深海に沈む

六夜の戦の段


 五十嵐の実習の話を聞く、少し前だった。その日は委員会が長引き、不破以下の後輩たちを早々に帰らせ、一人で作業をしていた。そして、夜遅くに、図書室から部屋に戻ろうとした。その時だった。廊下の向こうから、山本先生の話し声が聞こえてきた。くのたまも忍たまも利用可能な場所であるため、山本先生がいるのは全く不自然ではないのだが、時間帯が時間帯だった。私は盗み聞きは悪いと思いながらも、息をひそめた。
 私と小平太は気配を殺すのが得意だ。最近では先生にさえも気付かれることが少なくなっていた。
 山本先生の声はよく響いていたが、山本先生が話をしている相手の声は聞こえない。ただ、山本先生の話振りから、五十嵐の実習について話をしていることが分かった。その時は、くノ一教室の山本先生が、女であるとはいえ忍たまの五十嵐の実習について何のために話しているのか全く分からなかった。
 結局、その時、それについては最後まで分からなかったのだが、話をしている相手だけは分かった。
「あなたが我儘を言うなんて珍しいわね」
 真っ暗な廊下に場違いな山本先生の笑い混じりの言葉が響いた。そして、そのまましばらく山本先生の笑い声が続いた。相手が喋っているのだろうか、とそう思っていると、笑い声が止まった。
「遠子ちゃん、何があったの」
 山本先生は、まるで姉が妹に優しく何かを尋ねるかのように、嬉野遠子にそう問うた。
 そして、その数日後、五十嵐の実習の依頼を受けた。
「伊勢のことをよろしくね」
 伊作は私と小平太の部屋までやってきて、頭を下げた。それ以外は何も言わず、そのまま背を向けた。
 伊作は五十嵐敬助のことを心配している。しかし信頼している。それは留三郎も同じだった。特に留三郎は心配すらしていない。留三郎が気にしているのは、昔から変わっていなかった。い組の二人と伊作の関係であり、その全ての根源は善法寺伊作だ。
 五十嵐が伊勢であるということが分かった時、態度を変えても良いものの、誰ひとりとして態度を変えない。特に、本来動揺するであろう五十嵐に近い者ほどそれが顕著だ。五十嵐の最も仲の良い友人である鉢屋や、五十嵐の面倒をよく見ていた留三郎は欠片も態度を変えなかった。
 私は指示を受けていた。ただ、それは全ての六年生が同じ指示を受けていると思い込んでいた。細い灯に照らされて見えたのは、縄の痕だった。その痕は決して乱雑な物ではなく、捕縄術を嗜んでいることがすぐに分かるものだった。
 私は、これは己が考えていたよりも、遥かに過酷な実習であることを悟った。しかし、五十嵐は全くそのような気を見せず、ただふわふわとしていた。最初もへにゃりと笑顔を浮かべ、そして全てが終われば何も言わずに寝巻を着る。
 間違いなく女である。それは己が良く知っているはずだった。しかし、淡々と寝巻を着て、絡まった帯を強引に解こうとしている姿を見ても、あまり庇護欲を感じない。だから、鉢屋や留三郎は変わらぬ態度で接するのか、などとそう思っていると、私を見上げ、お先にお帰りください、と襖を開けた。
 開いた襖から差し込んだ月の光で、その笑顔が白くなった。そのせいなのか、女子どもの持つ特有の淡い微笑に見えた。そして、その光は腕のいくつもの傷跡をも照らしていた。
 組別対抗戦の時に、ボロボロになっては組を勝利に導いていた時、五十嵐敬助はボロボロだった。伊作がひどく怒っていた。やり過ぎなんだよ、とそう言って。
 性格が悪いと言われる五十嵐だが、決して性格は悪くない。六年生の中にある歪の中心にいながら、本人に性格に問題があるかと言ったらそうでもない。
「助けてやれなくて悪かった」
 漏れた言葉は本音だった。淀み切った空気のたち込める部屋に夜風が入ってくる。
「良いんです。私はこのくらい全然大丈夫なんで」
 にやりと口元を歪めて笑うその笑い方はいつもと同じものだ。しかし、淀んだ空気はかきまわされるだけだった。



 私はあまり中在家先輩とは親交がない。勿論、仲が悪いわけではない。むしろ、仲が悪くないために親交がないと言った方が正しい。時間よりやや早めにやってきた先輩は私を見るなり無表情のまま溜息をついた。別に不機嫌なわけではないらしい。首を傾げてみると、私の目の前に座った。
 忍たまの中で最も身長が高い。身長は四年生と同程度である私とは結構大きな差だ。中在家先輩は私の膝にそっと手をやった。膝を覆うような大きな手を私は握った。
「よろしくお願いします、中在家先輩」
 怖い怖いとそう言われるその顔を見上げ、私はへにゃりと口元を緩めた。
 中在家先輩はただ何もなく進んだ。本当に何もなかった。ただ、途中意識が沈んでしまいそうになった。大きく硬い体に触れたまま、立花先輩とは別の意味で疲れるなぁ、と思った。
 天井が酷く遠く見えた。
 中在家先輩は、私が寝巻を着るまで待っていてくれた。ありがとうございます、とそう言って立ち上がると、中在家先輩は座ったまま私を見上げた。
「助けてやれなくて悪かった」
 小さい声だった。ただ、聞き取りやすいようなゆっくりとした声だった。中在家先輩は影の入った目を私に向けた。ゆらゆらと揺れるがその顔の側面だけを照らす。
「良いんです。私はこのくらい全然大丈夫なんで」
 私はにやりと口元を歪めて笑った。心配されるようなことなんて何一つない。
「先輩、伊作のことをよろしくお願いします」
 私は六年生ではない。だから、できることは限られる。いつも一緒にいられるわけではないし、悔しいが、六年生には敵わない。
 私の言葉で、中在家先輩の細い目が少しだけ見開かれたような気がした。
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