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カカシさんに優しく「カナ、ここで乗り換えじゃなかった?」と肩をトントンと叩かれて目を開くと、乗り換えの駅でドアが今まさに開こうとしている瞬間だった。
「降ります!」と寝ぼけて大きな声で言って、胸の前に抱えていた荷物を持ったまま勢いよく立ち上がると、隣から「すいません」と周りに謝る半笑いのカカシさんの声が聞こえた。
その声で私は一気に目が覚めて、周囲の視線が私に向けられていることに気づく。すっかり帰りの電車で眠ってしまっていたようだ。

「あ……」
「さ、降りようか」

カカシさんに背中に軽く手を添えられながら逃げるように降車すると、私は顔が熱く火照るのがわかった。電車で大声なんて、いくらなんでも恥ずかしすぎる。
降りる間、私はずっと下を向いていた。

「ごめんなさい……私すっかり寝ちゃって……」
「良かった、間に合って。この駅で乗り換えで良かったんだよね?」
「はい、合ってます。すみません、案内役の私とした事が……」
「いいんだよ。それと、また謝りすぎる癖出てるよ」

電車の扉が閉じて、ゆっくりと次の場所へと動きだす。
カカシさんは口元にふんわり握った手をやって、クスクスと笑っていた。寝起きの頭に彼の甘い笑顔が染み渡る。何度見てもカカシさんのマスクなしの笑顔は格別だと思う。
この駅で別の路線に乗り換え、五分も乗れば自宅の最寄り駅だ。手を繋いで階段を降り、別のホームを目指す。

「お腹は空いてる?」
「あんまり……」
「そっか」

夕飯は昼間の食べ歩きのせいで胃が疲れていたので、食べないでテーマパークを出てきた。あんなに胃が重かったので、ちっともおなかが空かないと思っていたが、一眠りしたらなんとなく小腹が減ったような気がした。
けれども、ここで空腹を満たしたくないと思った。満たしてしまったら、私の身体は隅々まで充足感に支配され、明日には消えてしまう彼への想いが薄れてしまうような気がして、胃に何も入れたくないと思った。だから、お腹が空いていないなんて嘘をついた。

「オレはちょっとだけ食べたいから、何か買って帰ってもいい?」
「はい、勿論です」

私は快諾した。

最寄り駅について、駅を出たすぐのところにあるスーパーへと入る。カカシさんは適当にすぐ食べられるものをカゴに放り込んで、「そういえば」と口を開いた。

「そういえばさ、さっきも話したけど明日は家に篭るんだよね?」
「そうですね……明日は二人きりで過ごしたいので」

それは、身体が疲れているからという事と、明日が最後だからという事、両方の意味を含んでいた。

「そしたら、明日の分の食材も買って行こうか」

カカシさんは明るく言った。私も笑顔で頷いた。


買い物袋を下げて、二人で手を繋ぎながら今日の楽しかった話をして家路につく。
カカシさんはキャラクターとお話ができるというコンセプトのアトラクションで見事指名を受け、お話出来たのがとても楽しかったと言っていた。途中、キャラクターに面白おかしくいじられて恥ずかしそうにしていたので心配していたが、楽しかったのなら良かったとホッとした。
和やかな雰囲気のまま自宅の玄関の扉を開けると、一気に明日という期限が迫ってきているような気がしてまた食欲が無くなった。
私達は靴を脱いで上がり、手を洗って私はお風呂へ、カカシさんは夜食を食べにリビングへ入っていった。
ひどく疲れているのに、眠りにつくまでは二人ともしばらく時間がかかった。


気づくと部屋には、カーテン越しに柔らかい日差しが差し込んでいた。時計を見ると、とうに十二時を回っていた。途中一度も目が覚めなくて、夢さえもみないほどどっぷり眠りに浸かっていたようだった。
起き上がろうとすると、頭のてっぺんから爪先まで筋肉痛のようなだるさに襲われる。二日間、年甲斐もなく無理をしすぎたせいだろう。
私は重たい腕で「起きてください、カカシさん」と彼を揺する。

「ん……」

しかし、カカシさんはなかなか目を覚さない。
具合でも悪いのだろうか。心配になって私は彼の額に手をあてる。熱は無さそうだ。

「カカシさん、起きてください。お昼ですよ」
「……」
「どうしちゃったんだろう……」

もしかしてこの二日間はしゃぎすぎたせいで、分身が解けそうなのではないかと胸の鼓動が速まる。私は息を呑んで、どうするべきかをぐるぐる頭の中で考えた。しかし、どうしたらいいかなんて全くわからない。
なす術もなくそのまま身動ぎせずに彼の様子をじっと見守っていると、不意にカカシさんの唇が開いた。

「おはようのキスをしてくれないと、オレの目は開かないよッ」

テーマパークのキャラクターの声を真似たような裏声で言った。可笑しいくらいに似ていなくて、私もカカシさんもブッと吹き出す。

「もう、ふざけてたんですか?」
「今日もおはようのキスしてくれなさそうな雰囲気だったから」

もう少し似てるはずだったんだけどなぁ、と彼はヘラヘラしながら起き上がる。私はそんな彼に仕方なく頬へキスをした。

「えー、ほっぺたかぁ」
「キスはキスです。おはようございます、カカシさん」
「おはよう。遊びまわったからか、身体が痛いね」

彼は「年かな」なんて私の手を握って口角をあげる。手の温もりがとても心地良くて、明日からのことを考えすぎて荒んだ私の心全てを柔らかさに包んでくれるようだった。幸せを噛みしめたいところだが、今日でこの幸福な生活も終わりだと思うと、そうしてはいけないと思う自分がいた。
夢の後はやっぱり心が硬く冷えている。私はとても冷静だった。
とにかく後どのくらい時間を共有出来るのかが気がかりで、しかし聞くことも出来ず、身支度や食事をしながら片時も彼から目が離せなかった。
顔を洗っている間に、味噌汁の碗を持ち上げている間に、それから瞬きをしている間にカカシさんが消えてしまったらと思うと、眼球が乾燥するのにも耐え、彼を常に視界へ入れていたかった。

「どうしたの、そんな怖い顔して」

起きてから食事をして、昨日の写真を見て盛り上がって、ゲームをして、おやつを食べてみたりして。ついに家の中ですることが無くなり、暇つぶしにベッドの上で彼にくっつきながら映画を見ていた時のことだった。
勿論私は映画なんてほとんど頭に入っておらず、彼の左肩のあたりにぴったりと耳をつけて彼の表情ばかりを眺めていた。
流石に私の視線に気づいたのか、彼が不思議そうな顔をして私を見下ろす。
私はどう返すか迷った。

「怖かったですか……?」
「なんか監視されてるような感じかな……敵の忍ばりに眼光鋭いような……」
「そんな?!」
「あはは、それは流石に冗談だよ。でも、何か言いたいことがあるなら遠慮しないで言って欲しいな」

カカシさんは微笑む。
その優しさに観念して、私は躊躇いながら尋ねた。

「……あとどのくらい、ここにいられそうですか?」
「そうだなぁ……」

彼は顎に指を当てて目を閉じる。そして何かを研ぎ澄ませた後、眉をハの字にして「明日の朝までもつかどうか……ってとこかな」と、カラリとした声で言った。
表情と声が全くあっていなくて、彼の心情が推し量られた。

「そうですか……」

部屋の空気がずしりと重たくなる。聞かなければよかったと後悔をした。タイムリミットを余計に意識してしまいそうだった。
すると、カカシさんが「ねぇ」と呼びかけてくる。

「ねぇ、映画の途中だけど、少し散歩しない?」
「え……?いいですけど……」
「家で食べて横になってるだけだとどうもお腹が重たくてね」

この空気から逃げられるのと、気分転換にいいなと思った。私はこくこくと頷いて外に出るため服を着替えた。


外はすっかり陽が落ちていた。時間の経過が疎ましくて昼からずっとカーテンを閉めっぱなしにしていたので気づかなかったようだ。
空は黒というよりは暗い灰色をしていて、一つ二つくらい星が見えていた。
私は、たまに歩く散歩コースを彼に案内することにした。
家の近くには大きな川がある。その川沿いの道路が車の通りも多く、歩道も広いので私のお気に入りだった。
私達はオレンジ色の外灯と、車のヘッドランプが照らす歩道をのんびりと腕を組んで歩く。風が吹くと湿った土の匂いと、草木の濃い緑のにおいが土手の方から強く香ってきた。自然はどんどん夏に向かって進んでいるようだった。

私達は橋が始まる地点の横にある、河川敷へ降りる階段のところまでやってくると、好奇心から下へと向かった。
河川敷は何も見えない闇の中にあって、ぽつり、ぽつりと白く明るい光を放つ外灯が等間隔で立てられていた。
しかしその明かりも互いにかなり距離があって、塊のような暗闇を生んでいた。それが妙で、私達を少しだけその中を歩いてみたいという気持ちにさせていた。

「ここ、車の通りが多くて道も広いので、よく夜の散歩の時に来るんです。まぁ流石に怖いので、橋の下までは降りないですけど」

私は暗闇の中を歩きながら話しかける。

「確かにこの河川敷、広くて暗くて誰かが潜んでいてもおかしくなさそうだしね」
「えぇ。橋の上とか上の道路を夜、何か考え事しながら歩くと悩みとかがぜーんぶ川に吸い込まれてくみたいで好きなんですよね」

あたりは風もなくしんとしていて、私たちの足音と、川のザーと流れていく音と、時々何の虫かわからない虫の音だけが聞こえていた。上の橋を通る車の音は闇を隔てて随分遠くにあるような気がした。
ふと、空を見上げる。暗いからか、星がよく見えた。
気づくと私は、よく空を見るようになっていた。今までは、雨が降りそうかどうかを気にするくらいだったのに。向こうの世界で空に何度も希望を見つけたり、思い出を作ってしまったせいだろうか。

「夜の水辺はちょっと気味が悪い気がするけど、まぁここは好きなのもわからなくはないかな」

カカシさんが言うと、丁度外灯の下へ出た。
明かりがあるとなんだか少しホッとして私達は歩みを止める。

「ここは星が綺麗に見えるね」

何かを懐かしむように彼が言った。
そして、空から私に視線を下ろしたと思うと、突然抱きしめられた。

「か、カカシさん?」

突然のことに名前を呼ぶも、彼は「……しばらくこうさせてくれる?」と言って私を離さなかった。
彼のその弱った態度に、刻々と私たちの終わりが近づいていることを実感した。
私はそっと抱きしめ返すと、彼の背中をポンポンとあやすように叩く。橋の上はどうか知らなかったが、周りには誰もいなさそうだったので、白いスポットライトの中、カカシさんが満足するまで私はずっとそうしていた。


帰って明るい部屋で彼の顔を見ると、目の縁が赤くなっていた。涙のあとは一切見えなかったし、私の肩にも水滴はつかなかったので結局堪えていたのだと思う。
カカシさんの元気のない表情を見ると私まで泣きたくなるので、私はわざと無邪気に振る舞った。
生身のカカシさんには「キスまで」と言われていたが、狭い風呂に無理矢理連れ込んで二人で風呂に入った。思いがけない私の行動に動揺するカカシさんが面白くて、私はケラケラ笑った。
二人で同時に湯船に浸かると湯がじゃぶじゃぶ溢れて、次に立ち上がるとほとんどすっからかんになってしまったのに二人でゲラゲラ笑った。それから健全に身体を洗い合った。家族同士が背中を流し合うような、ほのぼのとした雰囲気で。
風呂をあがってさっぱりとした気持ちになると、適当にカカシさんが夕食を作ってくれた。それを二人でニコニコしながら食べて、ゴロゴロして、後片付けをして、歯を磨いて。日付を超えた頃にようやく狭いベッドに揃って潜り込んだ。
昼まで眠っていたから全然眠たくなくて、私達は明かりを消した部屋の中でずっと見つめ合っていた。
彼の腕の中に包まれながら、彼はいつ消えてしまうかと不安だった。きっと、夕方に聞いたように朝までには消えてしまう。そう思うと、やっぱり最後の瞬間まで彼をこの瞳に焼き付けていたいと躍起になった。

「寝ないの?」

カカシさんが尋ねる。
暗闇の中で目が慣れたせいか、彼の柔らかい表情が手に取るようにわかった。

「なんだか眠くなくて」
「オレが消えちゃうから?」

彼は口元に微笑みを浮かべていた。
その表情と、ストレート過ぎる問いかけに私は言葉を返せない。
その代わり、眉を歪めて彼をじっと見つめる。

「大丈夫、カナが思うほどきっと辛くはないよ」

朗らかな声で言った。

「……そんな気休め、やめてください」
「気休めじゃないさ。こう言うのは時間が経つと大丈夫になるんだ。忘れることも出来ないし、ふとした時に濃く思い出してとても辛くなる時もあるけど、だんだん薄まってそのうち生活に馴染むんだ。だから最初よりもずっとマシになる。父親を亡くした時も、仲間を失った時もそうだった」

大切な人を何度も失った人にしか分からないことだと思った。失って、悲しみから何度も立ち直った彼の言葉には、重みと説得力があった。

「だからそんなに気を張らないで、もっとリラックスしてよ。最後は笑顔のカナか、幸せそうに眠るカナの顔を見てたいな」
「カカシさん……」
「カナ、本当に出会えてよかったよ。とっても幸せだった。それからこっちの世界で過ごせたのも本当に幸せだった。ありがとう」

彼の大きな掌がそっと私の左頬に伸びる。そして、輪郭を親指でさすると目を細めた。
私はその手に自分の右手を上から重ねると、「私も本当に幸せでした」と思いっきり笑って見せた。目の縁が熱くなりかけたが、こぼさないようじっと耐えた。

「もし、いつかどこかでまた出会えたら、その時はずっとオレのそばにいて欲しい。必ずカナを大切にするから」
「はい」
「ずっとずっと、愛してるよ」

優しく口付けられたあと、ふんわりと頭を撫でられる。叶うことのない彼のプロポーズに、私の視界は崩れた。堪えていた分、大粒の涙がほろりと右目の目頭から左目へ、左目の目尻からこめかみへと伝い落ちていく。

「カナは幸運の巫女さんだから、きっと大丈夫。明日を怖がらないで」

頬を包んでいた彼の左手が、そっと私の涙を拭う。壊れ物を扱うみたいなとても優しく丁寧な手つきだった。
すると、途端に何かの術か魔法にかけられたみたいに、だんだんとまぶたが重くなった。うっかり少しだけ閉じてしまう。私は眠るまいと頑張って口角をニッと上げて、一生懸命目を開く。それを何度も繰り返した。
やがて繰り返すうちに焦点そのものが合わなくなり、ぼんやりとしてくる。だんだんと彼のその彫刻のような美しい陰影は、上から油彩を重ねたように曖昧に均されていく──そして完全な暗闇になった。

しばらくの間意識が途切れ、次に私の瞳に光を映し出したその時にはもう、世界は明るくなっていた。カカシさんの姿も無かった。ほんの少し目を瞑っていただけのはずだったのに、あっという間に朝になって彼は消えてしまった。もう、二度と会えない所へ行ってしまった。
まだ布団は暖かく、温もりが残っていた。私はそこに身体を引きずるように移して、ぺたりと身体をくっつける。微かに残る彼のにおいと温もりを身体いっぱいに感じると、さめざめと泣いた。

視界の端には、昨日まで彼が着ていた服が綺麗に畳まれて置かれていた。まるで、今日も朝起きたら着るみたいな丁寧さだった。テーブルの上にはテーマパークで買ったカチューシャだってある。
きっとどこかに隠れていて、また二日前の朝みたいに後ろから声をかけてくれるに違いない──泣きながらそんな都合のいい妄想をした。「おはよう」と、どこからかいきなり声をかけきて、泣いている私を抱きしめてくれるに違いない、と。
私はだんだんと彼の温もりが薄れてきたころ、部屋の至る所を開けてカカシさんを探した。クローゼット、トイレ、風呂場、それからベッドの下まで。もちろんいるはずも無かった。わかっていた。
風呂場には彼の下着だって干してあるし、冷蔵庫には彼が昨晩作ったおかずだって入っていた。それからゴミ袋の中には彼が食べた夜食のゴミだって残っている。
こんなに彼がここにいた証拠はあるのに、もう彼は二度と私の前に現れることはない。わかっている、わかっているけれど、信じたくなかった。心がえぐれ、胸は張り裂けて、身はバラバラになりそうでもう気がおかしくなりそうだった。
嗚咽はとめどなくもれ、呼吸が苦しい。喉が閉じてしまったように息ができない。鼻も機能をしなくなって目は熱く涙に溶けていった。おまけに口の中はカラカラに乾いていた。身体中の水分を涙に変えてしまって唾液すら枯渇したようだった。
こうしていたら、またどこからかひょっこり氷嚢とお茶とティッシュを持って、カカシさんが慰めに来てくれるような気がしていたが、最後に玄関に彼の靴がないのを見ると、力なくその場に座り込んだ。
どうやってももう彼には会えない──それを嫌でも認めさせられた。
しばらくその場で放心した。涙は流しても流しても枯れなくて、顔もパジャマもぐしゃぐしゃになっていた。

そうして気持ちを発散させ、ようやく彼がもう戻ってこないことを少しだけ受け入れられると、冷凍庫にある保冷剤を出した。それからタンスにしまっていた薄手のハンカチを引っ張り出してきてそれに包むと、片方の目に優しく押し当てた。
ひんやりとしてとても気持ち良かった。ふっとまた、あの慰めてくれる時のカカシさんの優しい声と表情が冷たいまぶたの裏に浮かんだ。
また涙が熱く滲んだが、だんだんと疲れてきたこともあって、もう嗚咽ではなく大きく深呼吸する様にため息をついた。やっとまともに呼吸ができると、また一つ頭が冷静さを取り戻してくる。
私は沸騰しかけた頭の中のまだ少しだけ冷静なところで、明日のことを考えた。
今日で連休が終わり、また明日からは会社が始まる。腫れた目で出社してはきっと恥ずかしい思いをしてしまうだろう。私はまた、どうにかして冷静になろうと努力を始めた。
そうすると自然と身体が動いて、私は部屋中の彼の痕跡をかき集めた。そして、それを胸いっぱいに抱えると、再びベッドに潜り込む。大切な彼がここにいて、一緒に時を過ごしたという証。きっとこれらはだんだんと彼の匂いが薄れて、ただの思い出になってしまうのだろう。
その頃には、私は前に向かって歩み出すことができるのだろうか──
体を投げ出すように横になると、交互にまぶたを冷やした。目を瞑ると、とても静かで、真っ暗で、冷たい世界が広がっていた。
私はそのまま、孤独な闇の底へと身を沈めた。


翌朝、私のまぶたはやっぱりパンパンに腫れていた。
あれだけ泣くと、いくら冷やしても意味がないらしかった。まぶたの薄いところがぶよぶよにふやけていて、目の端は赤い。瞬きするのですら重たくて、まぶたの上に粘度でもくっつけているのかと思うくらいだった。
こんな顔では普通に出勤するのは恥ずかしすぎると、私はマスクをして出社した。
すると、顔を見るなり先輩が「どうしたの?!」と驚く始末で、通勤中に考えてきた「連休中暇で、感動映画ばっかり見てたらこんなになっちゃって」という嘘でなんとか誤魔化した。
勿論そんな無理のある嘘をすんなり受け入れてくれるはずもなく、しばらくチラチラと盗み見るように様子を伺われ、他の先輩にも大層驚かれた。
しかし、本当に驚いたのは私の方だった。

「あれ、これどうするんだっけ……」

何故か仕事の手順が全く分からなくなっていたのだ。
新人の頃に手順を記したノートを見ても、何のことだか全く頭に入ってこない。流石に動揺して、先輩に聞こうと席を立って話しかけようとするが、先輩の名前もどうしてだかわからなくなっていた。
思わず私は先輩の方をじっと見つめたままその場に立ち尽くす。

「しののめちゃん?どうしたの?大丈夫?」
「あ……いえ、」

様子のおかしい私に気づいて、先輩が私の方を向く。けれどやっぱり名前が思い出せない。
どうしよう、私、どうしちゃったんだろう──だんだんとパニックになり、呼吸が荒くなる。頭が真っ白になる。
少しもしないうちにとうとう上手く息が出来なくなって、私は足元からガクッと崩れ落ちた。

「ちょっと、どうしたの?!しののめちゃん?!」

誰かすらわからない先輩の声を最後に、いきなり世界は暗転した。


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