気味が悪い。 それが、綺礼が遠坂邸にやってきたあの男に対する印象だった。 いまだ呑気に風呂に入っている来客を脱衣所の前の扉で腕を組んで鎮座し待ちながら、綺礼の眉間には珍しく深いしわが刻まれていた。 時臣の妻子である葵と凛が連れてきた、童顔の赤い外套の青年。一見どこにでもいるように見えるが、しかし、彼の内に秘めている魔力は明らかに異状だ。1人の魔術師が持っている魔力を明らかに凌駕しているし、そしてその状態で、あんなにもけろりとしていられるはずがない。 普通、あんな高密度の魔力に、人間は耐えられない。あれが外付けのハードディスクのように一時的なものならばまだ解る。だが綺礼が脱いだ後の青年の服を探ってみても、そんな礼装はどこにも見受けられなかった。念のため壁越しに青年の周囲の魔力を探ってみても、礼装の反応などどこにもない。 それに、あれだけの魔力を垂れ流しにしていれば、すぐにそれに寄ってきた怪異によって息絶える。…………何の対策も、していなければの話だが。 しかし彼の身体には、何の術も施されてはいなかったのだ。そんな馬鹿なとは思ったものの、自分よりもずっとすぐれた魔術師である時臣がそう言ったのだから、ならばそれが真実であるか、あの青年が時臣よりも数段優れた魔術師であるかのいずれかだ。 だから、綺礼はあの男の一切を信じないと決めた。 時臣の魔術師としての腕を疑うわけではないが、それではどう考えてもおかしい。あんな状態で一般人よ同じように生活するなど、存在自体があり得ないのだから。 時臣は彼の元来のお人好しの性格ゆえかもうすでに無意識に男に絆されかかっているが、だからこそ、その分綺礼自身があの男を警戒しなくてはいけなかった。 「あのー……えっと、ごめんなさい。綺礼くん、いるー?」 ふと、そこで扉越しにノックと共に聞こえてきた件の男の声に、綺礼は背を預けていた扉から退く。 「何だ」 「あ、よっかったぁ。いてくれて助かったや。あのね、その……ちょっと頼みたい事があって」 簡潔に訊く綺礼に、男はあからさまにほっと息をついた。 そして次いで扉越しに発した言葉に、綺礼は無意識のうちに拳を握りしめる。 ここで、化けの皮を剥がす気なのか。だとすればこの男はまず不意打ちで自分を倒してから、次に葵と凛を人質に取りに行く算段をつけているのだろう。時臣は典型的な魔術師の思考を持ち合わせていながらも、愛妻家であり子煩悩だ。どちらか一方でも盾に取られたら、言われるがままになってしまうかもしれない。 なら、ここで息の根を止めてしまうが吉。 時臣にも何か動けば始末をしろと命じられている。何に気負う事もない。 そんな綺礼の思考など露知らず。招かれざる客である青年は、何とも無防備にひょっこりドアの陰から顔を出した。 「………? 綺礼くん、何やってるの?」 「……いや、お前の方こそ何をやっている」 不思議そうに扉の前で拳を構えている綺礼を見ている青年に、綺礼の方こそ、つかの間呆気にとられて拳に込めていた力を抜いてしまった。 扉から姿を現した男は、ぶかぶかのカソックを見に着けている。それは、綺礼が師の衣服を貸すなどとんでもないと、住込みのため借り受けている部屋から持ってきた綺礼自身の服だ。 理由は時臣の服に何か細工をしないようにと、綺礼のカソックには呪符が縫い込んでいるため、迂闊な小細工は出来ないからというものだったのだが、身長が180後半の綺礼の体躯に合わせてあるそれは、予想以上に男の身体に合っていなかった。 肩の幅が狭いのか本来肩に当たるべき布の部位が彼のにの腕辺りに来ている為、袖が指先近くまで覆っているし、カソックの丈が合っておらず、まるで丈の短いワンピースのようなものになっている。身長が10p以上違うとはいえ、流石にこれはないんじゃないだろうか。 まるで子供が大人の服を無理矢理着ているようなその間の抜けた格好に、綺礼は一瞬先程までしていた全ての警戒が馬鹿らしくなった。 しかしすぐに絆されるなと気を持ち直し、厳しい目で男を見据える。 「何の用だ。着替えたのなら食堂へ行くように奥様に言われている。付いて来い」 「え、いやっ。あの、その事なんだけどっ」 気を抜かないまま形だけ青年に背を向けて言う綺礼に、男は慌てたように声をかける。 それに視線だけ向ける綺礼に、男はあのね、と言葉を紡ぐ。 そこで、綺礼は男の動きが妙にぎこちないのに気付いた。より端的言えば、彼はさっきから服のウエスト部分を握って、すり足で動いている。 綺礼の視線に気づいたのか、男は少し頬を染めて、困ったように眉を下げて笑った。 「このズボン、ウエストが緩くって。何か、ベルトとかないかな」 そう言って小首を傾げた男に、綺礼はそのあまりの間抜けな頼みごとに思わず絶句し、2人の間には少しの間何とも言えない妙な空気が漂った。 綺礼は何と答えるか迷って、取り敢えず探してくるからここで待て、とだけ言うと、男がありがとう、と言ってふにゃりとあまりにも平和ボケしたふやけた笑顔を見せるので、綺礼は何だか調子を崩されて、それを誤魔化すためにこれ見よがしに眉間にしわを刻んでみたものの、男にはてんで効果がなかった。 遠坂の食卓は、基本的に彼ら3人は綺礼の4人で囲むのが常だ。しかし、今日は特例で、凛と葵の間には、風呂に入ってさっぱりとした、カソックを着た青年が座っていた。 言わずもがな、青年とはカラスことマスターである。 「さ、遠慮せずたくさん食べてね。今日はいつもより多めに作らせたから」 「ありがとう、葵さん」 優しい微笑みを向けてくれる葵に、マスターも嬉しそうに返事を返す。 遠坂邸の銭湯規模の大きな浴槽にたっぷり使ってしっかり体を温めたマスターは、着替えを済ませるとその服を貸してくれた綺礼という青年のあとをついて食堂に行くと、時臣たちに促される形で、共に食卓を囲んでいた。 「でも、本当に何から何までごめんなさい。わざわざごはんまでごちそうしてもらって………」 「いいや。むしろ君に気を使われる方が、私達としても困ってしまうよ。君は私の妻と娘の客であり、私の客でもある。もてなさない方が不自然というものだろう」 「そうよお兄さん。いっぱいたべて! わたしまるで本当にお兄様が出来たみたいで、今とっても楽しいの!」 にこっ! と愛らしく笑ってマスターに話し掛ける凛に、マスターもほっとした顔で笑う。 「美味しいね、凛ちゃん」 「うんっ」 そうして笑って顔を突き合わせて料理に手を付ける様子を見ると、まるで本当の兄妹のようで、その可愛らしい様子を隣で見守っていた葵は大層眼福だった。 「凛、実は今日の夕食の副菜は私が担当したのだが。是非君の感想が聞きたいな」 「ふんっ。ええ、とってもおいしくってよ、綺礼。たった今から箸が進まなくなりましたけどね」 「そう? 凛ちゃんこれおいしいよ」 「もう、お兄さんの鈍感っ! そういう意味じゃないの!」 「?」 向かいに座った綺礼の言葉につんと顔を背けて言った凛に、マスターがきょとんとしてその綺礼が作ったというパテにフォークを突き刺してもぐりと口に入れると、凛はぶんぶんと顔を振ってマスターに反論した。そして小声で、綺礼の作る料理は何だか信用できないのだとマスターに耳打ちする。 その仲睦まじい様子に、内心綺礼はむすっとする。 何故3年間ここで修業をしている自分には全く懐かないどころかむしろ嫌われているのに、たった数時間前にあったこの男にはこんなにも懐いているのかと。 その視線を感じ取ったマスターに見つめられて小首を傾げられたが、その視線は黙殺した。 「でも、何て名前かは知らないけど、このハムみたいなの本当に美味しいよ。友達の作るごはんもすっごく美味しいけど、友達が作るのはほとんど和食だから、洋食を食べるも久し振り」 「カラス君は、確かお友達と一緒にこの町に来たのよね」 「うんっ。今は小さいアパートで、僕と、男の事、女の子の3人で住んでるんだ」 「えっ?」 パテの最後の一切れを呑み込んで言ったマスターに葵が思い出したように尋ねると、こくんと答えて頷いたマスターの返答に、驚いたように目を丸くした。 「え………女の子1人と、男の子2人で住んでるの?」 「うん。どうして?」 おろおろと聞き返す葵にマスターがあまりにも邪気のない不思議そうな顔をするものだから、葵の方がむしろ邪まな事を考えているようで慌ててしまう。 「いえ、その……何というか、こう、何か、間違いとかが怒るんじゃないかしら、と……」 「? 間違いって何?」 「ええと……貴方がそれで楽しいなら、それで良いんじゃないかしら」 「うん。2人とも大好きっ!」 葵の質問に不思議そうに応えるマスターの返答があまりにも無垢なので、間違いを起こすどころか、そういう事をするという概念すらないという事に気付き、さらに苦笑して行った葵の言葉に嬉しそうに満面の笑みで頷くマスターに、ああ、これは問題は皆無だなと確信した。 「そう、なら何でもないわ。ごめんなさいね」 「?」 きょとん、として梟のように小首を傾げるマスターに、葵は野暮な事を聞いたと反省する。この無垢な青年に限って、そんな邪まな考えで異性と同居などしないだろう。彼が同居をしていると言うのなら本当にただの同居で、その“同居”と言う台詞に、それ以上の意味などないのだろう。 「………そうだ、カラス」 不意に、時臣がそう言って、マスターに声をかけた。 本当に唐突に話し掛けられて、マスターはどきりとして肩を跳ねさせてから、まだよく知らない紳士という事もあって、緊張しながら時臣の方を向いてはいと返事すると、時臣は穏やかな顔で美しく微笑した。 「夕食後、綺礼を交えて君と3人で話したいんだが、構わないかな」 「え、えっと、あの、はい…………っ!」 怖々と時臣を見上げるマスターに柔らかな口調で言う時臣に、マスターは彼をもっと知れるかもしれないと思い、どもりながらも、精一杯の良い返事を返した。 一見すれば、今日初めて会ったといえど、妻と娘の友人を交えた、穏やかな夕食の風景。しかし、その実それが水面下のものでしかない事を、時臣と、綺礼だけが知っていた。 2014.1.27 更新 ← |