知っていて、それでも拒否をした


 卒業の日、名前の許婚は校門の横に凭れかかっていた。最後の時を明るく笑って過ごしていたひとを見送り、静かになった学園でその笑顔の余韻に浸っていて名前の前の一筋の現実だ。一足先に咲く山桜の香りを未だ肌寒さを感じさせる風が運ぶ。
「伝えられたか?」
 名前を見るなり、潮江文次郎はそう尋ねた。
「後輩に、ですか? ええ、私にできることはやりきったつもりですよ」
 大川学園は忍術と共に正心を学ぶ。この酷く滑稽な話を、滑稽であると思わぬようになるまでには多くの時と人間を要する。忍術は教師だけでも教えることはできる。ただ、正心は不可能だ。それは、教師や委員会の先輩、同輩たち、時には後輩と教え合い、学び合うべきものだ。これを伝えていかなくてはならない。そう感じるのは潮江文次郎も同じだろう、と名前は思っていた。むしろ、潮江ほど強く意識していた人間もなかなかいないだろう、と思う程度には。
 名前は六年間、良い教師、良い先輩、良い同輩、そして良い後輩に恵まれた。学園の一生徒として、この正心を伝えられた、と名前は思う。そして、この男が問うことはそのようなことだろう、と、何て彼らしいといなのだろうか、とそう思ったのだ。
「違う」
 潮江の口元が僅かに迷い、そして切り出しにくそうに歪んだ。その末に発せられた言葉は、名前の思いもよらぬ言葉だった。
「竹谷だ」
 風が止まった。ただ、学園の前を山桜の香りが吹き溜まり、濃く漂っていた。名前はおし黙り、そしてもう一度その名前を噛みしめるように唇を動かす。風が止んでいるはずなのに関わらず、舞い落ちてきた桜の花びらが頬につく。そのしんなりとした花びらが鬱陶しい、と名前は感じた。
 息をとめて強い香りを振り払い、名前は口元を僅かに歪める。
「潮江先輩が見た目の通りに鈍かったら良かったのに」
「見た目の通り鈍いとはなんだ、名前」
 早口で、低くそう尋ねる潮江だが、全く怒りがないことを名前は理解できた。ただ、理解しなかった。
 名前はただその花につく強い香りから逃れようと、息をほとんどしていなかった。
「竹谷が好きだったんです」
「あいつは良い奴だ」
 潮江は静かな声でそう返す。潮江は嘘をつかないのだ。全てが全て、名前を焦らせる。
「竹谷が一番好きです。一番愛して……」
 名前が最後まで言い切ることはできなかった。
「愛に一番も二番あるか、バカタレ」
 名前にとっては久しぶりに聞いた声であり、かつてはよく会計室から流れてきていた声だった。得意の火器で物品を壊した田村を、居眠りをする神崎を、字が汚い団蔵を、調子に乗った佐吉を、叱っていたあの声と全く同じものだ。
 その迫力ある声で桜の花も震えたのか、花びらが一枚二枚、そして幾枚と潮江の体にふり積もった。潮江は気にも留める様子はなく、ただ、分かったか、と名前にただそう問うた。溜まっていた山桜の香りは、その声に怯えたのか、吹き飛んでしまっていた。
「帰るぞ、名前」
 結局答えは求めずに、ただ背を向け、そして踵を返す。名前は校門の前に立ちすくんでいた。名前がついてきていないことに気付いたのか、僅かに歩幅が狭まり足の運びがゆっくりになる。それを見て、名前は走った。
 すると、潮江は振り返り、下級生に怖い怖いと評されていたその顔にくしゃりと笑顔を浮かべた。綺麗ではなくて、むしろ下級生を怖がらせることもある笑顔は、名前を不安にさせるものなど欠片もなかった。
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