花の願い


 白いシーツはいつも使っている種類だったし、枕も布団もそうだった。しかし、天井が違う。アスアは慌てて上体を起こしたが、ぐわん、と目眩がしてすぐに体を倒すことを余儀なくされた。
「目が覚めましたか?」
 もし、自分の部屋ならば、聞こえるはずもない声。
「ランス様……ここはどこですか?」
 姿は見えないものの、声の持ち主ぐらいは分かる。見覚えのない部屋に、アスアは掠れた声でそう尋ねると、答えはあっさりと返って来た。
「私室ですが?」
 枕を整え、体を僅かに起こすと、デスクにランスの後ろ姿が見えた。
「医務室は重症患者で溢れていて、新しい患者は受け付けられないそうです」
 肺炎患者か、とアスアは思った。
「何故ランス様のベッドに?」
「私に五階まで運べと?」
 あなた何様ですか、とでも言いたげな緑眼。
「すみません」
 アスアは素直に謝った。アスアの顔など全く見ずに仕事を続けるランスに、アスアは尋ねる。
「ベッドは使わないのですか?」
「使う余裕があると思いますか?」
 その言葉に、風邪で使えない人が多くて仕事が増えて、睡眠をとる暇がないんだな、と思ったアスアは尋ねる。
「何日目ですか?」
 主語は当然、徹夜の日数。
「数えてません」
 通りで糊がきいているわけだ、とアスアは思った。シーツは数日に一回洗濯することになっている。
「私、部屋に戻りますね」
 ランスが睡眠がとることができるようになったら、すぐにとるべきだ。アスアはランスの迷惑にならないように、早々に退去しようと思った。
 大体、仕事をしている上司のベッドを占領するのは、流石に図々しい、とアスアは思っていた。
「一人で戻ることができるのならどうぞ。私はあなたの部屋まで付き添う余裕がありませんから」
「誰かいないのですか?」
 そう尋ねる。同室の団員は、迎えに来て欲しいと言えばすぐに迎えに来てくれるだろう。
「あなたの部屋は全滅ですよ。分かったら大人しく寝ていてください」
 アスアの頭は冴えていたのに関わらず、目を瞑るとすぐに眠気が押し寄せた。ただ、ランスの顔色の悪さだけが、アスアの脳裏に焼き付いて離れなかった。


 それは夢だった。昔の夢である。
「お母さん、寝ないの?」
 夜、アスアは布団に入ったまま、母親に尋ねた。
「お母さんは用事があるから。アスアが寝てから寝るよ」
 いつも、自分を布団に入れる時に、出かける用意をしていた母。暗い夜に何処に行くのか。
「お母さん寝ていないでしょ」
 頭"は"良かったアスアは、母親がほとんど眠っていないことを知っていた。母親は、長屋に引っ越してから、つまり父親が逮捕されてから顔色が悪くなる一方だった。
 しかし、アスアの母親は仕事を辞めなかった。辞めることができなかった、という方が正しい。
 一人娘がいては、再婚すら難しい。物理的には、アスアの存在は荷物でしかなかった。アスアはそれを理解していなかった。
「お母さん、大丈夫? お母さん!」
 母親が倒れて、息を引き取った時にも気付かなかった。
 しかし、今、アスアは後悔している。母親を無神経に心配したことと、母親のために何もできなかったことを。


 アスアは慌てて飛び起きた。汗をびっしょりとかいていた。部屋には誰もいない。部屋の主はどこかに行っているらしい。
 アスアはテーブルの上に置いてあったポケギアを取った。団員の中でしか使えない特殊なポケギアだ。アスアはポケギアの登録リストから電話をかける。
『アスア、お前、風邪は大丈夫なのか?』
 電話をかけた相手はレイキである。
「大丈夫。それよりレイキ、ランス様の仕事が無茶苦茶多いようなんだけど、どの程度仕事を回されているかアテナ様に訊いてくれる?」
 体は火照っていたが、嫌な夢を見た時ほど、起きた時の頭の回転は良い。
「何故?」
「ランス様が忙しくて寝ていない。はっきり言って異常」
 ランスの顔色は決して良くはなかった。それが死んだ母親と重なったのだ。アスアは嫌な予感がして仕方がなかった。
「了解。アテナ様に聞いておく。ランス様には何か言ったのか?」
「私が報告書とか全部ランス様に任せているから、寝て下さいとか口が裂けても言えないし、風邪でランス様のベッド占領しているから」
「お前、幹部様のベッドで寝ているのかよ」
 本来ならば女の子が男のベッドで寝ているというところを指摘するべきだが、レイキはアスアのことだからランスを呆れさせているだろう、と思った。アテナは警戒しているが、アスアはそれ程魅力的ではない。
 レイキの考え方は決して間違ってはいない。
「ランス様ベッドで寝ないからって、貸してくれた。今いないけど」
「……とりあえず、分かった。確り休めよ、幹部様のベッドで」
 レイキは呆れたような声で言った。アスアは何でもありだ。


 アスアがひと眠りしている間に、ランスは戻ってきた。まさか、アスアがポケギアを使って連絡を取ったとは思ってもいない。
 数時間後、再び扉が開いた。
「ランス、あなたの仕事、私とラムダが分担して片付けるから、いい加減休みなさい」
 ノックなしに入ってきたのはアテナ。突然の同僚の言葉に動揺しつつも、ランスは書類に目を落とし、冷たく返した。
「余計なお世話です」
 すると、アテナに続いてもう一人の同僚が入って来る。
「今回はアスアのお願いってことで見返り要求する気はさらさらないぜ」
 そこで、漸くランスは現状が掴めた。じろりと部屋の隅のベッドに目を向ける。かさりと毛布が動いたのは気のせいではないだろう。
「下っ端如きの意見で……」
 狸寝入りしているであろう部下にも聞こえるように、ランスは忌々しげに言った。
「アスアの状況判断は正しかったと言わざるを得ないわ。だって、実際に多かったもの。あなた、アポロに余計なこと言ったでしょう」
 アポロに嫌われているとしか思えないわ、とアテナは続けた。
 ランスもそれは感じていた。そもそもランスはアポロと仲良くやっていたわけではない。アスアの一件以来、険悪になっており、嫌がらせの如く無理な量の仕事を押し付けられていることはランス自身よく分かっていた。
「部下が占拠しているので、アレを退去させなければいけません。寝るのは不可能ですし、必要ありません」
 だからこそ、アテナやラムダら頼るべきであることは分かる。
「別にいけるだろ。アスア小柄だし、ランスもそんなに場所とらねぇだろ」
「シャクの娘ですよ!! 壮絶に寝相が悪いに違いありません。一睡もできないでしょう。時間の無駄です」
 任務でシャクの隣で寝ることになった時、ランスは酷い目に遭ったのだ。
「そっちかよ」
 ラムダの尤もな指摘に、自分がとんでもないことを言ってしまったことに気付いたランスは、何かを言おうとしたのだがそれは叶わなかった。
 布団の狭間からぬっと手が伸びてきたかと思うと、紫色の影が走る。大きく突き飛ばされ、真っ先に浮かんだ犯人の名前を叫ぼうとするが、それは叶わなかった。
 催眠術。
 我慢していた急激な眠気にクロバットの催眠術。勝てるはずがない。特有の芳香も漂っていることから、眠り粉を持つクサイハナも控えているのだろう。ブラッキーも欠伸持ちだ。アスアの三匹のポケモンは、全て眠りの技を持っている。
 ランスはそのまま意識を手放した。


「ありがとう、クロバット」
 アスアはランスを布団の中に引き摺りこむと、クロバットとクサイハナをボールに戻した。ラムダとアテナがいるため、ブラッキーはベッドの下に隠れたままである。
「ランス様、本当に寝ていますね」
 布団をかぶせた後、つんつんと頬を突きながらアスアはそう言った。
「おい、アスア、体は大丈夫なのか?」
 そう尋ねるラムダに、アスアはにっこり笑って答えた。
「まだ、少しだるいですが、大丈夫です」
 熱はあるだろうな、とアスアは思っていた。しかし、倒れた時ほど酷くはない。
「ランスと一緒に寝とけ。ランスが勝手に目を覚ますかもしれないから、奴が諦めるまで見張りな」
 ラムダがニヤニヤしながらそう言った。
「うわー、緊張しますね」
 アスアはそう言いつつ、もそもそとランスの隣に入る。
「ラムダ様、アテナ様、ありがとうございました。では!!」
 そう言って、目を閉じたかと思うと、すぐに眠りに落ちる。一人分のベッドで寝ている二人。年の離れた兄妹のようで、微笑ましいのか滑稽なのか。
「うわー、緊張しますねと言っておきながら、眠りにつくまで十分。流石シャクの娘だな」
 そう言いつつ、ラムダはデジカメでパシャリと写真を撮る。
「これを使って、ランスを脅せるな」
「駄目よ、そんなことをしたらアスアが可哀想だわ」
 彼は女の子に人気があるんだから、とアテナはラムダを咎める。
「確かにな。幹部会でアポロに見せてやろうか」
 ランスの目の前でな、とラムダは笑った。


 目が覚めると、ランスはベッドの上で寝ていた。ふと隣を見ると、アスアがもぞりと動いた。アスアを無視して起き上がろうとすると、ぐっと腕を掴まれた。
「アスア、あなた、やってくれましたね」
 ランスは無理矢理振り払うことなく、犯人に向かって無機質な声で言った。このような声を出して、不機嫌な顔をすれば大抵の人間は怖気つく。
 しかし、アスアは全く腕を離そうとはしない。危機探知能力の高いアスアは、自分のその能力に自信があった。つまり、危険を感じないときには、危険ではない、と判断することができるのだ。アスアはランスが怒っていると言うよりは呆れている、ということをすぐに探知していた。
「私は自分の無能さに腹が立ちます」
 アスアはずるずると上体を起こし、ランスの隣に座る。俯きながらも、はっきりとした口調でそう言った。
「私の母は過労と睡眠不足で体を壊し、死にました」
 声は熱っぽいが確りとしていた。
「私は母の苦労も知らず、寝ることのできない母親を無神経に心配しました」
 そして、ランスと目を合わせずそう続けた。
「それがどうしたのですか?」
 ランスは、アスアの言いたいことを理解していたが、苛々とした口調でそう尋ねた。実際に苛々していたのだ。
 しかし、アスアは容赦ない。すっと目を細め、ランスの顔を見上げる。
「ランス様、死なないで下さい」
 アスアのその言葉と共に背後から飛び出してきたのは、クサイハナとクロバットだった。アスアとポケモンたちの意図を理解しているランスは目を閉じた。
「アスア、覚えておきなさい」
 目を瞑ることで、クロバットの催眠術を回避し、クサイハナの眠り粉が到達するよりも前に、ランスはそう言った。


 後日、ランスはアポロの目の前でアスアと寝ている写真を見せられることになった。尊敬している上司に笑われ、ラムダに笑われ、アテナに笑われ、ランスはとても不機嫌になった。
 しかし、口を開いたところで事態が良くなることはないということを重々承知していたので、始終黙り込んでいた。
「勝手なことを……」
 散々な目に遭ったランスは、帰り際にそうぼやいた。
「安心しなさい。今回に限っては見返りは要求しないわ。だって、本当に異常な量の仕事がランス班に回されていたんだもの」
 上機嫌なアテナは笑顔を振りまきながらそう話した。
「あの子、機転がきくわねぇ。本当に手放す気はないの?」
「あなたの班にいても使えないでしょう」
 ランスはばっさりと切り捨てた。

 

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