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「カナ!」

腹の底から叫んだ彼女の名前に、カナはゆっくりとこちらを振り向いた。虚な瞳がはっきりとオレを捉える。オレンジ色の光に照らされたそれらは、濡れたように黒々と艶めいていた。その奥には柔らかさと懐かしさがほのかに感じられる。
カナだ。間違いなくカナだ。

「カナ!」

オレはもう一度、彼女の名前を呼ぶ。するとカナは、オレを映した瞳を目をこれでもかというくらいに見開き、固まったように動かなくなってしまった。

「あれ、あれ……?!」

慌てて口元を両手で覆い、丸い目をさらに丸くしてオレ達を見つめる。

「私とカカシさんが……?!」

そう言った次の瞬間、カナの目の焦点が崩れ、身体がぐらりと揺れた。驚のあまり、気を失いそうになったようだった。バランスを崩し、彼女の身体はゆっくりと後方へと重心が崩れていく。

──まずい、倒れる!

このままでは彼女は後頭部から地面に倒れてしまう。その前に前に間に合うか。オレはユニフォームの入った紙袋をパッと手から離し、足の裏にチャクラを全集中させた。それから車からの人目も忘れてカナのところまで一気にすっ飛ぶ。
両腕をめいっぱい脇の付け根から伸ばすと、指の先がわずかにカナに触れた。そして服に引っ掛けるように曲げると、思い切り自分の方へ引き寄せる。その間、呼吸すら惜しいほどに夢中だった。

「……ふぅ、なんとか間に合ったな」

一息ついた時にはカナはもう、オレの腕の中だった。気を失ってしまったのか、全身の力が抜けたようにくたっとしている。彼女を落とさないよう体勢を整え、一度抱き抱え直すとまじまじとその顔を見つめた。
流れるようにさらりと重力に従う髪、緩やかなカーブを描く睫毛、緩く結ばれた唇、そして服越しに感じる体温。全てカナだった。あちらの世界で、毎日想い続けていたものと何一つ違わなかった。
彼女の身体は意識を失っていつもより重たく感じるはずなのに、今は人形のように軽く感じた。
まだ夢の中にいるようだった。心臓と脳が異常に興奮して、全身が脈打つような感覚に苛まれていた。

「ちょっとカカシさん!ひとことくらい言ってくれても……」

腕に重力が戻ったのは、後方から息の上がった声でもう一人のカナから呼びかけられた時だった。カナを転倒させまいと、彼女を置いてけぼりにしてしまっていたようだ。

「すまない、頭を打ってはいけないとつい……」
「全然、いいんですけど……私は……無事ですか……?」

オレが先程捨てた紙袋を左手に持って、肩で息をしながら彼女は尋ねる。オレはそれに、「あぁ、なんとか」と満面の笑みで返した。

「よかった……これでカカシさんも、もう一人の私も……」
「そうだな。早く家へ戻ってカナを起こさないと」

身体の向きを今来た方へくるりと向け直す。歩きやすいように、少しカナを持ち上げてお姫様抱っこの形へと抱き直し、ゆっくりと歩き出した。
ふと、初めて会った日のことを思い出す。
あの日もオレの部屋から火影様へ謁見のために、靴のないカナをこうして抱えていった。あの時はただの得体の知れない女だったのに、いつの間にかこうして大切な存在になるなんて。人生はどこで何があるか本当にわからないものだ。
カナも隣で心配そうにもう一人の自分の寝顔を見つめていた。
急に車の流れが途切れて、夏の夜の静寂が訪れる。時折湿気を含んでむっとするようなぬるい風が吹いて、橋の下から夏の虫の声がチロチロと聞こえていた。


ゆっくり歩いて来た道を戻ると、十分ほどでカナのアパートに戻って来れた。もう一人の彼女にカナのポケットの中を探してもらい、あった鍵でオートロックを解除し、部屋のほうまで入る。

「わぁ、数ヶ月ぶりの自宅です……」

そう言いながら彼女が部屋の鍵を開けると、そこには分身のオレの記憶の中で見た光景とほぼ一緒の玄関が広がっていた。明かりがついていないせいか室内は暗く、廊下の奥にある部屋は見えない。
先にカナが部屋に上がり、玄関、廊下、リビングとテンポよく電気を点けてそそくさと玄関まで戻ってくる。それから、両手が塞がっているオレのためにドアを手で押さえ、中へ招き入れてくれた。
入るなり、鼻腔へ清潔な香りが侵入してくる。オレの家のカナの部屋とはまた少し違う匂いだった。その香りの終わりにはカナ自身が持つ匂いを含んでいて、どこか懐かしい気がした。
玄関先で蹴飛ばすように靴を脱ぎ捨てると、キッチンのある廊下を通って奥のリビングへと入っていく。
分身の記憶とまるで同じ光景だった。違うのは以前より綺麗に片付いているという点くらいか。
オレは足元に気をつけながら、部屋の奥へ進んでいく。そして、左の壁沿いにあるベッドへとゆっくりカナを下ろした。起きる気配はなく、わずかに胸が上下している。まだ意識が戻るのにしばらくかかりそうだ。
ふと、ベランダへ出る窓のカーテンが少し空いているのが目に入る。隙間から、遠くに白くなりかけた月が覗いていた。もうほとんど食の終わりに近いようだ。ギリギリ間に合ってよかったと思った。

不意に頬へ冷たい風が当たった。風の方向を見ると、つきっぱなしのエアコンがあった。見上げると、顔面へともろに風を受ける形になり、少し黴びた臭いが鼻をかすめる。
すると、オレは急に目の前にカナがいることが現実に感じられるようになった。
そして、全身の感覚が蘇るような心地がした。
急に首筋や背中に不快感を覚えて手で触ってみると、じっとりと指先が濡れた。汗をかいていた。蒸し暑い暗闇を、カナを抱き抱えて歩いて来たからだろうか。それをたった今気づかされたのだった。

「まさかオレが本当にこっちに来ちゃうとはね」

オレは濡れた指先をまじまじと見つめながら呟いた。
「今更ですか?」ともう一人のカナは呆れたように言う。ついでに持っていてくれた紙袋を手渡された。

「実感湧かないじゃない。いきなり転送されて、違う世界に来ましたー、って言われてもさぁ」
「まぁそうですよね。気持ちは痛いほどわかります」
「そういやキミも同じだったな」

オレは袋から清潔なハンカチを取り出して汗を拭った。薄手のそれは、すぐに全体が湿り気を帯び、汗を吸い取らなくなった。仕方がないので、袋を適当な場所に置いて、冷たい風を全身に浴びせる様にエアコンの直下へと移動した。

「でも、本当によくあの場所だってわかりましたね。私ですら思いつきませんでした」
「だから言ったろ、オレの勘は当たるって」

オレはふふ、と文字通り声に出して自然と笑った。つられて彼女も同じように笑う。オレも彼女も心底ホッとしていた。それと同時に、どこか寂しくもあった。
カナであるのにカナでない、そして少しだけオレに冷たかった彼女がこうして微笑みかけてくれるようになるまで心の距離が近づけたというのに、もう二度と会えなくなるなんて。嘘のようだった。
たった数週間しか共に過ごさなかったが、心は共に任務遂行を目指す戦友くらいの気持ちでいた。彼女はどう思っているか知らないが、少なくともオレはそんなつもりでいた。顔は同じなのに、恋愛感情とは違う、別の次元で彼女を慕っていた。それ故、どうしてかもう少しこのまま話していたいような気もした。

「そうだ、何か冷たいものでも飲みますか?私を担いで汗かいたでしょう」
「あぁ、貰おうかな。アルコールは御免だけど」
「そんな、もう一人の私は私と違ってきちんとしてますから麦茶くらいありますよ」

戦友は、「ほら」と嬉しそうに麦茶のパックを入れた透明なプラスチック製のポットを持ってニヤリと笑う。こんなに無邪気な表情をこのタイミングで見せるなんて、ずるい奴だと思った。オレは悲しくなりながら、「本当だ」と呟いた。
麦茶はまだ色が浅く、ついさっきポットにティーパックを入れたようだった。
カナはシンク上の棚から慣れた手つきで透明な切子グラスを取り出すと、トプトプと音を立てて麦茶をグラスへ並々と注ぎ入れた。彼女がそうすると、まるでブランデーかウイスキーを注いでいるようだった。
はい、と渡されてグラスを受け取ると、ガラス越しに掌をお茶がキンと冷やした。口の方へもっていくと、当たり前に麦茶の香りがする。そのままゴクゴクと流し込んだ。冷たい液体がツーと喉を伝い、身体を内側から冷やしていく。液体が内臓の形に流れていき、胃の形がわかるようだった。
半分ほど飲んで、オレはそのままベッドに横たえられたカナの腰の横あたりへと腰を下ろした。
すぐそばに、ずっと探し求めていたカナがいる。ゆっくりと上下している胸と、その安らかな寝顔に胸の奥がじんわり温かくなった。そうなると、次は彼女に触れたくなる。
オレはあいていた左手で下から掬うように彼女の左手をそっと握ると、自分の膝の上へと持ってきた。そして、その手の感触を確かめるために親指で円を描くようにして手の甲をさする。懐かしい感触だった。
薄くて、女らしい掌。それでいて柔らかい。よく見ると、細い指先は少しささくれが出来ていた。
愛おしいなぁ──そんなことを思いながら再びグラスに口をつけると、グラスの底からぽたりと一粒、水滴が落ちた。いつの間にかグラスが汗をかいていて、その滴だった。
滴は真っ直ぐに下に落ちていき、白いカナの指へと落ちた。丁度薬指と小指の間あたりだった。
濡らしてしまったと急いで手をほどき、水滴を指で拭う。すると──

「……ん、」
「──カナ?!」

カナの身体がピクリと動いた。それからゆっくりとまぶたが開き、艶のある瞳が真っ直ぐに天井を捉える。

「カナ?!カナ、大丈夫か?」

グラスをベッド前のローテーブルに置き、両手で彼女の左手を握りながらそう呼びかけると、カナはゆっくりとオレの方を向いた。そして、ぱちりと目が合った。

「……カカシ……さん……?」

カナはそう言って、二つほど瞬きをすると、また目の焦点が合わなくなりかけた。オレはここで再び意識を失われては困ると、「落ち着くんだ、カナ」と呼びかけ、濡れた右手でほっぺたをキュッとつねった。
すると、カナはぱちぱちと瞬きをして、正気を取り戻した。

「……い、いひゃいです」
「もう眠りの姫ごっこはおしまいだよ」

優しいトーンでそう言って、彼女の頬から手を離す。カナはしばらく不思議そうにオレを見て、「これは夢ですか?」と自問する様にオレに尋ねた。

「夢じゃないさ。これは現実だ。それにオレは分身でもない」
「それに、私もいるよ」

ベッドの足元に立っていたもう一人のカナが、小さく手を振りながら言った。自分と同じ声に驚いてカナはベッドからガバッと起き上がると、オレともう一人の自分を交互に見て目を回していた。訳がわからないのだろう。無理もない。

「カナ、混乱してるだろうが、とりあえず落ち着いて話を聞いてくれ。もうここにいられる時間もそれほど残っていないんだ」
「……落ち着いてって言われましても……私はもう何がなんだか……」

カナがヘロヘロになっていると、もう一人のカナがきっぱりとした声で「じゃあ、混乱したままでいいので一旦最後まで話を聞いてください」と言った。彼女の声を火影様の前で初めて聞い時のような、とても通る声だった。

「実際会うのは初めまして。私はもう一人のあなたです」

彼女はあの淡々とした口調で、混乱するもう一人の自分に一から十まで説明してみせた。とても話の筋道が通っていて、まるで学校の先生のような語り口だった。それを、まだ寝ぼけているような顔でカナがぽけっと聞いている。思わず見ていて笑いそうになった。
凛とした彼女の声にオレも襟を正さなければいけないような気持ちになり、ベッドから腰を上げ、彼女達の方を向くようにして立った。背筋は真っ直ぐに保っていなければならないような気がしていた。

彼女の話が一通り終わると、カナは全て合点がいったというような顔をしていた。深くうなづき、こちらへ帰ってきてからの事や、オレ達が最初家に来たあたりの自分の行動をざっくりと話してくれた。
驚くことに、オレ達が最初来た時、彼女は家にいたのだという。

「まさか家にいたのに寝てて気付かなかったとはね……」

オレと、先程まで先生のようにピシッとしていたカナはがっくりと項垂れた。焦って探し回ったのがアホみたいだ。

「すみません……」
「まぁ見つかったからいいさ。で、いつ起きたの?」
「つい三十分くらい前で……」
「じゃあオレ達がカナの職場の前を出てきたくらいってとこかな」
「もっとインターホンを連打するべきだったわ……」
「本当にすみませんでした……」

カナがしょんぼりとした顔で謝ると、部屋の中に沈黙が訪れる。別に怒っている訳ではなかった。この目の前で、向こうの世界でしていたのと同じように謝っている彼女の姿をしみじみと懐かしんでいた。しかし、もう一人の彼女は違っていたようで。

「ふ……ふふ!あはは……!」

突然、漏れ出るような声で笑い出したのだ。

「どうした、急に」
「なんだかホッとしちゃって。心の底から良かった、って思ったら笑えてきちゃいました。それに、寝てて気付かなかったなんて、私も逆の立場だったらやりそうだなぁって思って」

彼女はそう言って、口元に美しいカーブを描く。満ち足りた表情だった。

「本当に良かった。途中はとても大変だったけど、無事にお互いあるべき場所へ戻ることが出来るんだから」
「……ごめんなさい、本当に」
「謝らないでよ。向こうのホテル暮らしも悪くなかったし、色々あなたのおかげで気づかせて貰ったこともあったし」
「……え?」
「失礼とは思うけど、今まであなたより私の人生の方が正直マシくらいに思ってた。けど、今はあなたがとっても羨ましい」

そして、こちらへ近づいてそっとカナの手を取った。

「だから、これからはもう、『もう一人の自分になれたら』なんて思わないで。そばにあなたを心から愛してくれる人がいるんだから、その人のそばから離れるようなことは絶対にしちゃダメよ」

諭すような声だった。優しい母親のような、いや、歳が同じなのだからどちらかと言えば姉だろうか。見たことがないくらい穏やかで美しい表情で、もう一人の自分の左手を両手で包んでそう言った。

「幸せになってね」
「ありがとう……ございます……」

泣き出しそうな顔でカナは笑う。彼女らしいな、とその懐かしい表情に胸の奥が摘まれたように痛くなった。

「とてつもない迷惑をかけたのにそんな風に言ってもらえるなんて……」
「私はあなたなんだから、迷惑も何もないわ。さ、とりあえずはあなたもあるべきところへ帰りましょ」

彼女はからりと言うと、カナの手をそっと元に戻した。
それから再び明るくカナに微笑みかける。

「彼女の言う通りだ。しんみりしてる暇はないよ。あと30分で食の終わりだ。名残惜しいのはわかるが、そろそろ帰る準備をしないと」
「そうですね……。でも、私が本当は向こうの人だったなんて、やっぱり信じられません……まだ夢を見てるんじゃないかとしか思えなくて……」

カナは両手を自分に向かってパッと開き、まじまじと掌を眺めていた。オレはベッドサイドにしゃがみ込むと、彼女の左手に右手をそっと手を伸ばし、ギュッと握りしめる。
 
「そりゃオレも信じられないさ。でも事実を知った時、オレはとっても嬉しかった。夢かと思うほどにね」
「カカシさん……」

彼女の視線がゆっくりとオレに向けられる。潤んだ瞳と目が合うと、オレの心はあっという間にその瞳の向こうに吸い込まれるような心地がした。鳩尾のあたりから熱が込み上げてきて、その熱に浮かされて思わず抱きしめそうになる。
けれど、しそうになっただけで、実際はしなかった。横からもう一つの視線を感じていたからだ。

「こらこら、イチャイチャするのは向こうの世界に帰ってからにしてください。さっさと荷物まとめないと時間になっちゃいますよ」

それは羨望や嫉妬と言うより、見守るような温かな視線だった。だからこそ、余計にここで抱きしめるのを躊躇った。好意的な眼差しがとても恥ずかしく感じさせた。
カナも咄嗟に「ごめんなさい……」と謝罪した。きっと彼女は責めてるわけじゃないんだけどなぁ、とオレはフォローを入れる。

「あの子、あぁいう言い方だけど本当は優しい子だから。今のも別に怒ってないからきっと大丈夫だよ」
「ちょっと、カカシさん!なに余計なこと言ってるんですか?!」
「あはは!すまんすまん」

もう一人のカナは、少しだけしかめっ面をした後、フッと表情を和らげた。仕方ないなぁ、そんな風に言っているように見えた。


気を使って風呂場の脱衣所で木ノ葉のユニフォームへと着替え直すと、部屋の中央のローテーブルを端にやって三人が向かい合って立てるスペースを作った。
同じなのに、どこか違うように見える二つの顔。そして、それぞれ芯のあるような、それでいて柔らかさのある瞳が見つめ合い微笑む。それを見て、これまでのことが走馬灯のように浮かんできた。
初めて出会った時のカナの泣き顔、オレで良かったと言った時の笑顔、最後の夜のカナの無理矢理な笑顔。それから、初めてもう一人のカナを見た時の心を激しく揺さぶられるような衝撃も。
全て、今までのことは今日のためにあった。この日のために。そして、これからの未来のために。根拠なんてどこにもないけれど、なんとなくそう感じていた。

「それでは、これより貴方達を元の世界に返します。二人とも、私と手を繋いで目を閉じてください」

強く、はっきりとした彼女の声に従い、オレとカナは三人で手を取り合う。

「カカシさん、今までありがとうございました。最初は意地悪してすいませんでした」
「もう過ぎたことだ、気にしてないさ。一緒にカナを探してくれてありがとう。そして、こうして元の世界へ返してくれてありがとう。キミのことは一生忘れない」

オレは彼女の手を握る左手の力を少しだけ強めた。

「……これまでのことと、カカシさんのことは一生忘れません。本当にお世話になりました。私も、いろいろと大切なことを教えてくれてありがとう。これからもよろしくね」
「そんな、私は何も……でも、今度会えた時はもう少しゆっくりお話したいので、よろしくお願いしますね」

三人の間に、甘く、穏やかな静寂が流れる。夜だというのに、それを感じさせないほど部屋の中は明るかった。
もう二度と会えないというのに、三人の間には悲しみの色がなかった。まるで、またすぐに会える日が来るみたいに。

「二人ともお幸せに。いつか、また」  

彼女の言う『いつか』はきっと来ないだろう。カナはもう一人の自分に会えたとしても、オレにはその力はない。そう分かってはいたが、オレは「……あぁ、またな」と微笑み返した。
最後は笑っていたかった。悲しい記憶で終わらないように。彼女の記憶の中では笑顔の戦友でいられるように、と。

オレは彼女達の幸せそうな表情を目の奥に焼き付けると、ゆっくりとまぶたを下ろした。世界は闇に包まれ、あるのは二人のあたたかくて薄い手の感触と、静かすぎて耳鳴りがしそうな静寂の中に聞こえる二人の息遣いとエアコンの風の音だけだった。
数秒その深閑の中で神経を研ぎ澄ませていると、「いきます」と戦友が凛々しい声で合図をした。オレはいつの間にか口内に溜まっていた唾をごくりと飲み込む。
もうこれで、この世界には二度と来られない。こちらの世界のカナとも二度と会えない。そう思うと、やっぱりどこか寂しくなるのだった。
そして彼女はカウントダウンを始める。

「さん、に、……」

オレはキュッと彼女達の手を握る掌の力を強め、心の中で戦友へ『ありがとう』を呟いた。きっと、彼女になら伝わる──そう信じて。

「……いち」

そして、その声が聞こえた瞬間、オレの意識は無になった。


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