恋と罰
女装少年とくのたまの段
授業が終わった後、私は部屋に戻った。直接食堂に行っても良かったのだが、トモミが心配だったのだ。廊下からは夕焼けが見えた。私は速足で廊下を歩いた。
「トモミ、大丈夫」
トモミはくのたまの友を開いていたが、私に気づいて顔を上げた。
「ねえ、ユキ。どうしよう」
トモミは泣いているように見えた。私はトモミに駆け寄ろうとしたが、なぜか足が動かなかった。
視界が震えた。
「私、あの人のことが……五十嵐先輩のことが……」
私は、どうしてよいのかどころか、何を言って良いのかわからなかった。
肢体を拘束されて、監禁されるというのはひどく不快なものだ。何よりも不安なのだ。ここ数年で何回かあったのだが、どうしても慣れない。このように肢体の自由を奪われた時は、大抵酷い目に遭っているから仕方がないだろうが。
「遠子さん」
くのたま長屋の廊下で罠にかかった私を、嬉野遠子が見下ろしていた。一点の妥協もない、完璧な罠。天才トラパーと呼ばれる綾部も閉口するような罠を仕掛けているのは、この嬉野遠子が努力を惜しまない人間だからだ。
私は、彼女が努力家なのを知っている。才能に恵まれないことに悲観する時間を、目的のために費やすことを知っている。だから、私は彼女が苦手なのだ。嬉野遠子は、非の打ちどころのない完璧なくのたまだった。
「お願いします、やめてください。やめてください、遠子さん」
嬉野遠子は苦無を握っていた。今までに肢体を拘束された際におこなわれてきた、拷問まがいの行いの数々を思い出し、私は体が震えた。
「何もしないよ」
嬉野遠子はいつもと少しも変わらない口調で言った。
「ただ、あることをやってほしいんだ」
嬉野遠子は私に近づき、そして頬に手をやった。手入れの行き届いた指先が、頬に触れる。私は柱に体を強く押し付け、その指先から離れようとした。勿論、その行動には何の意味もない。
「勿論、やってくれるよね」
夕焼けの逆光で、嬉野遠子の微笑には暗い影が入っていた。
食堂を出たところで五十嵐先輩を見た。食堂にも入らず、ただぼんやりと天井を見やっている。
「五十嵐先輩、如何なさいましたか?」
「なんでもないよ」
少しだけ弱々しいようなそんな笑顔を浮かべて、繰り返した。
「なんでもない」
五十嵐先輩がこのような表情をしているところなど見たことがなかったはずなのに、私は妙な既視感を抱いた。
「猪々子はどうしたの」
先輩は優しく尋ねてきた。五十嵐先輩が私たちに優しいことはわかっていたが、私は違和感があった。
「伊作先輩に似ていますね」
いつも一緒にいる善法寺伊作先輩。五十嵐先輩はもう一人の食満留三郎先輩に似ているわけではないが、善法寺伊作先輩に似ているわけでもない。二人と彼女は全く違う人間で、私はあまり似ているとは思わなかった。三人とも忍たまで、ほとんど関わりがないため、実際に似ているかどうかはわからない。
しかし、それでもその表情は五十嵐先輩らしくなく、どちらかというと、善法寺伊作に近かった。戦場で敵を治療するなど、頑固ではないはずがないのに、その頑固さが人に見えないように振る舞うあの先輩と、酷く似ているように思えた。最初から、誰の理解も求めないような、その表情が。
「五十嵐先輩らしくなかった」
ゆっくりと吐き出すように言った。すると、五十嵐先輩は一瞬目を丸くした後、ふわりと微笑んだ。
「猪々子は本当に賢いね」
「私、賢くないです。卯子は賢い」
「卯子とはあまり喋ったことがないから分からないなぁ」
五十嵐先輩がお茶を濁したような気がした。
「卯子は言える、五十嵐先輩は言う、私は言えない、善法寺伊作先輩は言わない。そして、今の五十嵐先輩は言わない」
「私は言いたいことを言っているよ」
「それならば、教えてください。何故、五十嵐先輩はトモミに手加減をした上で勝ったのですか?」
おかしいのだ。何故なのかはわからなかったが、私はおかしいと思った。絶対に理由があるだろう、と思った。何故なのかはわからない。ただ、この質問に対する答えもわかっていた。やはり、何故なのかはわからない。
「やだ」
五十嵐先輩はにっこりと笑った。その後ろを、トモミとユキが通り過ぎて行った。二人と目が合った時、私は嫌な予感がした。