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迷子のはなし3。





葵に案内されたのは、言うまでもなく風呂場だった。
広い脱衣所の奥にあるこれまた大きな浴室を見て、マスターは目を輝かせる。

「すごいすごいっ! 僕、こんなに大きなお風呂見た事無いよ」
「あらそう? そこらにある銭湯と大きさは変わらないと思うから、威張れるほどの広さじゃないのだけど」

興奮したように葵に告げるマスターを見て、葵は微笑ましげに目を細める。
家の中にそこらの銭湯並みの広さの風呂があるのがまずおかしいのだが、そんな事は知らないマスターは、すごいすごいと囃し立てていた。
褒められて悪い気もしないのか、葵の顔もにこやかである。

「じゃあ、脱いだ服はこっちのかごに。それとこっちに後で夫の服を置いておくから、それに着替えて頂戴ね」
「……でも、着替えまで借りて本当にいいの?」
「もちろんよ。風邪を引かせない為に家に招いたのに、濡れた服では本末転倒でしょう?」

少し渋るように眉を下げるマスターの頭を、葵は手を伸ばして優しく撫でる。
それにマスターは照れたように少し頬を赤らめると、しおしおと肩を竦めて頷いた。
どうしてか、マスターは葵の言葉に強く出る事が出来ない。言葉の節々に滲む優しさの影響か、もしかすると、これが秘めたるおかんパワーというものなのかもしれない。

「じゃあ…えっと、お願いします」
「ふふっ、良い子ね。それじゃあ、上がったら部屋を出て右手の奥の部屋にいらっしゃい。そこがリビングになっているから」

小さな子供言い聞かせるように言う葵に、マスターは素直にこくんと頷く。それに満足したのかじゃあねと手を振って出ていった葵を同じく手を振って見送ると、そこで、マスターはちらりと横を見て、言いにくそうに口を開いた。

「それで……その。きれい、くん? ……は、どうしてここにいるの?」
「貴様の見張りだ」

先程から壁に寄り添うようにしてじっと葵とマスターのやり取りを見つめていた逞しい体躯の青年は、おずおずと尋ねたマスターの問いに一も二もなく答えた。
そこまではっきりと断言されてしまうと、マスターも「あ、そうですか」としか返しようがない。

「すごいねぇ。君は葵さんのボディガードさんなんだ」
「別に奥様だけというわけではない」

疑問が解消されたからかマスターは先程までのぎこちなさとは打って変わって驚いたように目を丸くして綺礼に尋ねる。
それに綺礼が簡潔に答えると、マスターはふうんとにこやかに呟いて、自分のサーヴァント達とおそろいの色の上着を脱いだところで、少しだけ悩んだそぶりを見せて、また口を開いた。

「………ところで、その見張りって、着替える所まで見てなくちゃだめ?」
「………………」

暗に自分の着替えている所まで覗くつもりか、ときょとんとした顔で純粋に尋ねたマスターに、綺礼は無言のまま背を向け、すたこらと浴室から出ていった。
バタンとやけに大きな音を立てて扉が閉まるのを見て、マスターは思わず忍び笑いをもらした。



遠坂邸の風呂は入ってみると外から見るよりも広く、マスターは目を輝かせてきょろきょろと風呂場を歩き回ると、一頻り満足してからやっと体を洗い始めた。

「んーんーふーふふふー」

今まで見てきた中でトップランクの豪華な場所という事で、マスターのテンションはいつもよりも上がり気味だ。
上機嫌で鼻歌を歌いながらやたらと良い香りのするシャンプーで頭を洗い、次いで体を洗い終えると、マスターは大きな湯船にそろそろと足をつけ、それが適温であると確認すると、そのまま勢い良く湯の中に体をダイブさせた。
普段はアーチャーの目があり、たまに隙をついてやっても「危ない上に湯が減るだろう馬鹿者!!!」と叱られるので出来なかったが、誰もいない上にこんなに広いならと、つい思い切ってやってしまった。

「はー、きもちいー」

ぷはっと湯船から顔を出してぐっと伸びをすると、マスターは心地よさそうに風呂のへりに頭を乗せた。
遠坂の風呂は本当に銭湯のようで、ふちに大理石が使われている為か、心なしかひんやりしている。
そこにぺたりと頬をつけて、マスターは安心したようにほうと大きく息をついた。
そのまま湯の中で足を遊ばせながら、マスターはぼんやりと自分に風呂を貸してくれた、遠坂時臣の事を思い出した。

「………かっこいいひとだったなぁ」

背が高くて、イケメンで、顎髭で、優雅で。それでいてあんな真っ赤なスーツが似合ってしまうのだ。あれがナイスミドルというものか。とマスターはしみじみと思う。まあ、彼にとって、赤が似合う人はみんなかっこいいのになるのだが。

「初めて会ったのに。葵さんのだんなさんだとしても、あんなにあっさり自分の家に入れてくれるなんて」

それも自分の手を優しく取って、遠慮無く甘えろとばかりに、微笑んでくれた。
あんなにやさしい人に会ったのは久しぶりだった。凛にしても、葵にしても。この家の人達は、みんなきっと根っこまで優しい人なのだろう。

「……………でも、まじゅつし、なんだよね…」

マスターは、「遠坂」という名を、前々から少しだけだが知っていた。
今の家に越してしばらくした時に、アーチャーがこいつにだけは注意しろと、いつものように3人で寝る時に話してくれたからだった。
聖杯戦争にはそのシステムを作った御三家なるものがいて、うち2組はここ冬木の深山町にいる。彼等は当然ながら聖杯戦争に参加するので、もし自分がマスターだと分かれば、間違いなく命を狙われてしまう。
即ち、彼等は魔術師なのだ、と。
マスターにとって、命が狙われるという事よりも、彼等が魔術師だという事の方が、強く胸の内に残った。

魔術師、という事は。
マスターにとって、サーヴァント達に会うまで自分を閉じ込めていた者達と、同じ存在なのだから。
あの集団に捕らえられている間何をされていたのか、マスターは今一つ覚えていない。思い出そうとする度に、頭の中を濃い霧が覆い隠して、何も見えなくしてしまうからだ。
それが防衛本能による記憶障害だという事すら、マスターは解っていない。
けれど、あの場所は間違いなく、今よりも寒かった。今よりも怖くて、今よりも、ずっとずっと寂しかった。
もう、今のマスターは、きっとあそこには耐えられない。
アーチャーと、エクストラと離れたくない。
大好きな2人と、一緒にいたい。

「………あそこに戻るのは、いやだ」

凛や葵を信用していないのではない。けれどどうしても、またあの場所にもどるのではないかという不安を、マスターは拭う事が出来なかった。

「……………それでも、時臣さんは優しかった」

自分の手を取って笑いかけてくれたあの人と、自分をあの場所に閉じ込めた彼等の人物像が、一致しない。
大理石から頬を離して、ぶくぶくと音を立てて頭までつかりながら、マスターは不安を堪えるように自分を抱きしめた。
あの日エクストラ達に会った時のように、マスターは彼を好きになりたいと思った。
それでも怖い。彼が、怖かった。
だんだん息が苦しくなってきた所で、マスターは勢いよく立ちあがって、ぱんっと自分の頬を叩いた。
いつものアーチャーが気合を入れる為にする動作を真似してのものだったが、成る程、これは確かに何だか勇気づけられる。

「閉じこもってるだけじゃダメだ。足を止めてたら、この感情から抜け出せないんだから!」

すうっと大きく息を吸い込んで、マスターは「ファイト!」と小さく叫んで自分を奮い立たせる。
今の自分は、アーチャーとエクストラがいたからこそ存在する。
そんな彼等が好きだからこそ、2人に誇れる生き方をしたい。
「たとえ死んでも、臆病な死に方はしたくない」
それが、今の彼にとってのスローガンだった。

「よーっし。とにかくがんば……は…は、はっくし!」

もう一度気合を入れた所で、マスターは思いっきり大きなくしゃみをして、小さく体を震わせると、無言でもう一度湯船にもぐった。

「……………帰ったら、ちょっと、体鍛えようかな」

前にアーチャーが「マスターは肉付きが薄いからすぐ体を冷やすんだ」と言われたのを思い出して、思わずぽつりと呟く。
アーチャーのガチムチさ加減とか、ちょっと、憧れないでもないマスターであった。





2013.9.21 更新