渦の如く

夏休みタソガレドキ潜入の段


「先輩は後ろ姿ばかり見ているから分からないでしょうが」
 そんなことはない。誰よりも分かっている。だから、心配なんだ。
 だから、止められないんだ。君も彼女の兄になれば分かるよ、鉢屋三郎。


 その日はさんざんだった。同じくらいの年ごろの子たちにからかわれ、森の中で遊んでいる最中に小さな崖の下に落ちた。そういう日に限って、両親も隣の村に用事があり、探しに来ない。
 崖は急で砂っぽくて、自力で登ることは不可能だった。桜は割いているのに、夜はまだ寒い。暗くなっていく山の中で僕は一人で寒さに耐えていた。
 そんな時、伊作、伊作、と僕の名前を呼ぶ声が聞こえた。その声はだんだん近づいてきた。
「伊勢っ」
 声を張り上げると、崖の上から明るい光が見えた。体の力がすっと抜けた。それと同時に、目頭が熱くなってきた。
「伊作、ちょっと待っててね」
 がさがさと木に登る音がしたかと思ったら、縄が崖の上から落ちてくる。ぼやけた縄はひやりと冷たかった。力を入れて登ろうとしたが、崖が崩れて登れない。ひっと小さな息が漏れた。
「伊作、ほら、一歩ずつ。諦めないで」
 掴んでいたロープが勢いよく引き上がる。見上げると、心配そうな伊勢の顔があった。一歩二歩、と崩れかけた崖を登る。出っ張った石に足を駆けると、傷だらけでボロボロの手が伸びてきた。
 僕が掴もうとするよりも前に、力強く掴まれる。僕よりも小さな手は力強く僕の体を引いた。
「ほら、あと少しだから」
 絞り出すような声に頷く。ボロボロと涙が落ちる。頑張って体を上げると強い力で引き上げられ、平らな地面に尻もちをついた。
「一緒に遊んでいた奴の名前は?」
 言わなきゃ泣かせるぐらいのきつい言い方だった。
「小次郎君と良太郎君」
「明日同じ目に遭わせてやる」
 小さく名前を答えると、伊勢は低くそう呟いた。
 妹に助けられているから、僕はからかわれて馬鹿にされていた。ただ、それを伊勢に言う気はなかった。
「伊作は優しいから、しょうがないもん」
 がらがらなのに疲れを感じさせない声は明るい声も、泥だらけの顔いっぱいに広がるこの笑顔も大好きだった。だから、構わない。



 伊作は宿題がこなせなかったためか呼び出しをくらっていた。伊作が部屋から出た後、昼食を食べに行こうと部屋から出ると、奥の部屋の戸が開く音がした。また文次郎の野郎と顔を合わせないといけないのか、と思ったが、奴ではなかった。
「五十嵐は私の宿題をやっているのか」
 部屋から出てきたのは立花仙蔵。
「ああ、上手くタソガレドキに潜入しているらしい」
 そう答えると目を細めた。
「気にくわんのだ」
 理由はよく分かっている。
「善法寺伊作の行動が分からん」
 誰もが認める成績優秀の六年生は、情に厚かった。そして、彼には妹がいる。体は弱く、もう長くはない妹だ。元々、仙蔵は伊作に対して嫌悪感を抱いてはいなかった。ただ、仙蔵は認めていなかっただけだ。しかし、最近は嫌悪感を顕わにする。文次郎とは反対なのだ。
「あいつはお前らの前では違う」
「それは何度も聞いた」
 何度目になるのかわかないやり取りの後、仙蔵は早足で食堂の方へ消えた。俺は土を掘る音に足を止めた。
 委員会の都合で、この手の音には嫌でも敏感になる。
「おい、綾部。いい加減にしろ。伊作が……」
「善法寺先輩は落ちます。でも、僕は落とします」
 相変わらずわけのわからない奴だと思っていると、俯き加減に言った。
「立花先輩はとても優しい先輩です」
「だろうな」
 その言葉には同意した。綾部喜八郎という独特の価値観を持った後輩を仙蔵は受け入れている。彼を理解しようと努めた。三年前、秀才で悩みなどないと思われていた仙蔵が、この風変わりな一年生のことで頭を悩ませていたのは印象的だった。
 綾部も仙蔵を慕っていた。たとえ、どれだけ独特な感性を持っていても、伝わるものは伝わるらしい。
「だから、善法寺先輩を落とします」
 綾部は伊作を嫌ってはいなかった。仙蔵の後輩は俺たちが思っている以上に人の感情の機微に聡いらしい。仙蔵の感情の変化を読み取り、仙蔵に従った。俺が何かを言って変わることではない。
 とりあえず、それ以上掘るな、とだけ綾部に釘を刺してその場を去る。
「八方塞がりなんだよな」
 伊作の行動が間違っているとは思わない。伊作の性格を考えると当然のことしかしていない。伊作は伊作の最善の行動をとっている。無理をしてまでも。五十嵐も同じだ。五十嵐は伊作のことしか考えていないわけじゃない。五十嵐の描く理想は、俺が考えるあるべき六年生の姿と同じだ。仙蔵も決して間違ったことは言っていない。仙蔵の性格を考えれば、当然の感情を抱いている。誰も悪くない。
 切欠が誰かは分からないが、悪い方向へ悪い方向へと流れていることは分かる。この五年間の間に、まるで渦の如く。
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