雨音とボッサ。
確かその日はさめざめと雨が降っていた日。
ハリスが村に来てまだ日は浅く、村にいる同族の住民はその村の村長と彼だけであった。
「おう、ハリス!そうか、今日は雨か。よく来たな、まぁ上がれよ。」
「……うん。」
雨の日は村長のデイジーの家に訪ねにくる。それがハリスの習慣である。
普段これと言って用がない限り外にでない彼ではあるが、たくさんの雫と雨音だけが支配する雨の日に独りでいるのは彼には怖かった。
「……何かしてたの?」
「ああ、ちょいと村の事業についての書類整理をな。」
そう言って彼女は机の上の書類に目を落とした。
雨の日は大体彼女はその位置でいつも何かを睨みつけている。
蓄音機から流れるボッサの音楽に耳を傾けながら、ハリスはいつも自分が座るライムの椅子に腰掛けた。
そういえば、初めて村長の家に訪れた時も彼女はそうして仕事をしていたように思う。
『雨の日に独りでいるが怖い?』
『それなら、雨の日はうちに来ればいいさ。』
『軽くなら、もてなしてやるよ。アタシは仕事してるから好きに過ごせ。』
いつだったか、彼女に雨の日が怖いという事をぽろりと漏らしてしまった時、彼女が言った言葉だ。
いつもならハリスをからかう彼女であるのに、何故か彼女はハリスを迎え入れてくれた。
思えば初めて会った時と同じだ。
彼女はいつも無償でハリスの居場所を提供してくれる。
「ああ、そうだ、ハリス。果物の調子はどうだ?」
ぼーっと考え込んでいた所、思い出したかのようにデイジーが口を開いた。
果物を育てて収穫するのがハリスの仕事である。
もちろん、それだけでは生活が賄えないため釣りなどもするが、純粋に花や木を育てるのが好きだった。
「あと少しで実がなるんだ。俺の初めて育てたモモの木。」
「ったく、お前モモ好きだよなぁ。育てんのは良いけど、オレンジの木切り倒したらシバくぞ?」
彼女の好きなオレンジの木は、この村の特産らしく、村で一番多い木だ。
一本や二本切り倒した所で彼女にバレないだろうと思いながら、ハリスは自分のカバンをまさぐってモモを取り出した。
「ん?それ、どうした?」
「さっき、そこで貰ったんだ。誰だか名前忘れたけど。村長にはあげないよ。」
「別にモモは要らねぇよ。それより、名前くらい覚えてやれよ。そいつは、お前の好物覚えてくれてたんだからよ。」
「……今度会ったら、名前聞いてみる。」
基本的にハリスは人を含めて名前を覚えるのが苦手だ。
デイジーの名前もなかなか覚えられず、結局、村長と呼ぶ事で乗り過ごしている。
何せ少し前まで名前を必要としない生活をしていた為、ここに来てからいろいろと覚える事が多くて驚いたぐらいだ。
「食べ物ならすぐに覚えてるくせによ。」
「………うるさい。」
ふと、手元の桃から目線を上げるといろいろな家具が目にはいる。
「……そういえば、村長の家は物がたくさんあるよね。」
ぐるっと部屋一体全てを見回すと、彼女の家は普通より物が多いと改めて思う。
ゴミや小物が散乱しているというわけではないが、家具や置物等がお世辞にも統一性のあるようには言えない。
見た事もない、形が変わったものが特に目立つ。
「なんだよ、ガラクタだらけって言いたいのか?」
「うん。だって、俺の名前の知らない物ばっかりだ。」
ハリスにとって家というのは、ただ寝る場所でしかない物だった。
それがここに来て、食事をしたり、くつろいだり、人を呼んで談笑したりする物と知った。
ずっと今までそんなに物が必要だなんて知らなかった。
「そうだろうよ。私もよく知らない物だってあるんだからな。」
「……自分が知らないのに、なんで持ってるんだよ。」
「知ってる物より知らない物である方が家に飽きないだろ。」
実に彼女らしい斜め上の言葉だ。
意味がわからないとばかりに貰ったモモに噛り付く。
ふわっとモモ特有の甘ったるい香りが匂い、酸味がある甘みが口内に広がった。
昔は食べれれば食べ物はなんでも良かったが、近頃は食べ物の味がよくわかるようになったと感じる。
(………………これが、“おいしい”って事か。)
それもデイジーに教わった言葉。
特に自分で作ったのと人から貰った食べ物は別段美味しいらしい。
(うん…、確かにおいしい気がする。)
まだ、自分にはよくわからないのだけど。
少し、もうすぐ実がなるモモが、待ち遠しく感じた。
*+*+*+*+*+*+*+*+*
チュンチュンと、鳥の鳴き声がボッサの音楽に混じる。
「……あ、晴れた。」
家に来て数時間、ずっと閉めきっていたカーテンをそっと開けてみると、案の定、雲の切れ目から太陽が顔を出していた。
急に外に出たい気持ちに駆られ、ハリスはデイジーをちろりと見る。
「…………俺、帰る。」
「おう、今度はオレンジ持って来いよ。」
「やだね。…あれ、モモより酸っぱいもん。」
味を思い浮かべてるのか口をへの字にするハリスを見て、そういえばまだ若い実のオレンジ食べて渋ってたっけ、なんて思い出す。
「じゃあそろそろ行くよ、バイバイ。」
少し素っ気ない言葉を言い残すと、ハリスは幼なさ残る背中を見せて外に出ていった。
デイジーが驚いた顔をしているのを知らずに。
「あいつ、いつの間に挨拶を覚えたんだ…?」
以前は「おはよう」の意味すらわかっていなかったというのに。
村に来てからのハリスの成長ぶりは目に見えるほど心身共に著しく伸びていた。
今はデイジーを見上げてる彼もいつかは彼女を追い越すかもしれない。
「……なんか、あいつの親みたいな気分だな…。」
息子を見守る親か、はたまた年の離れた弟を見る姉か。
どちらにしろ彼を見守るつもりでいる。
「………………それにしても、モモ臭ぇ……。」
一人残された家の中、相変わらずボッサが流れていたが雨音がない今は自分の声はよく響いた。
- Fin -