短編 | ナノ


近くて遠い3メートル



僕にとって、桃果こそが全てだった。他に何もいらないし、実際いると思った事なんて一度もない。
だから、この目の前にいる女性とも、ただの気まぐれみたいなもので出来ている関係であって、決してそこに愛なんてものは存在しない。
彼女の顔がほころぶところも、フルーツタルトを美味しそうに食べるところも、別に何とも思っていないし、見ていても何の感慨も浮かばない。
だから、例え彼女が目の前で死んだとしても、きっと何も感じない。
そうでなければ、いけない。



「結婚するんだ」

唐突に話の口火を切った僕に、彼女は驚いたように目を見開いて僕を見た。
丁度、彼女は好物のフルーツタルトの最後の一口をフォークで刺そうとしていたところで、呆然と僕を見つめている彼女の意識から外れたタルトは、ぼとっと無様に皿の上に落下した。
ざまあみろ、と。何と無く思いながらそれを見つめる。

“結婚しよう”ではなく、“結婚する”といった僕に戸惑いを隠せていない彼女を努めて冷めた目で見て、テーブルに置かれた食べかけのカレーの皿をちらりと見た。
毎月20日はカレーの日。
何時だったか彼女にそう洩らしてから、彼女は毎月その日に僕を夕食に誘い、一緒にカレーを食べるようになった。
僕は野菜カレーを、彼女はシーフードを。
毎月一緒に食べながら、彼女は何の変哲もない話題を僕に持ちかけてくる。
それは出てきた料理を美味しいですね、と言うところから始まり、自分の近状を話し、それから僕の最近の事を聞きたがる。僕はそれに言葉少なに応えながら黙々とカレーを食べるだけだけど、それでも彼女は幸せそうににこにこと笑っていた。
デザートはいつも僕はモンブラン、彼女はフルーツタルト。この間は桂樹さんのベストオブモンブランのお店だったから、今回はわたしのベストオブフルーツタルトのお店ですよ、と先週電話口で楽しそうに話していた彼女は、今はあの能天気な笑みを引っ込めて、ただただ驚いたように僕を見つめていた。
僕と彼女の関係は、一口に言えば恋人だ。
だのにそんな事を言われて、彼女は随分と度肝を抜かれた事だろう。

「け――桂樹さん、それは、どういう」
「どうって、そのままの意味さ。僕は君を好きじゃない。それを前提にしてでのこの関係だっただろう。なにも不思議な事じゃない。
なら、君は僕が君以外の誰と結婚したって、咎める権利は無いんじゃないのかい」

淡々と冷めた口調で告げれば、彼女は何も言えなくなったのか、ただ押し黙って瞳を揺らめかせた。
彼女との関係は、通常の恋人とは大きく違う。何故ならば、僕は彼女の事が好きではないからだ。
一年ほど前に告白された時、僕は君を好きじゃないと言った。そうしたら、それで良いんですと言われた。にこにこと能天気な笑みを浮かべて、それでもあなたと二人で過ごしたいと言った彼女を見て、何故か僕は言葉にし難い気持ちにかられた。
ここで僕が彼女の言葉を断ったら、いつか彼女は他の男にも、同じような事を言うのだろうか。
それは、そんなのは――駄目だ。
だから、僕は彼女を好きじゃないという大前提で、僕は彼女と付き合う事を了承した。
だから、彼女との関係に、愛なんて微塵も、ない。

「君ではなく、他に好きな人が出来た。だから僕はその人と結婚するし、君との関係もここで終わりだ」
「そ………」

何かを言いかけた彼女は、ぐっと唇を噛んで俯いた。けど、泣くかと思ったら次の瞬間にはもう顔を上げて、へにゃ、といつもの能天気な笑顔を僕に向けた。
その唇が僅かながらに小刻みに触れているのを見止めて、今度は僕の方が唇をかんだ。
どうしてこの人は、いつもいつも、自分に本当の気持ちを話さない。僕の事が好きだと言っておきながら、彼女は僕に自分自身の事を話したりしない。普通、僕の事が好きなら、僕に己の事を知ってほしいとか、そういう事を考えるものなんじゃないのか。
それなのに……嗚呼何で、僕は彼女の事ばかり考えているんだろう。

「……話はそれだけだよ。じゃあ」
「っ、ぁ、桂樹さん!!」

財布から紙幣を何杯か抜き取ってテーブルを叩きつけ、そう小さく囁くように告げると、踵を返して歩き出す。それにようやく焦ったような顔を見せた彼女を、ちらりとも見ずに背を向ける。

「桂樹さん。待って、桂樹さん!!」

勢いよく立ち上がろうとした彼女が、そこで小さく悲鳴を上げた。馬鹿だな、足が悪いくせに、無理をするから。
反射的に立ち止まりそうになった足を、無理矢理に動かして店に出口に向かう。ここまで大騒ぎしたんだ。店員にも顔を覚えられているだろうから、この店にはもう来れない。

「桂樹さん」

後ろで彼女に名前を呼ばれて、それを無視して足を進める。レジの前を通り過ぎて、あと少しで出口に扉にたどりつく頃に、それは僕の耳を打った。

「ならその人と、どうか幸せに」

そう言った彼女の声は、時たま僕に囁く愛と同じくらい、無償の愛で満ちていた。






(その時僕が抱いた感情を認める事が出来たのは)(まだずっと先の話)





生戦様に提出。
ありがとうございました!



2012.2.25 更新