警報少女

女装少年とくのたまの段


 ふわふわとした黒い髪は、青紫の髪飾りで留められていた。私たちよりも頭一つ大きな五十嵐先輩はそれはとても目立っていた。私たちよりも早くに来ていて、教室の一番後ろでくのたまの友を読んでいた。くのたまの友は綺麗なものではなく、使い古された印象があった。
 私たちが入ってきた時に、少しだけ微笑んでくれた。
 私たちよりも、三つも年上というだけあって、くのたまの友を流れるように読んでいた。午後からの実技はお稽古ではなかったので、五十嵐先輩は忍たまの授業を受けるようだった。授業が終わり、昼休みに差しかかろうとした時だった。席を立とうとした五十嵐先輩の前に、トモミが立った。
「五十嵐先輩、お手合わせ願います」
 卯子が言ったのだろう、と私は思った。私は何も言っていない。何故かと問われても困る。忘れていたわけではないのだ。ただ、言わなかった。それだけのことだ。
 そして、私は卯子と一緒にこの場から離れようと思った。理由はやはり分からない。
「卯子、食堂に行こう」
「何なの、猪々子。いつもゆっくりしているのに。見たくないの?」
 くるりとしたつり目を丸くして、卯子はそう尋ねてきた。卯子は頭が良いと私は思う。みんな私の方が頭が良いと言うが、私は違うと思う。理屈で考えることのできる卯子は賢い。
「私はどちらでも良いから」
 私は少しだけ考えたあとに、そう答えた。私は卯子と違って、何故なのかという理由をすぐには言えない。理由が分からないのだ。ただ、卯子はそのことをよく分かってくれている。卯子は怪訝そうに眉をひそめた。しかし、すぐにその表情を変え、呆れたように溜め息を吐いた。
「食堂に行こう」
 行きたいんでしょ、と卯子は呆れ顔のまま笑って、私の手を引いた。優しい卯子が好きだった。全然違う私を受け入れてくれる卯子が私は好きだった。



 入ったときに言い様のない気持ち悪さに襲われた。埃っぽい教室独特の香りも、窓の外の明るさも、いつもと違うことは何一つないのに関わらず、私は気持ちが悪かった。午前中のかったるい特有の匂いはいつもは心地よいのに、不快だと思った。
 トモミがいない。
 私は真っ先にそのことに気づいた。そして、それに五十嵐先輩が関係していることもすぐに悟った。しかし、それがどうしてこの嫌な感覚のする空気を生み出しているのかということはわからなかった。
 卯子は私の前に出て、真っ直ぐにユキの方に大股で歩いていった。ユキはつり目を不快そうに細めて卯子を見た。
「五十嵐先輩が途中で手を抜いたのよ」
 ユキの言葉は意外なものだったはずなのに関わらず、私の中で何かがすとんと落ちる感覚がした。
「勝敗は?」
「五十嵐先輩の勝ち」
 ユキの声は荒らいでいた。私は少しだけぼうっとした。
「卯子が見ていなくて良かったわ」
 そして、何の理由もなく、ただふと感じたことを呟いた。卯子が目を見開いたのか見えた。ただでさえつり目の強い双眸がさらに鋭くなった。
 よくあることのはずだった。ただ、背中がぞくぞくした。
 その日、卯子は一日中機嫌が悪かった。言葉遣いが乱暴なことはあるが、卯子はものを丁寧に扱う。商家の娘らしい素敵なことだと思っていた。
「ほどほどにしなよ、卯子」
 卯子が食事を載せた盆を乱暴に置いたとき、ついに私はそう言った。
「悔しくないの?」
「ムキになることもないわ」
「なってない」
 卯子は机を叩いた。隣に座っていた一年生の忍たまたちが、お喋りをやめた。
「ねぇ、卯子」
 親友の名を呼ぶ。今、猪々子の話を聞いているのは、卯子だけだが、それでもその名を呼ぶ。
「嫌」
 みかとなおみがひそひそと話している。あやかが笑顔を張りつけて聞いている。ユキが三人を睨んだ。しおりとそうこはいない。亜子と恵々子は何事もなかったかのように微笑み合っている。普段と大差ないはずの教室に対する素直な感想だった。
「猪々子、何言っているか分からない」
 猪々子、と苛ついた声で私の名前を呼んだ。私はひやりとした。



 実技が終わるや否や、卯子は一人で食堂に行ってしまった。追いかければ追い付いたかもしれないが、私は追いかける気にはなれなかった。
 食堂に行く気もしなかった。だから、一人でくノ一教室の庭の大きな石に腰かけて足をぶらぶらさせながら薄暗い夕焼けを眺めていた。
 背後から気配がした。私は振りかえる。
「猪々子、卯子はどうしたの?」
 高くも低くもない声だった。人目を引く容姿ではないけれど、声は綺麗だ。
 だから人は簡単にこの人に騙される。
「卯子を怒らせてしまいました」
 他人事のように淡々と私は口から事実を出した。
「そう。珍しいね、君たちが喧嘩なんて」
 先輩は柔和な笑みを浮かべた。
 少しだけ悲しそうだった。そんな気がした。
「遠子先輩、それは何ですか」
 つん、と鼻をつく嫌なにおいがした。草を擂り潰したような薬の臭いだ。嫌な予感のする臭い。
「毒矢だよ」
 先輩は形こそ平凡なものの、意識の行き届いた美しい指先で矢をなぞった。そして、ひょうと射る。特有の音と共に矢はいくらか離れた木のうろの中へ消えていった。
 嬉野遠子先輩は毒の扱いに長けた弓の名手だ。
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