教室に入る。
 教室は全て同じ形をしているのに関わらず、空気は全く違う。好きだと思えるクラスではないが、それでも愛着があるのだろう、と他所のクラスに入るたびに私は思う。
 三年生のクラスは、受験生であるというのに賑やかだった。理系のクラスなのか、やや男子生徒の方が多い。
「鷲尾」
 前から二番目、教室の真ん中でただ一人で食べていた男子高校生に、三年生は話しかけた。鷲尾と呼ばれた男子高校生は、大きな体に不釣り合いな机で一人黙々と弁当を食べていたが、三年生の声で顔を上げた。
「どうした」
 まずは私を連れてきた三年生にそう尋ね、そして視線を私の方にやった。
「誰だ?」
 厳つい顔だった。言い方もぶっきらぼうで、声は低く図太かった。誰もが怖さうだと形容してしまうような顔つきと声だった。ただ、それほど怖いとは感じなかった。未だに予想外のことで動揺していて、感覚が麻痺していることもあるだろう。
「赤葦から一緒に飯食ってくれって頼まれた二年生」
「二年の名字名前です。突然すみません」
 三年生は近くの椅子を引き、小さな机の空いているスペースに大きな弁当を置いた。置く直前に、鷲尾と呼ばれた三年生は素早く自分の弁当を端に寄せた。私は自己紹介してから近づいた。鷲尾と呼ばれた三年生は私を連れてきた三年生が弁当を置くのを確認すると、私のために隣の椅子を引いてくれた。随分と気の回る優しい人のようだった。
 私はお礼を言ってから座った。
「こいつもバレー部なんだ。同じ三年生。鷲尾辰生」
 鷲尾さんは何も言わず、頷きもしなかった。
「鷲尾、赤葦が物を頼んでくるなんて珍しいだろ」
 三年生が身を乗り出すようにして、鷲尾さんに言った。鷲尾さんは食べていたものをごくりと飲み込んでから口を開いた。
「そうだな」
「俺、嬉しくてさ」
 三年生は言いたくて仕方がなかったことを言ったのだろう、目を輝かせて言った。
 京治が、この三年生を頼りにした理由が分かったような気がした。純粋に、ただ頼られたことを喜んでいた。
「美味しそうな弁当だな」
 鷲尾さんは私の弁当を見て言った。低い声が少しだけ裏返っていた。私に気を遣ってくれたのだろうと思った。
「ありがとうございます。母が作ってくれたしいらの照り焼きです」
「魚の照り焼きは好きだ」
 鷲尾さんは少しだけ笑ってくれた。本当に随分と気を遣ってくれているのだと思った。
「俺は肉の方が好きだ」
「肉が好きなんですね」
 決して上手くはない相槌だったが、三年生はとても楽しそうに好きな肉の話を始めた。鷲尾さんは黙って聞いていて、私だけが軽い相槌を打っていた。
 私が食べ終えた弁当を片付け始めると、ふと思い出したかのように私を連れてきた三年生が口を開いた。
「ところで何でお前は三年生の教室の前にいたんだ」
 鷲尾さんが私を見た。特に表情を変えず、真顔のせいで睨んでいるようにもみえたが、睨んではいないのだろうと思った。
「教室が居づらかったので、三年生の先輩のところに行くって抜けだしたんです。ただ、部活をやっていないので、知っていてる先輩がいなくて途方に暮れていたので、助かりました」
 私は事情を省いた説明をした。突っ込まれたくはなかった。気遣ってくれた京治の立場を少しでも悪くしたくなかった。
 そうだったのか、と木兎さんは軽く笑った。大変だったなぁ、と嬉しそうだった。困っていた私を助けたことが嬉しかったのかもしれない。ただ、その気持ちでいっぱいだったとしても、何も聞いてこないところは、ただ何も考えていないからではないと思った。
 鷲尾さんも何も尋ねてはこなかった。
「お名前を教えていただけますか」
「そういえば言ってなかったな。俺は木兎光太郎」
「木兎さん、ありがとうございます」
 立ち上がり、椅子を片付け、軽く頭を下げた。
「赤葦にもお礼言っておけよ」 
「ええ、勿論、京治にも」
 木兎さんは、にこにこと笑いながら手を振ってくれた。しばらくはこの教室にいるらしい。鷲尾さんは僅かに眉根を寄せたように見えた。
 階段を降りて、三年生の校舎を出る。私は始終ぼんやりとしていた。京治の、思い出せないくらいに多くの記憶を手繰り寄せる。
 ただ、私は京治のことがわからなかった。
 きっと、彼に対するレッテルは、膨大の記憶の量とは比べ物にならないほど少ないからだろう。それも、全てがいつ貼られたのかわからないような古いレッテルだった。幼い頭と親兄弟たちのレッテルだけでは、今の京治のことはわからないらしい。
 教室には戻りたくはなかった。ぼんやりと廊下を歩き続けていたかった。ただ、教室に入ったところで、その教室に京治がいることがなぜか信じられず、離れた席に座っている京治の姿は一瞬も視界に入らなかった。午後の授業の内容も、頭に入っているのか入っていないのかさえ分からなかった。
 京治たちは夕食を食べに来た。全員が食べ終わり、食器を片づけ始める。食器のぶつかる音がして、一番に食べ終えた弟が風呂の準備をしているのが視界の隅に映った。
「京治、今日はありがとう」
 ランチョンマットを片付けながら、京治に後ろからそう声をかけた。囁き声ではないが、聞きとれるギリギリの大きさの声を出した。京治はテーブルを拭くのを一瞬やめたが、振り返りもせず、何も言わずにテーブルを拭き続けた。
「お昼さ、明日からは隣のクラスの友達と食べるから」
 京治の横顔が見えた。そう、と唇が動いたような気がした。
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