雲行きは怪しく

夏休みタソガレドキ潜入の段


 よくもこれほどまでに素直に感情を出すものだ、と感心したくなるほどに、彼女はものすごく嫌そうな顔をした。組頭がくノ一だったとしても大した実力は持っていないだろう、といった理由が良く分かる。
 たとえ町娘でも、これほど素直に嫌そうな顔をしないだろう、と思う。
 すぐにとり繕ったかのような笑顔を張り付けるが、甘いなどという問題ではない。
「あっ、高坂殿。私は五十嵐伊勢と申します。挨拶が遅れてしまい、申し訳ございません」
 では、報告も終わりましたので、と組頭に言うと、そそくさと陣から出て行った。
「陣左、何かやったの?」
 組頭に尋ねられる。
「いえ、全く」
 話しかけたこともないのだ。何か勘違いをされるか心配だったが、組頭は興味なさそうに、そう、とだけ答えた。


 夕食の後、陣から出ると本陣の近くに五十嵐さんがいるのが見えた。気付かないだろう、と思いながら水を汲みに行こうとしたのだが、五十嵐さんは私に気付いたらしい。五十嵐さんは顔をぱっと明るくしてかけてきた。
「元気そうでしたけど、怖い人ですね」
 お兄さん見ましたよ、と軽く息をきらせながら、嬉しそうに言ってくる。ああ、兄と会ったのか、と思うと、会ってもいない兄と繋がっているような気がした。
「少し目つきが悪いですからね」
 怖がらせてしまいましたね、というと、そんなことはないです、と首を横に振る。そして、ふと思い出しかのように尋ねてきた。
「ここから文を出すには誰にお願いすれば良いんですか?」
 昔は宿から文を出すことができたが、今は大名が各地に関所を作ったせいで、文を送るのには難儀する。しかし、全く送ることができないわけではない。
 組頭に言えば、山伏などを手配するはずである。
「おそらく、組頭にお願いすれば良いと思います。ところで、誰に送るんですか」
「兄です。家に置いてきたので」
 私は驚いた。彼女の兄はタソガレドキにいると思っていた。
「お兄さんは止めなかったんですか」
「最近、兄はあまり私の行動を制限しないので」
 五十嵐さんは能天気に笑っていた。
 五十嵐さんのお兄さん、ずっと我慢しているんじゃないですか、という喉まで出かかった言葉を抑え込む。見たこともない彼女の兄の気持ちを想像して、自らと重ねた。
 タソガレドキ忍者隊なんていう閉鎖的で物騒な場所にたった一人で向かわせる。それを止めようとしないからといって、心配していないとは限らない。心配していないはずがない。
 私の安心が兄の幸せではないように、彼女の兄の安心が五十嵐さんの幸せではないのだろう。それが分かっているから本当の気持ちを言えない。
 前へ前へ歩いていくその手を掴んで止めることがその人のためではないから、すぐ近くにいるはずなのに、その手を掴むことはできない。
「五十嵐さん、何か困ったことがあれば何でも言ってくださいね」
 せめて、彼女がここで安全に過ごせるようにしたい、と私は思った。
 彼女はありがとうございます、と笑った。私がそう申し出た理由は分かっていないだろう。ただ、私はそれ以上は何も言わなかった。私が言っても、彼女には分からないだろうし、私が言っていいことではない。
 彼女の兄がずっと我慢しているのだろうから。


 兄に文を出したい、と言うと雑渡さんはすぐに山伏を手配してくれた。どうやら、私の実家のある方向に山伏を派遣する用があったらしい。私の手紙を点検すると、ちょっと一言加えて良いかと尋ねられた。
「構いませんけど」
 一体何を書いたんだ、と思ったが、別に書かれて困るようなことはしていないはずなので書いたものを確認することはなかった。
「そういえば、陣左……高坂とは何かあったの」
 文を山伏に手渡した雑渡さんはそう尋ねてきた。
「特に何も。ただ、お噂を聞いたのでどなたかなぁ、と」
「物凄く嫌そうな顔していたよね」
 そんなに嫌な顔をしていたのだろうか。
「君さ、くノ一にならなくて良かったね」
 首を傾げると少しだけ呆れたように言われた。意味が分からない。
「お兄さんは家にいるの? 忍者?」
「いえ、一緒に修行していたんですけど、本当に忍者に向いていないんで、私と一緒にやめちゃいました。もう、本当にどうしようもないくらい。そもそも戦場の仕事に向いていないので、仕入れの仕事だけしてもらっています」
 嘘はするすると出てくる。潜入前に確りと偽りの設定を決めておくことは重要だ。
「お兄さんも、君に言われたくないだろうけどね」
「多分、雑渡殿も兄に会ったらそう思いますよ」
 もう包帯のとれた腕を見ながらそう言って、その場を去ろうとした。ちょうどその時、矢羽音が聞こえた。
 もうほとんど聞き取れる矢羽音。
「せいさ…をもらいにきたオーマガトキ…ょうのそのだ……のおとながかとう……に…かっています。いきさきは、にん……つがくえん…」
 制札を貰いに来たオーマガトキ領の、おそらく続くのは園田村。その園田村の乙名が加藤村に向かっている。加藤村には馬借がいるはずだ。園田村の乙名が加藤村の馬借を頼るのは地理的に不自然ではない。
「行き先は忍術学園」
 陣から出た後、唇だけでそう呟く。
 まだ、読み解けていない矢羽音はあるが、夏休みは終わりかけている。厄介事が忍術学園に持ち込まれるとみて間違いはない。
 あともう少し、と書いたが、しばらくはここに留まるべきだろう、と私は思った。
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