短編 | ナノ


ファレノプシスの微睡み



ぱちぱちと、遠くで何かが爆ぜる音がする。
でも周りを見渡そうにも、もう体が重くて重くて、指でさえも満足に動きそうにない。
辺りは真っ赤で、色んな所から助けて、助けてって声が聞こえていた。
今はもう聞こえない。きっと死んでしまったんだろう。
ごめんね。でも、私には無理なんだよ。だって、体の半分が建物の下に埋まってるんだもの。
息をするのも苦しい。もういやだよ。どうせ助からないのなら、せめて一秒でも早く、私を……………。

不意に、体にかかっていた重みが消えた。

「おい! おい、生きているか」

抱き起されて軽くゆすられて、ゆっくりと瞼を開ける。
最初に目に映ったのは、真っ赤な外套。そして、広い肩に見合った、がっしりとした体躯。
男の人だ、と思うと同時に、ぽたりと頬に水が落ちた。
たった一滴でも、熱くて熱くてたまらない体には酷く心地良い。見上げると、その男の人が、静かに泣いていた。
真白い髪のその人は、眉を情けなく下げて、涙を流しながら、とても嬉しそうな、ほっとしたような笑みを浮かべていた。
良かった、と。私を抱きしめてうわ言のように何度も呟く彼を見て、私も良かったと思った。
救われたのは私なのに、まるで彼の方が救われたのではないかと思わせるくらい、嬉しそうな笑顔。
それを見れたのが私で良かったと、彼の体温を感じながら、ぼんやりと、そう思った。








ガチャリ、と玄関の鍵を開ける音がして、それを合図とするように意識が浮上する。
ソファーから起き上がると、自分に掛けていたタオルケットが落ちそうになって、慌てて掴んで足に掛け直す。
あの時足に負った怪我は、酷いケロイド状になっていて、なるべくあの人には見られたくない。
半分だけ起こした体をリビングの扉に向けて、そこが開かれ、待ちわびた白い頭が見えて、口を開く。

「お帰りなさい、シロー」

居るとは思わなかったんだろう。驚いたように目を見開いたシローに、ゆっくりと微笑みかける。
暫く呆気にとられた顔をしていたシローはやがて困ったように、ふぅ、吐息を吐いた。

「起こしてしまったか」
「ううん、いいの。シロー、今日帰ってくるって言ってたから、すぐに顔見れて嬉しい」

素直な気持ちを言っただけなのに、シローは何か言いたそうな顔そして、まあ良いかと肩をすくめた。
いつもの外套を脱ぎながらこちらに近づいてきて、私の頭をくしゃりと撫でた。

「飯は食べたか?」
「うん。心配しないで」
「馬鹿。しない方が無理だ」

シローはちょっと怒った風に言うと、キッチンに行って流しに食器が置いてあるのを確認して、また戻ってきた。

「来い」

シローの言葉に、私のいるソファーの下から、うにょうにょ動きながら水銀の塊が這い出てきた。
ヴォールメンなんちゃらとか言うそれは、昔シローがとけーとーの凄い先生から譲り受けたらしい。
この子のお陰で、歩く事が出来ない私も、この家を自由に移動する事が出来る。
シローはそれを試験管に戻すと、私をタオルケットごと抱き上げて寝室へ向かう。さっさと寝てしまえという事らしい。

「シロー、今回はどのくらいの間ここにいるの?」
「さあな。長くて一週間だ」
「そっかぁ」

という事は、いつも通り短くて明日の朝には行ってしまう事もあるわけだ。
正義の味方を目指しているらしいシローは、あの時の私のような人間を助けるために色々な紛争地帯に頻繁に赴いている。
家族もお金も無くしてしまった私をこうして引き取ったのも、ひとえにその正義感故だろう。
あの時のシローに助けられた私は、目が覚めると近くの地域の病院にいた。その時そこのドクターに、足に建物が乗ったせいで神経がやられてしまって、もう2度と歩けないのだと告げられた。
私はそれについて特に何も感じなかったのだけど、後に私を見舞いに来たシローは違ったらしい。
自分の責任だから一生面倒を見る、なんて真顔で言われた時はさすがに度肝を抜かれて、しかもその目には下心が一切なかったんだから、思わず彼の人の成りを疑った。
こいつ馬鹿なんじゃないのか、と思ったけど、実際本当に馬鹿だった。けれど、それでもシローは真剣な顔をして一歩も引かなかったから、結局私が折れた。
事実本当に下心は無かったらしく、シローに引き取られてから手を出されることはおろか、そういう雰囲気になったことも未だなかった。

退院してから、シローは本当に私を引き取って自宅に連れ帰った。
それからシローがどこかに出かけるたびにヴォールメンなんちゃらで私が自由に移動できるようにしてくれたり、ここに帰っている間は、ずっと私の傍にいてくれる。………気付けば、あっという間に絆されていた。

――――けど、シローが私にここまで優しくしてくれるのは、何も私が特別だからじゃない。
シローは、誰にでも優しい。もしあそこにいたのがあたしじゃなくて別の誰かでも、シローは戸惑う事無く私にしたのと同じように助けて、面倒を見てくれるだろう。
私にとってシローは掛け替えのない人だけど、シローにとっては、今まで助けてきた大勢の中の1人に過ぎないのだ。
それはとても悔しい事だけど、同時に誰にだって手を差し出せずにはいられない、シローのそんなところも大好きなのだから、始末に負えない。

「ねえシロー。1つ、わがまま言ってもいい?」
「ん、どうした? 何か欲しい物でも?」
「ううん。そうじゃなくて、私が眠るまで……手、握っていてくれる?」
「何だ、そんな事か。お安い御用だよ、はづみ」

ベッドの上に寝かされた状態で枕元の椅子に座っているシローを見上げて言うと、シローは薄く微笑んで、私の手を取ってそっと握った。
暑い皮に覆われて、少しかさついている大きな手が、見た目とは裏腹に繊細な手つきで私の手の甲を撫でるのに、なんだか可笑しくなって少し笑う。

「? どうしたはづみ」
「何でもないよ。それより、ちゃんと手を握っていてよね、シロー」
「解った解った。了解した以上、ちゃんと握っているよ」

だから、安心して眠りなさいというようにシローの空いた手で額を撫でられて、気持ちよくて目を細める。

「さあ、お休み、はづみ」
「………うん。おやすみなさい、シロー」

シローの声は、低くて甘くて、聞いてて心地いい。
この声は、まだ私だけのものではなくて、誰のものでもないものだけど。
いつか絶対、私のものにしてみせる。そしてできれば、彼に私が感じたような幸せを与えられるようになれば良い。
それが、今の私の目標である。
まあそれでも。今のままでも私は十分幸せなので。取り敢えず、シローを幸せにすることを第一目標にしている。
覚悟してろよ、とばかりにべーっと舌を出すと、不思議そうに顔を傾げられる。
それににししとちょっと楽しくなって笑うと、さらに不思議そうになるシローの手を握り返してありがとう、おやすみ。とだけ告げた。
そうしてシローに優しく頭を撫でられながら、私は溢れそうな幸せの中で、ゆっくりと眠りに落ちていった。









2013.12.4 更新