牢獄に一輪の花
ランスは早くもヒビキ対策に乗り出したようだった。ロケット団が"少年トレーナー"に敏感になることは無理もないことである。ラムダとランスが動き、とりあえずヒビキの幼馴染を捕まえたらしい。
アスアはそのことを小耳に挟んでいたが、その幼馴染が不運だとしか思わなかった。
その日、アスアはランスに呼び出された。風邪の大流行のせいか、仕事の量が増えているらしく、そのデスクの上には書類の山が置いてあった。
「見張りの担当が肺炎になったので、代わりに見張りをお願いします」
団内では風邪が流行っており、中には肺炎になる者もいた。
「了解です」
アスアは地下牢に向かった。
地下牢にはすぐに着いた。薄暗い牢には誰もいない。二重の扉を開け、牢の最深部に進む。突き当りの格子の狭間から見えたのは、茶色い髪だった。
「コトネちゃん?」
アスアは慌てて格子の前まで走り、独房の隅で俯いて座っている少女の名を呼ぶ。
「アスアちゃん?」
その声は涙声だった。攫われて地下牢で監禁されて、さぞかし不安だっただろう、とアスアは思った。上げられた顔は、一瞬安心したかのような笑顔を浮かべたが、すぐにそれは不安げな表情に代わる。
「どうして……コトネちゃん、まさかヒビキ君の幼馴染?」
「アスアちゃんロケット団なの?」
コトネは涙声でそう尋ねる。
「ロケット団だよ。マリルは盗られたんだよね。取り戻してくるからちょっと待っていて」
アスアの言葉の真意が読み取れないのか、えっ、っと戸惑いの表情を浮かべるコトネにアスアははっきりと言った。
「逃げるよ、コトネちゃん」
じゃあね、と言ってアスアは地下から抜け出す。自分の部屋に戻ると、予備のロケット団の団服とウィッグを鞄に仕舞い、盗んだポケモンを仕舞う保管庫に急ぐ。
風邪の蔓延で、ただでさえ人の少ない公共スペース。保管庫にも誰もいなかった。アスアは保管庫の扉を確りと閉めると、自分の腰に付いているモンスターボールを投げる。
「ブラッキー、マリルの匂いのするボールを探して」
多分、そんなに奥にはないはずだから、とアスアは言った。ブラッキーは棚の上に飛び乗り、モンスターボールのボタンを押す。中から出てきたのはマリル。
「流石ブラッキーだね。ありがとう」
アスアはマリルの入っていたモンスターボールを掴み、マリルとブラッキーをボールに戻す。そして、そのまま地下に駆け下りる。
「コトネちゃん、これに着替えて」
地下牢の入り口にあった鍵を取り、鍵を開けると、アスアはロケット団の団服とウィッグをコトネに手渡す。
「アスアちゃん、マリル……」
「あっ、ごめん」
アスアはコトネにマリルのボールを渡す。コトネはマリルをボールから出した。
「マリル、無事でよかった。怪我はない?」
ここに閉じ込められていることよりも、マリルを盗られた方が堪えていたらしい。
「コトネちゃん、早く着替えて」
再会を分かち合う時間はない。アスアはコトネをせかした。コトネもそれが分かったらしく、マリルをボールに仕舞うと、団服に着替える。
アジトの出入口までコトネを送る。団内の廊下は人気がなく、アジトの出入り口もやはり人気がなかった。
「私は一緒に行けないけど、コトネちゃんは早く町に出て」
「ありがとう、アスアちゃん」
コトネの涙は乾いていて、無理はしているようだがアスアに笑顔を見せた。
「ピンク色の髪の人には絶対に近付いたらいけないから」
町に出れば大丈夫、といって、アスアはコトネの後ろ姿を見送った。その時だった。
「アスア、どうしたのですか?」
世界が、時が止まるということはこのようなことなのだ、とアスアは思った。聞き慣れた声に恐る恐る振り返れば、目に入るのは感情のないターコイズグリーの双眸。
「業務上の過失だけではありません。あなたは彼女を逃がしましたね」
アスアは何も言わず、ゆっくりと後ずさりした。
「だんまりですか? 普段は余計なことまで喋るのに」
ボールが勝手に開き、黒い影が飛び出した。すぐに鮮血が散る。
「申し訳ございません」
だくだくと赤黒い血の流れる腕を庇いながら、アスアは座り込んだ。ランスに噛みつこうとしたのだが、間違えてアスアに噛みついてしまったブラッキーは、ふん、とアスアから顔を背ける。
悪いことをしたのは分かっているが、謝る気はさらさらないということである。
座り込んだアスアは、呆然と止めなく血が流れる腕を見ていた。このような出血は初めてだった。何をしていいのか分からないのだ。
「腕を出しなさい」
対するランスは冷静だった。小さな鞄から黒い布を取り出すと、それをアスアの腕に強く押し付けた。アスアは痛さに小さく悲鳴を上げ、身を捩るがランスはその手を緩めない。
ランスは黒い布を外すと、二の腕の部分を黒い布で縛り付けた。その時には、床が真っ赤に染まっていたが、血はすぐにほとんど出なくなった。
「静脈が切れています。医務室に行きなさい。あなたの処遇はアポロに相談します」
ランスは抑揚のない声でそう言うと、足早に去ってしまった。
「床、どうしよう」
「クサイハナ、メガトレインで、この血を吸い取って」
ブラッキーと違い、控えめなクサイハナはアスアの腕を心配そうに見ながら、本当にメガトレインをしていいのか、と尋ねるかのようにアスアを見上げる。
「ここ綺麗にならないと、医務室に行けないから」
医務室で手当をして貰う。ポケモンを無理矢理奪うこともあるロケット団の医務室。ポケモンの噛みつき傷への対応は優秀だった。
「随分強いポケモンに噛みつかれたのね」
「ええ、まぁ……」
痛む傷を洗われ、テーピングをされる。背後には風邪の重症患者のベッドがずらりと並んでいた。それを見ていると、手当てをした女性が、肺炎患者が出ないか心配なのよ、と言った。
テーピングも終え、これからの治療について説明を受けていると、医務室の扉が開いた。ランスである。
「ランス様、応急処置をしてくださったそうで……おかげでそれほど出血はありませんでしたよ」
ランスは女性に穏やかに笑いかけると、すぐに無表情になってアスアに言った。
「禁固一週間です。これで済んだのですから良かったと思いなさい」
あら、あなた何か悪いことでもしたの、と目を丸くしている女性に苦笑いをしてから、アスアは尋ねた。
「地下の牢ですが?」
「地下以外にどこが?」
あっさりとそう言われると、居心地が悪くなるのが人間である。すみません、と小さく謝り、地下牢で何をして過ごそう、と考えながら溜息を吐く。
さぁ、行きますよ、と言うように、さっさと医務室から出て行ってしまうランスを追う。アスアが小走りで追いついた時に、ランスは口を開いた。
「食事は一日一回です。ポケモンはその間没収です」
食事が一日一回は辛いが耐えられる。しかし、ポケモン没収はアスアには堪えた。しかし、アスアの顔色の変化に気付いたのだろう。ランスはあっさりと付け加えた。
「こちらが認知しているポケモンだけですが」
その言葉で、アスアの気持ちは軽くなった。ブラッキーと一緒にいることができるのは勿論だが、ランスが冷静であるということが分かったのだ。
もし、ランスがアスアに腹を立てていたら、ブラッキーも回収するはずである。
辿りついた地下牢はやはり暗かった。たとえ、ブラッキーと一緒であろうとも、憂鬱になりそうな空間である。
「扉は二重になっています。誰かが来る時には、必ず一枚目の扉の鍵を開ける音がします。あなたは団員ですから、見張りはつけません」
ランスは、アスアのブラッキーの所持が発覚しないように、最大限のことをアスアに教えてくれたということだ。誰かが来ると音がするため、その間にブラッキーを隠せということだ。
「感謝します」
アスアは丁寧に頭を下げた。
「くれぐれも失態を重ねることはないように」
ランスは、"親切"はするが、そのことを表情に億尾にも出さない。
「了解しました」
その時は、笑顔でそうは言ったものの、がしゃんと音を立ててかけられた鍵、遠ざかる背中と容赦なく閉められる扉は、決して心地の良い物ではなかった。
ボールから出すと、ブラッキーはぶわっと不機嫌そうに鳴いた。
「ブラッキー、何怒っているの?」
彼が怒っているのはよくあることで、むしろご機嫌な時の方が少ない。アスアは、ブラッキーが腕を出したことに腹を立てていることは分かっていたため、話を操作する。
「本当に強くなったね」
今、遊んだら、絶対に負けてしまうなぁ、といってアスアは笑った。
「せっかちで意地っ張りで喧嘩っ早いけど、バトルには強いからね」
どの要素も、ブラッキーにはプラスに働いている。
「二人だけでゆっくりするのは久しぶりだね」
ロケット団に入ってから、ブラッキーを滅多にボールから出さなくなった。ブラッキーは不満げに、ぶぁっと鳴いた。
ランスが食堂で昼食をとっていると、ラムダが近付いてきた。何を言われるのかを何となく悟ってしまったランスは、不快そうに表情を僅かに歪めた。
「おい、アスアを牢獄にぶち込んだって本当か?」
ラムダは声を潜めてそう尋ねた。
「禁固一週間です。確保していた人間をポケモン付きで逃がしてこれですから、重いとは言わせません。排除しても良かったのですが、実力はありますので」
そうは言ったものの、ランスは排除する気はさらさらなかった。ランスは、アスアが少女を逃がしたのはアスアの甘さに原因があり、裏切りではなく過失だと判断した。それは間違ってはいない。そして、コトネを失うことによる損失よりも、アスアを失うことによる損失の方が遥かに大きい。
「お前容赦ないよなぁ」
「むしろ、甘い対応でしょう?」
ラムダの言いたいことはランスにも理解できた。元上司の娘であり、十ニ歳の少女を一週間閉じ込めるのはどうなのか、見逃してやることはできないのか、とラムダはランスにそう尋ねていることを、ランスは分かっていた。
「だから……まぁ、いいさ」
呆れたように笑ってから、ラムダは去って行った。
ランスは疲れていた。それだけではなく、イライラしていた。風邪で使い物にならない部下が多いのにかかわらず、仕事量は全く減る様子はない。
それでも、一度ぐらいは部下に会いに行こう考えていた。
「アスア……寝ていますか」
四日目の夜だった。牢獄の端には、毛布の塊が転がっている。音一つしない暗い空間。
あまりの静けさに、ランスはアスアが生きているのかどうか、一瞬不安になったが、毛布の塊が僅かに動いたのをすぐに確認した。
格子の近くに置いてあった食事は、半分ほど残っていた。ランスはアスアを起こすことなく、すぐに執務室に戻った。
もし、レイキが地下牢に来ていたらアスアの異変に気付いただろう。アスアは出された物は全て食べる。毎日成人と同じ量の食べ物を三食摂っていて、いくら動かないとはいえ、三分の一になった食事を残すはずがない。
七日目の夕方、ランスはアスアの牢獄の鍵を開けに行った。部下にやらせても良かったのだが、風邪の流行による多忙で、使える部下はほとんどいない。
やはりアスアは毛布に包まって寝ていた。鍵を開け、中に入り声をかける。
「アスア、七日目です」
しかし、一向に起きる気配がないどころか、ぴくりとも動かない。ランスは牢の中に入り、毛布の塊を揺する。
「七日目ですか?」
もぞもぞと毛布が動き、半開きの目が出てくる。
「風邪で使える部下が少ないですから、あなたにも動いていただきますよ」
ランスはそう言ってアスアを急かした。アスアはゆっくりと立ち上がると、はい、とだけ返事を返した。
アスアは心なしか顔色が悪いように見えたが、一週間も閉じ込められていたのだから仕方がないだろう、とランスは思った。ふらふらと足元がおぼつかないのも、暫く歩いていないからだろう、と。
とりあえず、アスアに必要書類を持たせ、アポロに提出させなくてはいけない。自分の執務室の方が地下から近いため、そこで書類を持たせるべきだろう、とランスは思い、自分の執務室にアスアを入れた。
執務室でアスアを立たせ、書類を出した時だった。ドサっと何かが崩れ落ちる音がした。
「すみません、目眩がしました……」
ふと前を向くと、冷たい床に黒い塊が丸まっていた。
「……分ぐらい横になってもいいですか?」
具合が悪かったのか、と思い近付くと、ぶるぶると震えているのが見えた。熱が上がっている証拠だ。
「こんなところで……」
当然のことながら、アジト内は土足である。そして、場所はランスの執務室の真ん中。
「邪魔ですか?」
しかし、ランスが言い終えるよりも前に、力の抜けたような声と共に、アスアの瞼は閉じられた。