小説 | ナノ

夢現




1人の男が泣いていた。
美しいエメラルドの髪の青年を抱き締めて、その泥に還りつつある美しかった相貌を撫で、男は彼に精一杯の慈しみを込めて語りかけている。
男は、涙を流してはいなかった。
けれど、それ以外の全て。その身全てを使って、男は泣いていた。緑の美しい青年の死を、今までの何よりも悲しんでいた。

そんな美しい彼らの前で、彼女は、哀しい程に部外者だった。
抱き締めたかった。必死に涙を耐えている彼の王に、悲しいときには泣いても良いのだと伝えたかった。
ああ―――――でも。
彼はきっと、自分が彼に手を伸ばそうとすることさえ許さないだろうと、解ってしまって。
それが、彼女自身にも解らない程、どうしようもなく、悲しかった。






「…………はっ」

不意打ちに顔に水を掛けられたように、唐突に時子は目を覚ました。
まるで強制的に夢から追い出されたような感覚に、時子は一瞬自分がどこにいるのか忘れて周囲を見回した。
右手にあるサイドデスクと、それに乗った簡易なメモ帳。左手には豪奢な造りのランプ。それを見てようやくここが自身の寝室なのだと思いだして、時子は体を起こすと、深く息を吐き出した。


昨夜、時子が綺礼からの報告を聞き、勇ましくキャスター陣営に特攻を決めると宣言したころ。
その後、彼ら一行は実際キャスターとそのマスターを狩りに出かけたかというと、そんな事はなかった。
何故か。それは時子の唯一のブレーキである、時臣が待ったをかけたからであった。

「待ってください姉君。それはまだ危険です」
「………え?」

出鼻をくじくように高らかに宣言をした時子に冷静な声でそう釘を刺した時臣に、時子はきょとんとして時臣を見つめた。

「………どうして? だって私、これ以上彼らを野放しになんてしていたくなんかないわ」
「それは私も同じです。しかし、今はまだ時期尚早であると思うのです、姉君」

先の彼らが起こしている惨劇を聞いていながら何故そんな事が言えるのか、というように時子が目を細めて時臣を少し冷たく見据えると、時臣は時子のその言葉を肯定したうえで、なおも否と首を振った。
時子は一見、ただ快活であるだけの貴族を体現したような女性に見えるが、その実、一本芯の通った、大よそ魔術師らしくない自分の流儀を曲げるのが何よりも嫌いな間真っ直ぐな人間だ。まあ、体育会系ともいえるが。

「時期尚早? 一体何がかしら」
「その行動そのものがです。良いですか姉君、知っての通り今は聖杯戦争中、それも真夜中です。そんな時に出歩いては、まさに敵の格好の獲物。今まで籠城していた意味が無くなります。昼間出掛けるのとではわけが違うのですから」
「でも、だからって」
「解っています。ですから、あと数刻落ち下さい。日が昇り朝になれば、璃正神父が各陣営を招集してこの事態を伝えます。その時まで待つのです。そうすれば、姉君の最低限の安全は確保されます」
「だって!」
「姉君」

いきり立つ時子を、時臣は苦笑を一つして押しとめた。
すいと唇に添えられた人差し指に時子が悔しげにむくれると、時臣はその手をずらして大切そうに時子の手を取ると、足を折って時子と目線を合わせ、愛しげに眼を細める。

「駄目ですよ、姉君。お願いですから我慢して下さい。貴女がその子供達が乱暴をされているのに憤るのと同じように、いえそれ以上に、私は貴方が傷つくのが嫌なのです。というか絶対嫌です。その子供たちの為に貴女が怪我を負うくらいなら、私が行って怪我を負います」
「っそ、それは駄目!」
「なら、姉君も駄目、ですよ」

ふふ、と少し楽しそうに笑う時臣に、時子は結局、何も言えずにしおしおと項垂れて、時臣のそれを了承した。



その時の事を思い出して小さく思い出し笑いをした時子だったが、すぐに先の夢がフラッシュバックして、俯いてしまう。

「……………これが、召喚者が繋がったサーヴァントの記憶を視る、という事か」

はあと溜息をつくように言って、時子が忌々しげに眉を顰めてきつく目を閉じた。
嫌になるほど、臨場感のある夢だった。いや、夢というよりも追憶か。あの光景は、遥か昔に本当にギルがメッシュの身に起こったことで。彼が大切そうに抱いていたミイラのようになってしまっていた人は、きっと、彼の唯一無二の大切な人。

「…………神様の作った泥人形。神様が、あの人を押さえる為に作った、彼と同じ特別な」

エルキドゥ。彼が唯一、友と呼んだ人。

言葉に出して反芻すことで、より夢の事が現実味を帯びてくる。
時子は欠伸を少しすると、ベッドから立ち上がって、壁沿いに置いた背の高い本棚の一番高い位置にある、古ぼけたハードカバーの本を手に取った。
「ギルガメッシュ叙事詩」と書かれた表紙を丁寧に撫でて、ページを開く。そして目当てのページで手を止めて、彼女のサーヴァントが唯一大切にした人形が土へと還る事を綴った文字を、ゆっくりとなぞった。


“姉様、どうして泣いているのですか?”

“泣いてなんていないわ。ただ、腹が立っただけよ”


幼い頃、まだ彼女がただの遠坂の魔術を紡ぐだけの人形であった時の記憶が、時子の脳裏に反響する。
本を握りしめて涙を流していた時子に不思議そうに尋ねた時子に、彼女は自身の弟にそう返したのを覚えている。


“彼等は何も悪くなかった。なのに、ただ自身の思う通りにならなかった女神の為に、どうして受ける必要のない罰を受けなければならないの”


自分で言っているうちにまた怒りが込み上げてきて、少女は無垢な顔で時臣が彼女の持った本を覗き込んだのも気にせずに、ただ、神に作られた泥人形が静かに自身の滅びを受け入れる様を綴った文面を、言い様のない悔しさと怒りを込めて睨み付ける。


“自身の行いを省みずに、改善さえしようとせず、ただ他に責任を押し付ける。…………………なんて、身勝手”



「……………遠坂を継いでから、この本をもう捨てなければと、ずっと思っていたのに」

時子は自嘲するように肩を震わせ、くしゃりと前髪を握り込むと、そのままとん、と本棚に額を預けた。

「お笑い草ね。いまだにこうやって後生大事に保管してる上に、ついにはその写し見さえ喚び出してしまったんだもの」

時子が初めてギルがメッシュという英霊について触れたのは、父に渡された彼を綴った叙事詩からだった。来るべき聖杯戦争において喚び出す英雄の目安として、それは渡されたものだった。
時子はそこで初めて、物語というものに触れた。
不思議な物語だった。彼女は知識として、こういった叙事詩は英雄の武勇の譚を綴っているものだと知っていた。
けれど、それはすべてにおいて違っていた。
物語の主人公が救いようもないほどの暴君であり、それを嘆いた民のために神に産み出された人形と対峙する様は、まるで彼の方が英雄に倒されるべき悪鬼のようであった。
彼女の父は、こういった英霊を喚び出さないようにという意味を込めて、彼女にギルガメッシュ叙事詩を渡した。けれど、それに反して、時子は叙事詩を読み進めていくうちに、そのギルガメッシュに惹かれていった。
不思議だった。民はそこまで嘆きながら、なぜ一度でもその王に反旗を翻さなかったのか。
答えは簡単だ。民衆はギルガメッシュの暴君さに嘆きながら、その実、自分達の王は彼しかいないと思っていたのだ。

それに、時子は魅力を感じた。
どれほど傍若無人にふるまっても、それは全て彼が彼らしくあるからこそ。
それは遠坂の悲願を達成するための人形でしかない彼女には、決してできない事だったから。
素敵だと、思った。こんなにも自由に生きられる彼が、眩しいくらいに輝いて見えて。本の中の人物だというのに、幼い時子はギルがメッシュという人に、強く憧れた。
だのに、彼の幸せを理不尽に奪い去ったイシュタルという女神に、酷く憤ったのだ。
そうだ。彼女は、それから女神というものをすべからく嫌悪するようになったのだ。
世界が自分の為にあるのだと思い込み、ただ生まれに力があるというだけで、悪戯に人間を弄び、自分勝手に振る舞う存在。
勿論そうでないものもごまんといるだろう。しかしやはり、時子はそれ以来どうしても好きにはなれなかった。

「…………ああ、駄目ね。いい加減気持ちを切り替えなくちゃ」

どんどんと昔の記憶に沈んでいく意識に、時子はぶんぶん顔を振って気持ちを切り替える。
反対の壁に掛かっている柱時計を見て、時刻が6時を少し回ったところだと知る。なら、もう少しすれば、璃正神父が招集ののろしを上げるだろう。そうすれば使い魔を放たなければいけないし、やる事はこれから目白押しだ。思い出に浸っている時間などない。

「……………と、そうだ。あそこにも連絡しないと」

ネグリジェを脱いでいつものシャツとロングスカートを穿き、室内用の上着に袖を通しながら、ふと昨日やり忘れた事を思い出した。
ベッドのサイドデスクに置いてある黒いダイヤル式の電話の受話器を取り、慣れた手つきで、とある場所に電話を掛けた。

「はいはーい、だれっすかぁ、ったく朝っぱらから電話なんてかけやが」
「もしもし秋巳? 私だけれど、随分優雅な朝をお過ごしね?」
「ファッ!?」

数コール後に眠そうな声で電話に出た刑事に時子が声をかけると、声をひっくり返して仰天し、慌てて布団から飛び起きたのだと解る物音が受話器から聞こえてきて、時子は小さくため息をついた。

「だらしが無いわね。仮にも捜査一課の刑事ならしゃんとなさい」
「いや、この時間に既にしゃんとしてるあんたの方が凄……いやもう、何でもないっす。……ええと、何か御用で」
「何かも何も、解っているでしょう。私の土地で起こっている連続殺人事件の事よ」

溜息交じりに言う時子の言葉にゲッと反応する秋巳に、肩を竦めつつ眉を吊り上げた。

「秋巳、これは一体どういう事かしら。この強盗殺人事件、貴方の所管轄の筈よね? この私の町でもうすでに4件起きているの」
「あ、いや、それはその…………」

一応捜査してはいるんですがさっぱり……などとごにょごにょ言葉をごねる秋巳に、時子は呆れたが、丁度良いとばかりに言い訳を続ける電話先の刑事の話を打ち切った。

「もういい。解ったわ、秋津、冬木市にいるすべての警察をこの捜査から外しなさい。それくらいできるでしょう」
「はいぃ!? 何でまた………!」
「決まってるでしょう。邪魔だから」

慌てる刑事にバッサリと言いきって、呆れ交じりに腰に手を当てて小首を傾げる。

「何か上が文句を言うようなら、遠坂の当主に言われたと言いなさい。それでも従わないのなら、私が更にその上に言伝します。良いわね」
「…………ういっす」

有無を言わさず言い切って、秋巳がきっちり電話先で頷いたのを確認して電話を切った。

「………これで良し、と」

ふうと息をついて礼装のブローチを胸につけて、昨夜の夢の事からすっかり頭を切り替え、一仕事終えたと時子は満足そうに鼻歌交じりに自室を後にした。

「ああ、おはようございます、姉君」
「おはよう、時臣」

リビングに入ると、白いエプロンに身を包みテーブルに朝食を並べている時臣に、時子も嬉しそうに声をかける。

「今日の紅茶は、イギリスから取り寄せた蜂蜜とアイリスのフレーバーティーです。メインはデミグラスソースのオムライス、それとデザートのスコーンです。姉君は、オムライスお好きでしょう?」
「うん、大好きっ。でも、時臣の作るものはなんだって大好きよ。それに、時臣が料理をするのは葵が嫁いできて以来だから、本当に久しぶりね」
「ええ。ですから、今日は少し気合いを入れてしまいました」

紅茶を2つのカップに注ぎながら照れ笑いをする時臣に、時子も先程電話先の相手に対していたのとは打って変わった純粋な笑顔を浮かべた。
時臣が葵と結婚し、人が増えて使用人を雇った後でもたまに料理の腕を振るっていた時子と違い、葵と凛たちの頂点にいなくてはならなかった時臣が誰かの為に腕を振るうのは、本当に久しぶりの事だった。

「じゃあ、明日は私も気合いを入れないと。懐かしいわね。2人っきりで食事をするなんて、もう何年振りかしら」
「葵が来る前でしたから…ざっと5年ぶり程です。あの頃は2人しか住んでいませんでしたから、勿体ないって、使用人は雇っていませんでしたしね」
「そうそう、家や庭の手入れは、簡単な使い魔やピクシーで事足りるものね。なのに余計にお金を使うなんて、心の贅肉ですもの。あ、時臣、このオムライス美味しい。久々に食べると、美味しさもひとしおね」
「はい、そう言っていただけると、頑張った甲斐があります」

オムライスに舌鼓を打ち、幸せそうな満面の笑みを浮かべる時子に、時臣もつられるようにして頬が緩む。
何せ、厳選した地鳥の卵をミキサーでふんわりするまで混ぜ、時子の好む半熟にするまで、時臣のこのオムライスの手の込みようは半端ではなかった。そんなとろけそうな顔をして喜んでもらえたのなら、作り手冥利に尽きるというもの。それも相手が時子なのだから、時臣の普段父として振る舞う為に引き締めている口角も、緩むというものだ。
そうして、殺し合いの只中にいるという事は、少しの間だけ棚に上げて。
時子と時臣はテーブルで向かい合いながら、束の間のゆったりとした一時を過ごしていた。







本当に久々すぎる更新………。
この時子の最後の方の口調が砕けているのは、時臣と2人きりになるとつい気が弛んで口調が軽いものになるからです。時臣は時臣で姉にかっこいいところ見せたいと口調は普段と変わらないのですが、やっぱり普段家族の前にいるのと違って気が弛んで、雰囲気と表情は柔らかくなっています。
そんな普段葵達にかっこつけたい良いかっこしいな遠坂姉弟の、気の抜けた朝の一時でした。





2014.3.13 更新