あの日、少女は、1人の男のサーヴァントとなった。 彼女が召喚された魔法陣のその先に、麻でできたぼろを纏っただけの彼は、ただ真っ直ぐに此方を見つめていた。 他に何をするでもなく、ただぼうっと見ているだけだった彼は、しかしその瞳だけは、現れた未知の存在に輝いていた。 彼女を喚んだのは彼ではなく、また彼はあの時、そもそも彼女達が何者なのかさえ知らなかったけれど。 その星空を思わせるような煌めいていた黒い瞳に、彼女はどうしてか、とても強く惹かれたのだ。 彼女にとって、彼は今までにないタイプの人間だった。 見掛けはどこにでもいる、東洋人にありがちな年齢の特定しにくい顔立ちの青年。 ただ、その中身はあまりにも無垢で、純粋だった。 子供のように頼りなくあどけない仕草で世界に触れ、見るもの全てに目を輝かせる。 あって間もない筈の彼女と同僚に向ける顔は、信頼しきったもののみだ。 その在り様を、彼女は愛おしいと思い、自分の出来うる力の限り慈しもうとした。 彼が伽藍になってしまった自身の過去に怯えるのなら支えよう。彼の前に立ちふさがる敵は、そのことごとくを切り捨てよう。 そう、その時まで、彼女に取って彼はただ慈しむだけの存在だった。 要するに、彼女は彼を自分が庇護し、甘やかす事が出来るだけで満足だったし、彼に何も求めてなどいなかったのだ。 だから余計に、彼のあの一言に動揺した。 “もしエクストラにいじわるする人がいたら、僕がちゃんと怒るからね。任せてっ” 彼にその言葉を告げられた時に、彼女の胸に飛来したのは、確かな喜びだった。 つまり、彼は彼女を守ると言ったのだ。 それは、本来なら必要のない事。むしろ、あってはならない事だ。 彼女は彼を守る剣だ。彼を守る事こそすれ、その反対などあり得ない。そんな事になれば、彼女のいる意味などなくなってしまう。 それでも、彼女は嬉しかった。どうしようもなく、嬉しかったのだ。 それはつまり、例え万人から責め立てられたとしても、彼がそこに立ちふさがって、味方でいてくれるという事だ。 そんな事を言ってくれた人は、彼女の一生の中で一人もいなかった。 統べる者の不満を受け止めるのも為政者の務め。 それを彼女も回りも解っていたから、周囲は彼女に降りかかる非難やそれに伴う行いに、何を言う事もなかった。 彼女もそれを承知していた。承知してあの国を統べると決めた。 けれど――――。 彼女は、彼に告げられた言葉を確かに嬉しいと思う心に動揺した。 そんな事はあってはいけないのだと、すぐにでも彼に言うべきだったのだ。 だが、彼のあの夜空の瞳を見て、言葉がつまった。 彼は、どこまでも無垢であるが故に、放つ一言一言が嘘偽りのない真実だ。 何よりその眼が、真摯に彼女を思っているのだと解ってしまって。彼女はもう、何も言えなくなってしまった。 だって。 彼に守ると言われた瞬間、確かにこの胸は、熱く高鳴ったのだから。 「ん………」 ぼんやりと開いた視界に、エクストラは眉をしかめて目を擦る。 サーヴァントは、夢を見ない。見たとしても、それは自身の記録を辿るか、マスターに共鳴してその記憶を垣間見るだけで、厳密には夢ではない。 生前は、自身を苛む民の声を夢に見てよく恐怖から跳び起きたものだったが。それがないというのは、何とも不思議な気分だった。 もぞり、と寝返りを打って、エクストラはすよすよと寝こけているマスターの方へ体を動かす。 微かに口を開け、健やかそのものな様子で眠っているマスターの手は、今もエクストラの手を握ったままだ。 軽く振ってもほどける事のないその手に、エクストラは小さく微笑む。 「……ふふ。そなたは愛いな……」 そのまだ少しばかりこけている頬を撫でると、マスターは小さく唸って肩をすくめた。 彼の身体は、初めて会った時から見ると、随分と肉付きが良くなったと思う。 初めの頃の全身の骨が浮き出ているのではと思う程肉の無かった身体も、今では人並みと言えるレベルになった。 まだまだ細い部類に入る程度が、それでも、あの死体のように冷たかった体温に温もりが灯っただけで、エクストラは嬉しかった。 それに、この家に来てからのマスターは、随分と笑うようになった。 表情も豊かになり、ちょっとしたことでも目を大きく見開いたり嬉しそうに頬を緩ませたりする。 その顔を見るだけでエクストラは嬉しくなり、もっともっとと彼に触れたくなる。 触れれば触れる度に、マスターの事を愛おしく思う自分に、エクストラは気付いていた。 ………けれど、それは同時に、彼女の胸をきつく締めつけた。 彼女は、自身の愛がどういうものか、かつて嫌というほど思い知らされた。だからこそ、マスターにそれを悟られるのが恐ろしかった。 今だ眠るマスターの額に自身の額を寄せ、エクストラはきつく目を閉じ、祈るようにその手を握りしめた。 「奏者よ。余は、そなたを少なからず好いている。だが、これ以上は駄目だ。………だって、私の愛は―――」 「ん…………エクストラ…?」 続ける筈だった言葉は、掠れるような小さな声によって途切れた。 はっとなって顔を上げたエクストラを、寝ぼけ眼のマスターが見上げる。 それが何故か追いつめられているように感じ、エクストラはその顔に無理矢理笑みを張りつけた。 「………す、すまぬ奏者、起こしてしまったか? まだ夜明けは遠い。朝になったら起こすゆえ、もう少し寝ていると良い」 「あはは……先に起きるの、いつも僕じゃないか」 ふるえる声を叱咤しつつ平常を装ったエクストラに、マスターがおかしそうに目を細めて笑う。 その声がいつも変わらないのにどうしてか無性に安堵し、エクストラはマスターに眠りを促すように、その眼をそっと手で覆った。 「さあ、目を閉じると良い。そうすれば朝などあっという間だ」 「…………エクストラ」 「ん?」 首を傾げたエクストラの頬に、マスターの温かい手が触れた。 「えっと、あのね………泣かない、で…?」 「っ……………!」 その、マスターの小さな声に、エクストラは溢れそうな何かを押し留めるように、きつく唇をかみしめた。 理由は解らない。だた、それを溢れさせてはいけないと。 そうなってしまったら、もう、全てが駄目になってしまうと思って。 彼女はそれを、無理やり奥へ通し込めた。 自分に優しく触れる手を取って、布団の上へ下ろさせる。 不思議そうにするマスターに、エクストラは笑えていない笑顔を浮かべた。 「そなたは変な事を言うな。余はちっとも泣いてなどいないぞっ。さあ、早く寝ねば。おやすみ、奏者」 「……………? うん……。おやすみ、エクストラ」 エクストラの言葉に納得のいかなそうな顔をしながらも、マスターはそのまま大人しく目を閉じ、やがてまた小さな規則ただしい寝息が聞こえてきた。 それにほっと息をついて、それでもまだ思いつめた顔のまま、エクストラはマスターの胸に伏せた。 トクン、トクンと確かになる心音に、酷く泣きたい気持ちになる。 マスターは彼女のマスターで、彼女はマスターのサーヴァントだ。 それ以外の関係などあり得ないし、今までもこれからも、あり得てなどいけないものだ。 だから、彼女の感情にも、それはあってはいけないもの。 彼女はただの、マスターを聖杯に導く為の兵器でなくてはいけないから。 「……奏者、そなたは余のマスターだ。……今までも、これからも。それは永遠に変わらない」 本当に、それだけだ。 2013.7.26 更新 ← |