決心


 七松小平太の家は、大きな公園のすぐ横にあった。彼の活発さは前世だけが理由ではないのだろう、と五人が思わざるをえないような環境だった。七松、と書いた表札の前で鉢屋三郎がベルを鳴らす。すると、がたがたと大きな物音が家の中で響いた。
 そして、扉が勢いよく開いた。出てきたのは、七松小平太だった。
「名字がここにいると思ったらしいな。残念だな、ハズレだ」
 にかっと彼らしい屈託のない笑顔を浮かべる。嘘をついているはずがない。それでは、ち竹谷八左ヱ門が真っ先に踵を返そうとした。
「そんなことよりバレ―しようぜ」
 しかし、七松小平太は素早く竹谷の肩を掴み、そして同じく逃げようとしていた四人を見渡した。すぐ隣には公園、場所には困らない。
 言い訳など通用しないのは今までの経験上、五人は嫌というほど知っていた。空は憎たらしいほどに青かった。


 濁った鴉の声が薄暗い空に響いた。
「見つからなかったな……」
 ベンチに座る気力もないからか、制服であることも気にせず地面に座り込んだ。そもそも、先程のバレーで汚れるだけ汚れているので、今さらのことではある。
「一日くらい生き延びられるよな」
 ツナ缶は油切らなくても食べられるから、と鉢屋三郎は疲れ果てた顔で空を仰いだ。
「明日、他の先輩の家を探しに行こう」
 尾浜勘右衛門が無理矢理作ったような笑顔を浮かべた。丁度その時だった。五人の中では一番体力がないせいか、顔色悪く大きな木にもたれかかっていた久々知兵助の携帯が鳴り始めた。久々知兵助は顔色を変えて電話をとった。
「おい、名字、大丈夫なのか?」
 公園の街灯がつき、灯りが差し込んだ。


 気がつくと誰もいない部屋に閉じ込められていた、などというまるで小説のような状況に名字名前は直面していた。部屋の中にあるのは、家電製品とパソコン、持ってきた勉強道具と棚の中に入っていた米とツナ缶と野菜ジュースだけだ。勉強道具を持って来い、と言われたのは彼らなりの優しさだったのかもしれない、と名字名前は思ったが、本当に優しかったらこんなことはしない。
 手は、朝食べたツナ缶の臭いがした。ツナ缶を上手く開けられず、手がぐちぐちゃになってしまったのだ。その上、そのまま食べたらところ、とても油ぎっていて何か違うと思ったため、ざるに入れて手でもみ洗いをしたところ、さらにツナの臭いが手にこびりついてしまったのだ。
 さらには、味のあまりしないツナになってしまい、たまたま見つけたマヨネーズをかけて無理矢理食べたのである。また、昼ご飯に米を炊いたものの、お粥のようになってしまい、食べきれずに夜に回すことになった。
 お茶を沸かそうと思ったものの、麦と思われるものと水道水でどうやって沸かせば良いのか分からず、結局やかんにそのまま麦を入れて沸騰させ、ざるで麦を濾してお茶を淹れた。
 電子レンジの使い方が分からないせいで冷えたままの米の形のなくなったらどろどろのお粥、お昼の味の薄いツナマヨネーズの残りとキャベツ、そして見た目も味もその中では一番まともなお茶を前に、名字名前は溜息をついた。
 名字名前は授業で教えてくれないことや、教科書に載っていないことは苦手なのだ。名字名前は無理矢理食べ物を胃の中に押し込み、数学の問題集を開いた。昔から勉強は得意だった。それだけが取り柄だった。
 しかし、今は何の役にも立たない、と名字名前は思った。有名大学の入試問題を苦労して解いたぐちゃぐちゃのノート。学校の先生はこれは自身に繋がる、と言った。ただ、何の自信にもならない。
 勉強ができるということが名字名前の全てだったのだ。
 食器を持って、水道の前に行くと、水道はこぼした米とツナでぐちゃぐちゃになっているのが見えた。名字名前は手だけ洗って再び机に戻った。勉強する気は起きなかった。それは名字名前にとって初めてのことだった。
 他にすることもないのに関わらず、勉強する気が起きないのだ。名字名前は気紛れにパソコンを開いた。
 パソコンを開くと、スカイプが立ちあがった。そして、一件しか登録されていないアカウントから、ビデオ通話が要求された。名字名前は震える手でマウスを操作して、ビデオ通話のボタンを押した。
 スカイプを使うのは初めてだった。
「やぁ」
 画面に表れたのは、善法寺伊作だった。いつもの人の良さそうな笑顔を浮かべていた。
「君をちょっと閉じ込めさせて貰ったから。大丈夫、君たちの友達は一生懸命探しているようだよ。君はここで何もせずにいるつもりかい? 電話をしてやろうとかそういう気持ちは起きないのかな?」
 善法寺伊作はちらちらと下を見ながら喋っていた。そして、言い終わったと同時に、がったんという音と共に画面が切りかわり、先程の台詞の書いたワープロ打ちの紙が映し出された。
 不運だなぁ、と名字名前は思いながらも、何も見なかったことにして返した。一つ上の学年とは違って、気遣いはできるのだ、と思いながら。
「携帯電話使っているんですから、電話番号なんて知りませんよ」
「保身に走るなよ、優等生」
 善法寺伊作先輩が、肘をつき朗らかに笑った。真っ直ぐに、名字名前だけを見ていた。大きな猫のような黒い瞳が、液晶のせいなのか、名字名前には薄らと靄がかかって見えた。ツナの強いにおいが目をつき刺したかのようだった。名字名前は何も言わず、勢いよくノートパソコンを閉じた。パタン、という音がすると、部屋の中は無音になった。
 名字名前は電話機まで歩いていった。途中で乱暴にけり上げたカーペットに滑りそうになったが、ずれたカーペットを蹴るようにして歩いた。
 携帯電話を持ち歩く時代、電話番号など覚えているはずがない。携帯電話のない時代、昔から仲が良かったような人間を除けば。ただ、受話器を手にとり、市外局番を押そうとゼロのボタンに指にのせた。しかし、その手をすぐに引っ込めて、名字名前は腕を乱暴にかきむしった。
 名字名前が思いだしたのは、昨日の出来事だった。校内模試の結果が返却されたのだ。その模試の結果が名字名前にとって信じがたいものだったのだ。
 得意だった国語が、国語が苦手な久々知兵助に負けて二位だったのである。
「今回問題が悪かったし、全然勉強していなかった」
 何も考えずに負け惜しみをしてしまうぐらいには辛かった。その負け惜しみが原因で、幼なじみの久々知兵助と口をきかないまま、お互い不機嫌な状態で終業式を迎えてしまったのだ。
 気の重い夏休みが始まることに、久々知兵助との関係が悪くなったことに、名字名前は後悔していた。
 しかし、今は違う、と名字名前は自分に言い聞かせた。自分が一番可愛い人間だということは自覚していた。だからこそ腹が立ったのだ。だからこそ見返してやろうと思ったのだ。
 懐かしい電話番号を押した。小刻みな電子音の後に、聞き慣れた電話音が響く。
「名字か? 名字なのか?」
 焦ったような久々知兵助の声は掠れていた。
「おい、名字、心配していたんだ!」
 彼には珍しい怒鳴り声だった。安心して力が抜けていく。
「久々知、ごめん。本当に色々ごめん」
「どうでも良い。そんなことよりも、早く場所を」
 大丈夫か、という言葉が出てこないのが彼らしい、と名字名前は思った。とりあえず、声を聞けただけで安心しているのだというのが名字名前にはすぐに分かった。
 久々知兵助は昔から分かりやすい人間だった。焦っている時は冷静さや常識を失うぐらいに焦る。
「場所は分からない。だけど、タワーが見える」
 ベランダの向こうには、この町一番のタワーが見えた。
「方角がわからない」
 方角がわかるかという問いにそう答えると、ちょっと待ってくれ、という声の直後に、電話の奥で鉢屋三郎を呼ぶ声が聞こえた。
「太陽の光は差しこんでいたか?」
 ガサガサという物音の後で、冷静そうに聞こえる鉢屋三郎の声がすぐに聞こえてきた。
「覚えていない、ごめん」
 見ておけばよかった、と名字名前は心底後悔した。そう、こういうことが苦手なのだ。初めての状況でとっさの判断が必要とされることが苦手なのだ。
 所詮自分はマニュアル通りの人間なのだ、と名字名前は思い、申し訳なくなった。
「大丈夫だ、こういう時の八左ヱ門だ」
 こういう時のためにあいつがいるんだ、と言わんばかりだった。その妙に明るくなった声に、自分の感情が見透かされている気がしたが、名字名前には何故だかそれが嬉しかった。
「たっく……おい、名前、大丈夫か?」
 うん、と答えると、そうか、と嬉しそうな声が返ってきた。
「星は見えるか? 何が見える?」
 カーテンを開けて夜空を見る。星が一つ、二つ、三つと見えるが、何の星なのかが分からない。視等級で最も明るいのがシリウスで、計算の基準はベガに置くということは知っているが、それらを見つけることはできないし、そこから方角を割り出すこともできない。
「星座は分からない」
 名字名前の声は自然と落ちた。
「お前なら分かる。今から教えてやるから」
 なっ、という人を安心させると言われる竹谷八左ヱ門の声を聞き、うん、と答える。すると、その代わりに勉強教えてくれよ、兵助はスパルタすぎる、と言われ、名字名前は思わず笑ってしまった。
 笑ったのは二日ぶりだった。昨日は校内模試の結果のせいで笑うことができなかったからだ。
「大きな星が見えるか?」
 そう尋ねられ、名字名前は大きな星を探した。
「タワーの方角に大きな星が見える。白いやつ」
「いくつあるか?」
「三つ。大きな三角形に見える。春じゃないね、今は夏だから夏の大三角形かな」
 名字名前は昔、プラネタリウムで説明してもらった名前を適当に挙げた。
「でかした。すぐそっちの方向に行く」
 竹谷八左ヱ門は明るくそう言った。

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