時臣は、現在年に何回もない程の予想外の事態に、軽く困惑していた。 近所の商店街に出かけたにしてはやけに帰りの遅い愛する妻と愛娘に気をもみ、2人がやっと帰って来たのを顔に出さないように逸る気持ちを抑えて弟子の綺礼を従えて玄関まで出迎えると、彼女達に挟まれるようにして、何故か見知らぬずぶ濡れの青年が気まずそうに立っていた。 「……………葵、これは?」 「あっ、あのですね、あなた。この子、ここに来たばかりで土地感がなくて、迷子になってしまったそうなの。お友達とも連絡手段も無いようで……。だからお願い。雨が止むまでで良いから、この子を家で雨宿りさせてあげられないかしら」 こほん、と咳を一つして口火を切った時臣に、葵は申し訳なさそうに眉を下げて頼みこんできた。 そんな妻の珍しい態度に、時臣は少しばかり目を丸くした。 いつも彼女は自分の三歩後ろを歩き、自分の意見を主張する事は滅多にない。それに加えて、先程から凛までもがお願いというようにじっとこちらを見上げて来ている。 その視線を受けて、時臣はその間に立っている青年を見つめた。 見掛けは、どこにでもいそうな普通の、群衆に混ざればあっという間に見分けがつかなくなってしまいそうな青年だ。 目立つ所といえば、ぴこぴこと四方に跳ねた黒い髪と、同じく真っ黒い瞳と、申し訳程度に羽織っている赤い上着くらいなものだ。 だが、それでも、彼の纏っている魔力の密度は無視できるものではなかった。 「……………君、名前は」 今だ所帯なさげに視線を泳がせている青年に、時臣は反論は赦さないというように静かに見つめる。 見掛けは平凡でも、そんなものはその人間を推し量るのに対して役など立たない。むしろそういった雰囲気を醸し出す者こそ注意すべきなのだ。 この青年は、その肉体が生成できる小渦(マナ)の量と密度が明らかに可笑しい。見るからに華奢な体躯にもかかわらず、その身から滲む魔力は幻想種にも劣らぬほどだ。 いつにも増して葵と凛が他人である彼に親密なのは、彼から滲む魔力にあてられているからかもしれない。 まさか無自覚というわけもあるまい。そんな人間が、この御三家と謳われる遠坂家の門をくぐっている。 あと数カ月ほど後に控える聖杯戦争の事を考えると、警戒するなという方が無理だった。 「えっと………からす、です」 「烏?」 「うん……じゃなくて、はい。あ、あの。ぼく、やっぱりいいです、…帰る」 時臣の有無を言わせない視線に気圧されたのか、カラスと名乗った青年は怯えるように眉を下げ肩をすくめて名前を名乗ると、そんな事を言い出した。 それに、思わず時臣は首を傾げる。 帰る? 何故。彼は先の聖杯戦争の為に遠坂を監視に来たわけではないのか? その為に当主である時臣の妻子に近付いたのだと考えていた時臣は、そこでいささか毒気を抜かれてしまった。 「そんな、どうして? カラスくん」 「だ、だってやっぱりあって間もない人のお世話になるのは、迷惑だし」 悲しそうな顔をして尋ねる葵に、青年はそうしどろもどろに答える。 その表情は本当に申し訳なさそうなもので、魔術の世界に生きる者独特の邪気は全くなく、むしろそこいらにいる幼子よりよっぽど純粋な空気が感じられた。 ……もしかしたら、先程眉を下げていたのも、申し訳なさからの肩身の狭さゆえだったのかもしれない。 今の青年を見ているとそんな事まで考えてしまう程で、時臣は何だか身構えていたのが馬鹿らしくなって、拍子抜けしてしまった。 いずれにしても、普段滅多にお願いなんてものをしない妻子の頼みというのもある。 ものの数秒であっさりと警戒心を解かれてしまった時臣は、少し考えるように眉をしかめる。 そんな、時臣の逡巡を遮るかのように、 「――――へ、っくち」 ふるり、と寒そうに身を震わせるように自分の肩を抱いた青年のくしゃみによって、それは時臣によって反射的に跳ねのけられてしまった。 「ああ………すまない、そう言えば君は随分と濡れていたね。とりあえず、家の風呂で体を温めると良い」 「え、あ、でも」 「そのまま君を外に放り出して風を引かせたとあっては、遠坂家の名折れだ。さあ、こちらへ来なさい」 先程までの渋る様子を見せていたのとは打って変わった様子を見せる時臣うろたえた青年の手を、時臣はほぼ無意識に取って玄関から先に招き入れた。 「葵、彼を風呂場へ案内するように。それと、私の部屋から手頃な着替えを見繕ってあげなさい」 「……! はい、あなたっ! そう言って下さると思っていました!」 「凛、君は彼の為に身体を福タオルを持ってきてあげなさい。できるね?」 「はっはい、お父様!」 そのまま妻と娘に指示を出すと、2人はぱあっと顔を明るくさせて、嬉しそうに顔を綻ばせた。 むしろ、急な展開についていけないのか、青年の方が困惑したように葵達と時臣を交互に見比べている。 「………あ、えっと…その、ありがとう、ございます。えっと」 「遠坂時臣だ。後ろにいるのは私の弟子の言峰綺礼。さあ、烏。何はともあれ、目上の者の行為は素直に受け取る事だよ」 まだ混乱しているのか優しく手を引っ張る葵にうろたえる青年に、時臣は淡く微笑むと、人差し指を唇に添え、ぱちりとウィンクを1つした。 それに青年は驚いたように目を見開くと、やがて嬉しそうに破顔した。 そのまま素直に葵に従って青年が屋敷の奥に行き、凛の方も足を弾ませてスキップをするようにバスタオルを取りに行くのに玄関から姿を消したところで、時臣はようやくはっとした。 先程ので毒気を抜かれたとはいえ、まだ彼が間者ではない廓賞などどこにもなかったのだ。 だというのに、ついうっかり、彼のくしゃみに気を取られて何処の何者なのかも解らない青年を屋敷に入れてしまった。 「しっ…しまった………!」 「…………師のそういった所も、私は美徳だと思います」 くっ、と悔しげに歯を鳴らして近くの壁にうなだれた時臣に、綺礼はとりあえずそっとフォローをしておいた。 「何たる事だ……。私とした事が。そもそも、初めの問題すら解決していないというのに」 凛と葵の連れてきた青年の体は、はっきり言って異状だ。 身体のいたる所に神秘が染み付いている。それも生半可なものではなく、一級の。 放っておけば、魔術師が産み落とす魔道の子が呼びよせる怪異などとは比べ物にならないくらいの異常を己に呼び寄せる程の。 まるで、全身があらゆる聖遺物で造られているかのようだ。 それが、どうしてああもけろりとしているのか。 緩んでいた思考を、息を1つつくことでリセットする。 時臣の脳は、それだけで、平時のものから魔術師のそれにシフトした。 「綺礼」 「はっ」 軽く呼び掛けるだけで、この優秀な弟子は命令の細部まで勝手に読み取って実行してくれる。 日々の生活でもこれから訪れる戦争でも、彼ほど優良な駒はいないだろう。 彼を見張れという名は、既に言われずとも綺礼は承知しているだろう。 あんなモノを体に住まわせて平然としているだけで、すでに彼は純粋な人間かどうかも疑わしい。 「彼から目を離さないように」 そして、何か不審な動きをしようものなら、戸惑う事無く殺せと。 後顧の憂いを晴らすため、冷酷な命を躊躇う事無く下した時臣に、綺礼は深い礼を一つする事で、それに応えた。 2013.9.14 更新 ← |