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海へ行くはなし2。





それからマスターとエクストラは靴と靴下を脱ぎズボンのすそを上げ、しばらく波と戯れていた。
それを呆れ交じりにアーチャーが眺めていると、不意に2人に手招きをされ、首を傾げながら近寄ってみると2人がかりで思いっきり海水をかけられ、結局重力に従って落ちた前髪をそのままにしたアーチャーを加えて、3人で水を掛け合って遊びあった。
最近体力はついてきたものの、やはり標準よりは体力のないマスターが若干へばりつつも満足いくまで遊んだ頃には、もうとうに昼を過ぎていた。
サーヴァントはこれしきの事で疲労を感じたりはしないのだが、なんとなく肩で息をつきつつ、ぜえぜえと大きく息をしながら膝に手をついてへばっているマスターの背中を撫でながらその体を支えて砂浜に戻り、念の為に用意していたバスタオルで体を拭いた。

「さて、昼食にしようか」
「あれ、アーチャーお弁当作ってきてくれたの?」
「無論だ」

浜辺にレジャーシートを敷いて、その上に座るように促しながら持ってきていた風呂敷包みを開いたアーチャーの手元を左右から覗き込んだマスターとエクストラに、アーチャーは得意げにふふんと鼻を鳴らす。

「二手も三手も先を読むのが重要なのは、なにも戦場だけではないという事だよ」
「貴様は本当に嫌味を言うのが性分だな。………で、中身は何だ」
「こんぶと高菜とシーチキンをそれぞれ3つずつと、卵焼きにたこさんウィンナーに唐揚げと付け合わせに香物。それとデザートの葡萄ゼリーだ。ちなみに飲み物は麦茶だが、不満はないかね?」

この2人が、アーチャーの作るものにケチをつけることなどあり得ないと知りながらにやりと意地悪そうに唇を釣り上げるアーチャーに、マスターとエクストラはくすりと笑って、野暮なことを聞くなと、その屈強な背中にバシリと一発入れた。
それぞれの腹の中に弁当の中身がまんべんなく入ったところで、麦茶を飲みながら一服していると、あっと思い出したようにマスターが声を上げた。

「む? どうした奏者よ」

むぎゅむぎゅとデザートのゼリーを口に入れながらエクストラが問いかけると、マスターはちょっと待ってねと言って、彼が持ってきた白い麻のショルダーバッグをごそごそと漁ると、にんまりと得意顔になって鞄から取り出したものを掲げた。

「じゃじゃーん!」
「………………画材、か?」

子供のように効果音を口ずさんで出したそれを見て、食べ終えたゼリーの器を片そうとしていたアーチャーが、怪訝そうに呟いた。
マスターが取り出したそれは、A4ほどの大きさのスケッチブックと、絵の具のセットだった。したり顔で頷くマスターは、不思議そうに首をかしげるサーヴァント達をよそにせっせと理由を話しながら準備を始める。

「実はね、海に行きたかった1番の理由はね、これ。海でなくても、2人と行った場所はとにかく全部、しるしとして残しておきたくってさ。ほら、最初にみんなでデパートに行ったときに、アーチャーが買ってくれたやつだよ」

言いながら絵の具セットのふたを開け、木製のパレット、絵の具、パレットナイフ、小さめのバケツ、小筆と大筆を取り出していく。
存外本格的な内容らしいそれをアーチャーたちが黙って見ていると、マスターは一通り揃え終えた画材たちを満足そうに見渡して、ふうと一つ息をつく。そして、柔らかな笑顔で自身のサーヴァント達を見まわした。

「僕の記憶って、すごく曖昧でしょう? 自分の名前すら、ちゃんと覚えていない。キリツグって初めに名乗ったのも、ただそれが一番はっきりと記憶しているからってだけで。それが何を意味する言葉なのかも、全然解らないんだ」

自分のことを話すとき、マスターはいつも困ったように眉を下げて笑って話す。まるで、それが叱られるべきものなのだというように。口を挟めず黙ったままでいるアーチャーたちをまたすまなそうに見て、マスターは続ける。

「もしも、もしもね。また。記憶が曖昧になって、2人のことを忘れちゃったらって考えると、すごく怖い。僕、そんなのは絶対に嫌だ。2人に救われてからの記憶、どれ1つだって、死んだって忘れたくない。絶対忘れないように。ずっと、覚えていられるように。3人で見た景色を、少しでも形に残しておきたくて」

だから今僕ができる一番の方法は、これかな、って。
そう言ってバケツに淡水を汲んでくるように頼んだマスターに、アーチャーは一瞬息をのんで、それからすごく真面目な顔になって、頷いて彼の頼みに従った。

「奏者………」

エクストラが声を掛けると、彼は一瞬だけ泣きそうな顔をして、それでも努めて何でもない顔をして、スケッチブックのページを開く。

「…………忘れたくないよ」

それでも耐え切れなかったというように、一言だけ、弱音がこぼれる。
その言葉を聞いて、彼とシートに残っていたエクストラはようやく理解した。
この青年は言葉にも態度にも出さなかっただけで、本当はこの状況を酷く恐ろしいと思い、怯えているのだと。
彼には、今までの生涯の記憶が全て曖昧で。しかもそれを、あの日アーチャーに問われて初めて気が付いたのだ。自分が一体何なのか。そんなもの、彼自身が一番知りたいに決まっている。
そして彼は、今覚えている記憶を、またすべて忘れてしまうのではないかと怯えている。そう、かつての彼が行ったように。
今が、アーチャーとエクストラと当たり前のように入れる今が楽しいから、幸福だからこそ、忘れてしまうのが怖いのだ。
下書き用の鉛筆を持つ手が微かに震えているのを見て、エクストラは衝動を抑えきれなかった。
強引に彼の肩に手をかけ、その体を頭ごと抱き込むように抱きしめた。

「奏者っ」
「こわい。こわいよ、エクストラ。……知らないでいるのは、死んでしまいそうに、こわい」

小さく震える声を聴いて、エクストラは歯噛みした。
身近にいながら、今の今まで彼の苦しみに気づけなかったのが、たまらなく悔しい。この人は、自分のマスターなのに。
そして同時に、彼の恐怖を足り除く術がないのが、ただただ口惜しかった。
きっとマスターは、エクストラたちが自分に本当の名を告げてくれるのを待っている。いつかまた忘れてしまうのではないかという恐怖に立ち向かうために、確かな絆をほしがっている。
当然、3人が3人とも、彼ら間に絆が生まれていることなんて知っている。だけどきっと、楽しい時間の中で、マスターの心にふっと冷たい風が吹き荒んでいる。
本当の名前も知らないのに、それは絆と言えるのか?
心の奥底に覗く不安が呼ぶ誰とも知らないその声を、マスターはきっと聞いてしまっている。
伝えたい。彼にこの身の真の名前を告げて、彼を安心させてあげたい。だけど、エクストラもまた、彼に本当の名前が知れるのが怖いのだ。
アーチャーと違って、エクストラの名は歴史に名を刻んでいる。この身が起こした出来事には胸を張れることはもちろんたくさんあれども、この時代では目を背けるようなことをしなかったなどと言える一生ではなかった。それを知られたら、マスターの自分に対する態度が変わってしまうかもしれない。
己の一生に悔いなどありはしないが、けれど、それを堂々と彼の前に晒せるかといえば、それはまた別の問題だ。自分にとっての精一杯だったそれらをマスターが知った時、彼は一体、自分にどんな目を向けるのだろう。
それを思うと、エクストラは怖くてたまらない。
だから、足が竦む。だから、どうしてもまだ、己の主人に真名を語ることができなかった。

「奏者……すまない。余は、まだそなたに真名を告げられぬ」
「………………」

マスターの手からスケッチブックがすり抜けて、砂の上に落ちる。その空になった手がゆっくりとエクストラの背に回り、彼女の上着を握った。その上着がしわができるほど強く握られるのを感じて、彼女はより強くマスターを抱きしめた。

「すまぬ。あと少し、あと少しだけ、待ってほしい。余はそなたが大好きだ。本当の本当に、愛しく思っている。もう少ししたら、余の名は絶対にそなたに告げる。それだけは、誓って本当だ」
「……………うん」

うん、解ったよ、エクストラ。
そう、マスターは、本物ではない彼女の名前で、彼女を呼んだ。
エクストラの腕の中で、彼が小さく頷いたのを感じて。エクストラは泣きそうなのを堪えて、震える声でありがとうと言った。

「………マスター?」

不意に、アーチャーの声が聞こえた。エクストラが顔を上げると、水を汲んできたのであろうアーチャーが、酷く戸惑った顔をして立っている。

「…………泣いているのか、マスター」

問いかけるアーチャーの声に、マスターは答えない。
アーチャーは戸惑ったように目を彷徨わせると、水の入ったバケツを置いて、マスターの隣に膝をつく。

「…………マスター?」
「……ううん、何でもないよ」

心配そうな顔をするアーチャーに、マスターはエクストラの胸から顔を上げて、静かに首を振り、笑みを向けた。

「………2人とも、僕に隠し事ばっかりだ」

そのどこか疲れたような、今にも消えてしまいそうなはかない笑顔に、彼のサーヴァントたちは何と言えばいいのか解らず、ただ目を伏せて、視線だけで互いに遣る瀬無い想いを交わした。




その後、マスターはいつも通り明るく振舞い、アーチャーの組んできた水を使って鼻歌交じりに絵を描き上げた。
それはやはり幼い子供が描いたように拙く、あまり上手とは言えなかったが、頬に青の絵の具を付けたまま、マスターは満足そうに笑っていた。

「まだ帰らないのか、マスター」
「うん。せっかく来たんだから、もうちょっと見てみたいなって」

スケッチブックの絵の具が乾き、画材を鞄にしまった後、帰るでもなくあてもなく海辺に沿って歩いていくマスターにアーチャーが訊くと、歌うようにそう答えた。

「しかし奏者よ、こちら側は先程いた砂浜と違って、見て面白いところなどないぞ?」

エクストラの言う通り、マスターが今歩いているのは、海岸のかなり外れの場所だ。彼の足もとはすぐ横の海側がコンクリートになっている津波防止用の岩が設置されている崖のような所で、片方は通常のコンクリートで塗装された道が続いているものの、マスターが一歩逆方向に踏み出せば、ごつごつとした岩の崖下に真っ逆さまである。
それ故に、さっきからサーヴァント達ははらはらしっぱなしだ。

「えー、そんなことないよ? こういうところって、何だか秘密の場所みたいで楽しいし」

にっこり笑いながらそう言って歩を進めながらに口遊むのは、初めて3人で買い物に行った時に、買い物中のエクストラを待っている時に歌っていた鼻歌だ。
すぐ横が崖のようになっているコンクリートの道を、マスターはやじろべえのように両手を広げてバランスをとりながら楽しそうに歩いている。
ふんふんとやわらかメロディーで奏でられるそれに、先程のマスターの様子を見ていただけにそんなに楽しそうにしていては水を差せないと、アーチャーとエクストラが仕方ないとばかりに苦笑した時、それは起こった。

「―――――あっ?」

がくん、と、マスターの視界が斜めに傾く。
まるでスローモーションのように斜めに落ちていくしかいと浮遊感に、ああ、足を踏み外してしまったのだと理解して、態勢を立て直さなくてはと頭の端で妙に他人行儀に考えた時には、すでに彼の足は地から離れており、マスターの目の前には、青すぎるくらいの空が、視界いっぱいに広がっていた。

「マスター!」
「奏者!!」

ひらりと、目が覚めるような赤が、視界の端で翻る。
それはアーチャーたちが着ていた、あの日3人でおそろいの色をと買った、赤いコートで。
彼の目に、酷く焦った顔のサーヴァント達が、自分に向けて手を伸ばしている。それに導かれるようにしてマスターが2人に向けて手を伸ばした瞬間、ぐるり、と世界が切り替わった。

「(…………え?)」

まるで、古い映画を見ているように、灰色に褪せた視界。その目の前には、幼い頃の自分がいた。
先程のアーチャーたちのように、酷く焦った顔をして、必死にこちらに手を伸ばしている。

「■■■■■――――!!!」

その自分は今にも泣いてしまいそうに顔を歪めて何かを言っているのに、音がノイズがかかったようにざらついて聞こえない。
彼の後ろには、くたびれて寄れたシャツを着た無精ひげの男が、呆然と、目を見開いて“自分”を見ている。
“自分”はそれを見て、ああ、帰らなくてはと思って。
腕を力いっぱい伸ばしている彼の手を、“自分”は取らなければいけないと思って、手を伸ばすのに、“2人”の指はぎりぎりのところで届かなくて。
やがて、彼らが徐々に遠ざかって行って、“自分”は――――

「奏者っ!」
「えっ?」

唐突に響いた外界の音を聞いたと同時に、ぐいと力強く腕を何かに掴まれて、引き戻される。
驚いてぱちくりと瞬きをすると、目の前は鮮やかに色づいていて、そしてその両隣には、自身のサーヴァントが心配そうな顔をして、こちらの顔を覗きこんでいる。

「ぁ…………」
「まったく、何をしておるのだそなたは! 心臓が止まるかと思ったぞ!!」
「っはあ……私たちがすぐ傍にいたからいいものを。君はもっと周りに気を配りたまえ」

荒い言葉とは裏腹に目じりに涙を浮かべているエクストラと、あからさまにほっとしたように息を吐くアーチャー。
鮮明に聞こえる音と、触れられている感触に、マスターはようやくここが現実なのだと思いだした。

「エクストラ……」
「む?」
「アーチャー……」
「何だね?」

自分の呼びかけにしっかりと応えられていることに、マスターは安心したようにほっと深く息を吐き出した。
どっ、どっ、と、いまだに痛いくらいに胸の鼓動が鳴っている。
あれは、今のあの映像は、一体何だったのだろう。後ろの男は? あの時、自分はどこにいた?
あの“少年”は、本当に自分なのだろうか?

「(…………こわい)」

今までとは違う種類の恐怖に心臓が縮まるような気がして、マスターはきゅっと心臓の位置にある服の部分を握りしめた。
心配するエクストラたちの声に応えられないまま、ぽす、と体を傾けて、彼らに体を預けてみる。
突然のマスターの行動に惑った様子もありながら、けれどすぐにマスターを安心させるように優しく一定のリズムで背中を叩いてくれるエクストラたちに甘えて、マスターはゆっくりと目を閉じた。
今まで、記憶がないことを不安に思う事はあっても、マスターにとっての記憶の価値はそれだけだった。そんな事よりも、今の記憶を失ってしまう方がマスターにはよっぽど恐ろしい。
だけど、今。あのノイズ交じりの自分の記憶であろう映像を見て。
初めて、記憶がないことが怖くなった。








2014.9.15 更新