猪々子と卯子

女装少年とくのたまの段


 それぞれ辿ろうとしている道だけではなく、家の事情も全く違う。私たちの違いは、きっと忍たまよりも遥かに顕著であると思う。ただ、私たちは同じくのたまなのだ。一年生の頃は何も感じていなかった隔たりが、徐々に大きくなっていった。
 多くの仲間たちは、自由に恋愛ができない。ただ、それが問題ではなかった。
「猪々子ちゃん、まだここにいたんだ」
 後ろから話しかけられた。高くも低くもない声、誰の声なのかはすぐに分かった。
「五十嵐先輩」
 あやかの姿は見えない。私はくのたまでは背の高い方だけど、私よりも先輩はずっと背が高い。普段忍たまの中にいるせいか、背が高いとはあまり感じないが、やっぱり先輩は背が高い。先輩は私を見下ろしていた。
 決して細くはないが、太くはないしなやかな腕には、くのたまの友が抱えられていた。
「五十嵐先輩には、秘密がありますか?」
 目の前の無駄のない体。初めて「よく見た」時もそう思った。だから、最初から私は気付いていた。五十嵐先輩は少しだけ目を丸くしたが、すぐにすっと目を細めた。まるで、私の質問を予想していたかのように、緩やかに口元を動かした。薄い唇が弧を描く。
「秘密」
 五十嵐先輩は、口元を人差し指で隠して、薄らと笑んだ。青紫色の簪が揺れていた。


 授業はいつも通りだった。五十嵐先輩と教室に向かい、ぼんやりと山本先生の話を聞く。私は五十嵐先輩の背を見ながら、頭の中を整理していた。
 頭の中は私の気分のようにぼんやりとした世界だ。いつも私はそうだが、卯子は違うらしい。どちらが普通なのかはわからない。
 授業が終わったあとも、私はすぐには席を立たずに、同じく座ったままの五十嵐先輩を眺めていた。五十嵐先輩はくのたまの友をめくっていた。その間に、ほとんどのくのたまたちが出ていった。
 入れ替わるようにして入ってきたのは、遠子先輩だった。
「遠子さん」
 五十嵐先輩が慌てて顔を上げ、立ち上がった。そして、持ちましょうか、とそう言いながら遠子先輩の持っていた火薬の山を抱えた。
「あら、ありがとう、五十嵐君」
 遠子先輩は五十嵐先輩に微笑みかけたが、五十嵐先輩の表情は硬いままだ。遠子先輩は上機嫌そうに笑っていた。
「猪々子、一緒に来る?」
 遠子先輩は私に笑いかけた。いつもよりも自然で、何故かついて行きたいと思った。ただ、同時についていってはいけない気がした。
「ちょっと、ぼーっとしてから行きます」
 そう、とだけ言って、遠子先輩はあっさりと教室をあとにした。五十嵐先輩は、遠子さんを追うように慌てて教室から出たが、教室から出る直前に振り返って小さく手を振ってくれた。
 青紫色の髪飾りがゆらゆら揺れていた。
 教室には、座学の授業特有のけだるい空気が残っていた。お腹は空いていた。ただ、頭の中だけがくるくると回っていく。
 紫色の簪がよく似合っていた。手は滑らかだった。まだ声変わりをしていなかった。化粧が上手かった。くのたまを純粋に怖がっていた。次々と些細な感想が脳裏を通り過ぎていく。
 遠子さんに対して従順だったことと善法寺伊作先輩によく似ていることが、思い浮かんだのが何故なのかはわからなかったが。
「気付かなかったんじゃないんだ。あの人が気付かれたくなかったから、気付いていない振りをしていたんだ」
 呪文のように呟く。会ったときから分かっていた。知っていた。あの人が、男であるはずがないことに。私は教科書を手に取り、廊下に出た。太陽を見る。そして、私は長屋に向かって走った。
 卯子はまだ長屋にいる。
「卯子」
 卯子が優しいからじゃない。
「猪々子、あんた、どうしたの」
 私は、卯子が優しいことを知っている。私が頼ったら、どんな時でも助けてくれることを知っている。だから、卯子に私は助けを請う。何も考えていないなんてことはなかった。私はいつも考えていた。意識の下で。なんて打算的なんだろう、と自嘲する。
 卯子は部屋にいた。目を丸くして私を見上げている。卯子はもう怒っていない。ただ、卯子は不器用で、自分から声をかけることはできない。
「ねえ、卯子」
 釣り目が開かれる。目頭が熱くなった。視界がぼやけていく。
「助けて」
 頬を涙が辿った。卯子はまだ何も言っていないのに、手足の力が抜けていく。
 私だけでは何もできない。誰も救えない。知られてはいけないんだ。あの人が女であるということを。ただ、わからない。何故、そう思いいたったのか。そして、何をするべきなのかは分かる。ただ、何が起こるのかが分からない。
「猪々子、わかったから。何? あんた大丈夫なの? 私は何をすれば良いの?」
「何をするべきなのかは分かるのに、何が起こるのかが分からない。どうしよう。怖い」
 自分で何を言っているのかよく分からなかった。ただ、それでもそうならざるを得なかった。
「一緒に考えてあげるから。ほら、こっちにおいで」
 卯子は立ち上がり、私に手を差し伸べる。夕日に照らされた卯子の顔は明るくて、私は思わずへらっと笑ってしまった。卯子がいれば、どんなことでも答えに辿りつける気がした。
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