小説 | ナノ






それはまだ、誰も欠けていなかった頃の話。


遠坂陣営の協力者として、また時臣を師事する為に日本の冬木に来てから、言峰綺礼は毎日遠坂邸で寝起きをしていた。
起床時間は毎朝5時半。あまり早起きし過ぎても家の迷惑となるという、綺礼なりの配慮だ。
いくら彼らの為に教会まで移籍する事になったとはいえ、日々の食事、水道代、その他もろもろ全て面倒を見てもらっている上に、魔術の手ほどきまでしてもらうのは忍びない。
そう言って生活費を払おうとする綺礼を頑として受け入れてくれなかった遠坂夫妻とこの家の当主である遠坂時子に、綺礼は仕方なく、ならばせめて家事くらいはやらせてほしいとと頼み込んだのだった。
そんな訳で、綺麗の朝は早い。何時もなら町内のジョギング、日課の八極拳の鍛錬を終え、そのご朝食の下ごしらえをしてもまだ誰も起きて来なかった場合、総じて朝にすごぶる弱い遠坂家の面々を(時臣の妻である葵を除いて)起こしに行くのが、この家にやっかいになってからの綺礼の習慣だった。

しかし、今日に限って、綺礼がいつものようにカソックに身を包み宛がわれた部屋を出ると、何やら甘い良いにおいが鼻腔をくすぐった。
不思議に思って綺礼が早足で厨房へ向かうと、そこには既に先客が陣取っていた。
鮮やかな蘇芳のローブに、背中を撫でる豊かなチョコレートブラウンの長い髪。
いつもと少しだけ格好が違っていたが、綺礼にとってもう1人の師であり遠坂家5代目当主、遠坂時子その人であった。

「〜〜〜〜 ♪」

上機嫌に鼻歌なぞ歌っているその後ろ姿に、綺礼は何となく気配を殺して、そっと彼女の周囲を見回した。
時子の後ろのテーブルには、小麦粉で少し白くなっためんぼうと、何かの生地を伸ばすのに使ったのであろう同じく白くなった板。
その横には大皿いっぱいのマカロンとクッキーが一皿ずつ。一方で、時子は丁度石窯のオーブンにパイ生地のようなものを入れているところだった。
近くに誰もいないと油断してなのか、くあっと眠そうにあくびをしてからそれを誤魔化すようにのびをしている彼女の周りを、いつの間にかいくつもの光の塊が漂っていた。
しかし、綺礼はそれがただの光の塊などではない事を知っている。

「……もう、解ってるわよ、急かさないで」

時子に語りかけるように耳の近くに寄った光の塊に、彼女は少し不機嫌そうに眉をしかめて、砂糖などの調味料類のおいてある棚に手を伸ばし、何故かこんぺいとうの入った壜を手に取った。

「あなた達は本当に食い意地が張っているわね、ピクシー?」

呆れたように時子が蓋を外してぱらりとこんぺいとうを一つまみして宙にばら撒くと、光の塊はぱっと嬉しそうにこんぺいとうに集まった。
そう、この光の塊こそ、この世で最も知名度が高いとされる自然霊、妖精である。
それらは、綺礼が屋敷にやっかいになった時には既に時子を慕うように周りを飛び交っており、時臣に聞いたところ、彼女が10になる事には既にその状態であったという。
時子曰く、「妖精はどこにでもいるし何処にもいない」。いないと思うものには一生見えず、いると識っているものにはどこに行ってもそれが見えるらしい。
その中で、時子にまとわりついているそれらは花や草などにいる下位中の下位の妖精らしいが、ちょっとした雑用をさせる代わりに1日一回甘いものを与えるという約束を交わして使役しているという。
時子は屋敷に漂っている妖精たちを総じてピクシーと呼び、そのピクシーは基本的に時子の言う事しか聞かず、綺礼は勿論凛や桜や葵が話しかけても無視を決め込む。
時臣の言う事は一応大人しく聞いているものの、それでも時子が最優先する存在であるのには変わりない。
時子曰く、話せるようになればピクシー達はきちんと言う事を聞くらしいのだが、今の所彼女以外の者は皆ピクシーの言葉はちんぷんかんぷんなので、もう殆ど諦めているらしかった。

とにかく、いつまでも隠れているわけにもいかず、何故今日に限って早く起き、尚且つ大量の菓子を焼いているのか聞かねばならないと思い、綺礼はいい加減時子に声を掛ける事にした。

「…時子師」
「きゃ………っ」

ややあって綺礼が声を掛けると、まさかいるとは思わなかったのだろう。時子は肩を揺らして、驚いたように目を丸くして綺礼を振り返った。
しかし、綺礼はその事を謝罪するよりも先に、振り返った彼女の顔に目を奪われ、一瞬動きを止めた。

「びっくりした。おはよう、綺礼。今、パンプキンパイとキッシュを焼いているから、それが焼けたら――――」
「どうしたのですか、その傷は」
「えっ?」

きょとん、と目を瞬かせる時子だったが、生憎と綺礼はそれどころではない。
が、と少々乱暴に肩を掴んで自分の方に向き直らせる綺礼に、時子は不思議そうに首を傾げる。

「? 綺礼、傷って………」
「その火傷の事です」

珍しく感情の揺れが微弱ながらも怒りが感じられる綺礼の声に時子が更に首を傾げると、もどかしそうにそう告げられた。
綺礼の言葉通り、昨日まで傷一つなかった時子のその顔は、右半分のほとんどが大きく焼けただれていた。
皮の下の肉の色が晒され、その痛々しい様に綺礼は胸の中にわき掛けたナニカに気づかないふりをしつつ、焦るように問い詰める。

「どうしたのです。オーブンの火を焚きすぎて当たってしまったんですか、それとも煮立った油を手を滑らせて……………とにかく早く治さなければ。貴女でも治せぬほどなのですか? なら私が………」
「ちょ、ちょっ、ちょっと待って、綺礼!」
「何か」

言いながら既に時子の顔に手をかざそうとする綺礼に、時子は焦って制止をしてその手を掴んだ。

「大丈夫よ。私はどこも怪我なんてしてないわ」
「ですが現に、」
「ほら」

なおも言い募る綺礼に対し、時子は笑ってぺらりと火傷をはがして見せた。

「―――――――」

絶句する綺礼を余所に、時子はあっけらかんとして言う。

「今日は我が家はちょっとしたパーティーなのよ。ほら、今日ってあの日でしょう? 本当は普通に魔女にしようと思ったんだけど、私ってある意味いつも魔女だから、意外性を狙ってみたの」
「……………あの日、とは」

やっとの事で声をひねり出した綺礼に、時子はことさら可笑しそうに笑って言った。

「嫌だ綺礼。今日はハロウィンじゃない」
「―――――は?」

つまり、それは、仮装?
いつの間にか、時子のつまんでいた焼けただれた皮膚は、何かの呪文が刻まれた札になっていた。

「これを顔に張って、部分的に幻術を施していたの。ごめんなさい、そういえば綺礼には伝えていなかったわね」

申し訳なさそうに眉を下げて苦笑する時子を見て、綺礼は何だかもう全てが馬鹿らしくなって、力が抜けて膝からがくりと崩れ落ちた。

「きゃっ、綺礼!? ご、ごめんなさいね、そんなにびっくりするとは思わなかったのよ。……大丈夫?」
「………………ええ」

おろおろと膝をついて自分をなだめるように背中を撫でる時子に、綺礼はやっとの思いで言葉を返した。
遠坂家のハロウィン、もとい仮装大会は、まだまだ始まったばかりである。








2012.10.31