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気がつくと、見知らぬ真っ白な天井が目の前に広がっていた。
ここはどこなのか、どうしてここにいるのか、よく思い出せない。
数秒ぼーっとそのまま天井を見つめ、ゆっくり上半身を起こすと、自分がベッドの上にいることに気がついた。そして、その周りを清潔さの象徴のような淡い水色のカーテンが取り囲んでいた。
ここは病院だろうか──それにしては周囲はとてもしんとしていて、病院特有の薬品の匂いもしない。
私はキョロキョロとベッドの下を確認して自分の靴を見つけると、ゆっくり足を下ろして靴を履いた。それからベッドを降り、カーテンの繋ぎ目を探す。
一箇所、上から下まで絹糸のような一筋の光の線が通っているのが見えた。線の周りはあまりの光量の強さににぼうっと滲んでいる。私はそこへそっと右手の指を差し入れ、右へと滑らせた。カーテンが開くにつれて、強い白色の光線が私に向かってたっぷり注いだ。あまりの眩しさに思わず眉間に皺を寄せ、目を細める。

「しののめさん、気づかれましたか?」

それと同時に、とても優しい声で呼びかけられた。
明るさに目が慣れると、次第に端の方から視界が鮮明になっていく。
光の向こうには、保健室のような光景が広がっていた。
テナントオフィス一部屋分くらいの広さの部屋の中央に、四人掛けの横長デスクが二つほど向かい合わせにつけられている。そして、そこで白衣を纏った女性と男性二人の合計三人が間隔をあけて何やら事務仕事をしているようだった。男性はスーツを着ている。
今し方声をかけてくれたのはこの女性らしい。少しクセのある長い黒髪を下ろした、落ち着いた雰囲気の女性だった。

「あの……ここは、」
「ここは救護室です。利用されたことはないですか?」
「救護室……ですか、」

どうも職場のビルの救護室らしかった。
こんな場所があるなんて、入社してからしばらく経つのに知らなかったとただただ驚く。

「普段は来ないですもんね。びっくりしちゃいますよね」

彼女は呆然と立ち尽くす私に「ベッドに座っていいですよ」と優しく微笑みながら何かを手にとると、席を立った。私は言われるがまま、すぐ後ろのベッドに腰を下ろす。
女性はこちらへゆっくり歩み寄ってくると、カーテンをもう少しだけ開いて「一度熱だけ計測をお願いします」と体温計を差し出した。学生時代、保健室へお世話になった時のことをなんとなく思い出して、懐かしい気分になる。
状況がよく分からないまま言われた通りに熱を測ると、平熱だった。

「うん、熱は大丈夫そうですね。よかったです」
「すいません、どうして私はここに……」

ようやく聞けそうな雰囲気になったので、体温計を返しながらそう尋ねると、彼女は心配そうな表情で言った。

「事務所で仕事をされている時に過呼吸になって、意識はあるのに座り込んだままぼーっと動かなくなっちゃったみたいでして。他の方に肩を借りながらここまでいらっしゃってたんですが……覚えてらっしゃらないですか?」
「……はい」

全く覚えがなかった。
私の記憶はまるで、そこの場面を丁寧に切り取ったかのように抜け落ちていた。意識があったなんて、嘘じゃないかと思うくらいに。

「そうですか……ベッドに入るまでは確かに目を開けていたのですが……。どこか具合が悪いところとか、気分が悪いとかはありませんか?」
「いえ、特には……」
「それじゃあ、睡眠とかは近頃きちんと取れてますか?」
「はい、」
「悩みとかはないですか?例えば仕事でうまく行っていないとか、悲しいことがあったとか、誰にも言えない悩みがあるとか……」

悲しいこと──そう言われた時、カカシさんの顔がぱっと浮かんで、胸にざっくりと切りつけられたような感覚がした。それから胃と喉の間でモヤモヤとした何かが対流を起こし、声がうまく出せなくなる。
やっとの思いで「多少は……」と捻り出すと、女性は「あんまり無理しないでくださいね」と穏やかな表情で言った。
聖母みたいだな、と思った。ベッドをぐるりと囲むカーテンの隙間に立った彼女の背後からはスッと光が差して、身体の輪郭を後光のように照らし出していた。聖母なんて絵でもきちんと見たことなどなかったけれど、不思議とその時はそう思った。
だからか、私はすっかり安心して、少し前に感じた異変を初対面の彼女にペラペラと喋り出していた。

「そういえば私、意識を失う少し前からおかしかったんです。先輩の名前がわからなくなったり、仕事のやり方をまるで忘れてしまったみたいで思い出せなくて……そうしたらパニックみたいになって、頭が真っ白になって、急に意識がなくなって……」
「そうでしたか……」

女性は私の前にしゃがむと、膝の上に置いていた両手をそっと包むように握ってくれた。掌はとても暖かくて、柔らかかった。その温もりに、また優しく微笑むカカシさんが脳裏に過ぎる。

「連休明けで自律神経が乱れているだけかもしれませんが、もしかするとしののめさんは少し心のお休みが必要なのかもしれませんね。今日はお仕事に影響がなければこのままお休みするか、病院で診てもらうのもいいと思いますよ」
「病院……」
「強いストレス状態にさらされて、過呼吸になって倒れちゃう方って結構いらっしゃるんです。でも、案外ご本人はそれに気づいてなかったりして、そのまま頑張れない限界を超えてしまうこともあるので、おかしいと思ったら少し大げさでも休んだ方がいい時もあるんですよ」

彼女は私を見上げて言った。
その眼差しはとても柔らかく、私が大人でなければ彼女にいますぐ泣きつきたいくらいだった。
私は多分、そのくらいに心がズタズタだった。瞬きをすれば暗闇の中にチラチラとカカシさんの姿がコマ送りのように浮かんで、その度に胸に針が突き刺さるような痛みが走った。頭では考えないようにしても身体が自然とカカシさんを思い出すように働いてしまい、苦しかった。まるで心と体が分離してしまったみたいに歯止めが利かなくなっていた。

「何があったのかはわかりませんが、頑張らない、無理しないことっていうのも大切ですよ」
「ありがとうございます……」

私は彼女から視線を外し、頭を下げる。
彼女は「気にしないでください」とまた優しい声で言うと、ゆっくりと立ち上がった。

「もう少し休んでいかれますか?」

私はどうしようか考えた。
このままここにいてもただ横になっているだけで解決しないような気がした。休めと言われても、休めば瞼の裏のカカシさんに苦しめられるだけだし、「彼のことを考えないようにしないと」という考えに取り憑かれるだけだ。

「皆さん、先程はご迷惑をおかけしてしまい、申し訳ございませんでした」

私は結局、仕事に戻ること選んだ。
救護室の女性は私が部屋を出るギリギリまで引き止めたが、私は丁寧にそれを断って事務所へ戻った。それから戻るなり謝罪をした。
社員達は私を見るや否やざわつき始めたので、相当大きな騒ぎを起こしてしまったのだろう。恥ずかしくてたまらなかった。
デスクに着くと、先輩が心配そうに声をかけてくれた。先程名前がわからなかった人だ。彼女によれば、私をあの場所まで運んでくれたのは同じ部署の営業社員二人らしかったが、もう二人とも外出してしまったそうで事務所にはいないという。
一言お礼を言いたかったなぁと思いながら、やっぱり誰の名前もわからないことに気づき、私はどんどん血の気が引いていった。
おかしい。明らかにおかしい──

「しののめさん、大丈夫?なんかあったの?」
「あ、先程はどうもすいませんでした……」

おそらく雰囲気からして役職付きであろう年配の男性社員から声をかけられた。
私は席から立ち上がり、深々とお辞儀をして謝罪をする。

「連休明けで気が引けるかもしれないけど、辛いなら大事をとって今日は帰るか、病院に行った方がいいと思うよ?」
「すみません……でももう大丈夫ですから、」
「本当に?顔色もなんか悪いし、今日は本当に無理しないで大丈夫だよ?オレからもみんなには連絡しておくから。業務の引き継ぎだけしてもらって、後はもうみんなに任せて大丈夫だよ」
「申し訳ございません……」
「お互い様だよ、こういうのは。だから気にしないで今日は帰りなさい」
「ありがとうございます……」

この人はきっと部長なのだろう。私は再び深くお辞儀をしてお礼を言うと、席について本日の業務内容を確認した。
しかし。しかしだ。やっぱり何をすべきなのか、どう言う手順で仕事をしていたのかが全く思い出せない。
そもそも、朝にはすんなり打ち込めていたパソコンのログインパスワードすらもう分からなくなっていた。これでは業務を引き継ごうにも引き継げない。
あまりの事態に頭の中が真っ白に飛び、席に座ったまま固まっていると「しののめさん?」と声をかけられる。声のした方を見ると、隣の席の──おそらく後輩だろうか。すごく心配そうな顔で私を見つめていた。

「体調大丈夫ですか?顔色、とっても悪いですよ?」

マスクをしているのに顔色が悪いとは、相当青ざめた顔をしているのだろう。
私は情けなくなる。

「ごめんね……なんか今日、とっても体調がおかしくて……」
「あんまり無理しないでくださいね。さっき部長もおっしゃってましたけど、今日帰られますよね?何かやっておきましょうか?」
「あぁ、ありがとう……お願いしたいのは山々なんだけど……」

私が言葉を濁すと、彼女はとても不思議そうな顔をする。
私は本当のことを言うか言うまいか五秒程考えた後、躊躇いながら、随分と小さな声で彼女へ今朝からの症状を話すことにした。
ここまで酷くなると、もう黙っていられないと観念したのだった。

「私、実はさ、今朝から何したらいいか全然分からなくなっちゃって……」
「……え?」
「信じて貰えないかもしれないんだけど、誰が誰だかも全然分かんなくなっちゃってるんだよね……」
「えぇ?!」

後輩の声に、事務所中の視線が私達へ集まった。
もれなく部長と言われていた先程の男性も席から立ち上がり、「どうした?」と再び声をかけてくる。
すかさず後輩は立ち上がり「業務中にすみません!」と謝罪をするが、少し離れた席からどんどん部長が近づいてくる。
後輩は部長と私を交互に見ながら「部長にお話しても大丈夫ですか?」と口を両手で覆って尋ねた。私は「いいよ」とため息混じりに了承した。あぁ、これは大ごとになるだろうなぁと遠くを見つめて。


結局、その日から私は休職することとなった。
あまりにも突然だったので、事務所内は本当に大騒ぎになった。部長は鳴っている携帯も放置し、進めていた仕事も会議もキャンセルして管理部長と私の机を行ったり来たりしてのてんてこまいで、本当にバタバタと音を立てて動いていた。一方私は引き継ぎすら出来ず、席に座っていても慌てふためく部長を眺めるだけだった。何も出来ないので昼前にあっさり帰された。同じ部署の先輩二人と後輩はとても心配してくれて、「ゆっくり休んでね」と三人とも事務所の出入り口まで見送ってくれた。
名前すら分からなかったが、申し訳なさで胸がいっぱいだった。

会社としてはとりあえず今日明日にでも病院に行って来いとのことだった。休職するにしても、診断書が必要らしい。
診断書、なんて言われると途端に自分が病気になった気がして気が滅入りそうになる。その日は気分が動揺してどうしても病院に行く気にはなれなかったので、翌日行くことにした。それに、一眠りしたら思い出せるんじゃないか──そんな風に考えていた。

しかし、現実はそうも甘くなかった。
病院での診断は、強いストレスによる記憶障害とのことだった。病院では異世界に行ったことやカカシさんのことなんて到底話せるわけもなく、恋人と別れたことにしておいた。
診てくれた先生はとても優しい先生で、私の架空の失恋の話にも「そう言うこともあるでしょう」と頷きながら耳を傾けてくれた。それから「とにかく今はゆっくり過ごしてください」と言われ、あっさり診断書を書いてくれた。一過性だろうとのことで、処方は何もされなかった。
私は言われるがまま、のんびりと家で過ごした。
けれども、一向に記憶は戻らない。先生は「ある日フッと思い出す日が来るからその日までゆっくりしてください」と言っていたが、むしろ、日を追うごとにどんどん記憶が抜け落ちていく一方だった。

「私、どうしちゃったんだろう……」

昼間、カーテンを締め切った部屋で一人、カカシさんと撮った写真と、彼から貰ったピアスを眺める。
この二つがあるということは、確かに彼はいたし、あの世界は実在したと言うことに違いない。
しかし、家の中の物を眺めていると、ふとした時にこれらが本当に自分の物なのか自信がなくなる時があった。
確かに自分の写真や所有している証拠があるのに、その写真を撮った当時の記憶や買った時の記憶が無い。それはまるで、誰かの部屋に代わりに住んでいるような奇妙な感覚だった。
そして、そのうちに両親の記憶すら怪しくなっていった。
週末、たまたま電話をかけたきた母親の声を聞いた時、果たしてこんな声だったか、こんな喋り方だったろうかと違和感を感じたのだ。
その時は本当にショックで、カカシさんの記憶に傷つけられた傷よりもっと大きな傷が生まれた。話が出来ないくらい落ち込んで、思わず途中で適当に理由をつけて切ってしまう程だった。
そんな状態なので、私は一日のほとんどを、家の中で過ごすようになった。どこかへ行く気力なんて、到底生まれてきやしなかった。

それから私は変な夢をよく見るようになった。向こうの世界で一人、孤独に暮らしている夢だ。
夢の中で暮らしている家は、カカシさんのあの部屋ではなくみすぼらしい平屋で、街の外れにぽつんと佇んでいた。
私は夢の中で、静かな林道のような道を抜けて、仕事に出ていた。
仕事、と言ってもおそらくアルバイトのような感じで、昼間は書店で品出しや会計など慌ただしく店内を動き回り、夕方からは定食屋で皿洗いやホールの仕事をしてくたくたになって帰る。それからボロい湯船に浸かり、質素な食事をとり、くたびれて湿った匂いのする布団で眠りにつく。家族もいないようだった。
本当にとても哀しい夢だった。哀しいという言葉一つでは片付けられない程の寂しさと虚しさを孕んだ夢だった。もう何遍見たか分からない。
私はその夢を見る度に眠った気がしなくて、気力が削られていくようだった。
そして、その夢の中でいつも大切な何かを忘れているような気がしていた。
それを繰り返しながら、時はただただ過ぎてていった。


ある日、ふと気がつくと部屋の中は真っ暗だった。うっかり昼寝をして夜になってしまったらしい。
仕事に行かないと生活リズムが乱れてしまって良くない。意識はしているものの、日頃の眠りの浅さから少しでも気を緩めるとうたた寝をしてしまうことがあった。
起き上がり、ベッドから降りて窓辺に立つ。カーテンをゆっくり開くと、窓の向こうに墨色の闇が広がっていた。そしてその闇の端の方に歪な形をした赤茶けた月が浮かんでいる。
そう言えば、昼のワイドショーで今日は皆既月食だと報じられていたのを思い出す。
珍しいこともあるもんだと珍しく興奮して、私はまだ寝起きでぼんやりとしている頭のままなんとなく外へ出て見ることにした。
外は少し湿った風が吹いていて、夏の始まる匂いがした。緑と土の匂いが混じった様なむわっとした重たい匂いに、今年はもう二回目だなぁと感傷的な気持ちにさせられた。
私は月を見上げながら、オレンジ色に照らされた歩道を一人ゆったりと歩いていく。


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