「わぁ、すごい!ここに泊まるんですか?!」
「カナとの旅行だから、はりきっちゃった」
宣告された翌日、私たちは里から少し離れた温泉郷へやってきていた。カカシさんが言っていた通り、気晴らしの旅行へきたのだ。
昨日までの嵐は何処へやら。空はすっかり晴れ、空気もカラッとしていて、強いけれど熱の和らいだ透明な日差しが地面にくっきりとした影を落としていた。
遠くではセミがやかましく鳴いていて、耳が痛くなりそうだ。
宿は、大きな湖のそばにあった。
木造建築のいかにも高級旅館、といった作りの豪奢な三階建てで、セミの音以外は木々の葉のそよぐ音くらいしか聞こえない静かなところだった。
旅館の玄関先のアプローチは、白砂利の中に暗い灰色の敷石が優美なカーブを描くように配置されており、その空間の両側には石灯籠と青々と茂る立派な紅葉の木が等間隔に植えられていて、風情が感じられた。入り口の左右にかけられた提灯もまたいい。
こんな旅館、向こうで泊まったら一体いくらするのだろう。それと、今日はカカシさんが全て出してくれると言っていたが、本当にいいのだろうか不安になった。
チェックインを済ませ、仲居さんとスタッフの方に荷物を運んでもらいながら部屋に案内される。三階だという。
館内ももちろん豪華で、艶やかな焦げ茶の木を基調とし、至るところに飾り彫や綺麗な調度品が配置され、まるで映画の舞台の中にでも迷い込んだかのようだった。
特に、天井から吊るされているぼんぼりのような灯りがとても素敵で、階段を上りながらその美しさに見とれていた。
「お部屋はこちらになります」
仲居さんがそう言って、一つの部屋の前で立ち止まる。
ゆっくりと扉が右へ引かれると、パッと明るい光が目に飛び込んできた。なんだか部屋も凄そうだな、と中へ入ると私は目を疑った。
十五畳以上はありそうな広い畳の間が広がっていて、真ん中には高級そうな木製のローテーブルと座椅子が並べられていた。そしてその奥にはさらに六畳ほどのスペースと、窓の向こうには湖の美しい景色と露天風呂がある。内装もシックで上品で、お香のいい香りまでする。
仲居さんに座椅子に座るように案内され、緊張しながら腰を下ろすと、どこからともなく現れた女将さんと慣れたようにやりとりをするカカシさんを横から静かに眺めた。
「さ、どうかな。気に入ってくれた?」
女将さん達が退出して扉が閉まると、カカシさんは足を崩してくつろいだ体勢で私に尋ねた。
ようやくここで私も緊張の糸が解ける。
「こんなに広くて綺麗で豪華で、気に入らないわけないじゃないですか!」
「良かった」
「びっくりしちゃいました、昨日の今日でこんな凄いところ、どうやって……!」
「それは秘密。少し休んだら中庭でも探検しない?」
「はい、行きましょう!」
カカシさんはゆっくり立ち上がると、クローゼットの方へ歩いていく。中を開いて籠を取り出すと、「浴衣、あるみたいだけど」と私の前へ持ってきてくれた。
「女ものはかわいい柄なんだねぇ。着てみる?」
言われて見ると、古典柄の可愛らしい浴衣が入っていた。先日行ったスパリゾートは甚平のような館内着だったから、今回は可愛くおめかしをしたいと広げてみる。
しかし、どうやら帯がよくある旅館の簡易的なものではなく、本格的なものようで躊躇してしまう。私は一人で帯を結ぶことが出来ないのだ。
「残念ですが、これ、着れないです……」
「えっ?どうして?」
「私、帯結べなくて……」
「大丈夫、オレが結んであげるから」
「浴衣姿、見たいな」なんて、カカシさんは目をにっこりとさせる。本当に彼はなんでも出来るんだなぁと感心すると、彼に着付けをお願いすることにした。
恥ずかしいので、畳の間から見えない洗面台の方で髪を適当にまとめ上げてから服を抜ぎ、浴衣に袖を通すと、帯を腰に一度くるりと巻いて彼の前に出る。彼は慣れた手つきでパパッと帯を結んでくれた。
「はい、できた」
恥ずかしながらもくるりと彼の方を向いて浴衣姿を見せると、「似合うね、かわいい」とカカシさんは愛おしそうな声で言い、ギュッと私を抱きしめる。
しばらく彼の腕の中で幸せいっぱいになると、「オレも着替えるかな」とカカシさんは私を解放し、服を脱ぎはじめた。
なんとなく気恥ずかしくて、視線を逸らすと、その場を離れてバルコニーのある窓のそばへ向かった。カギを開けてゆっくりと窓を引くと、そこには太陽の光を反射して碧くキラキラと輝く湖が一面に広がっていた。思わず「わぁ、」と嘆声が漏れる。
バルコニーには露天風呂があり、湯に浸かりながらこの景色を堪能できるらしい。檜の木でできているのか、とてもいい木の香りがする。
何から何まで素敵だなぁと景色を眺めていると、背後から再びギュッと抱きしめられる。
「なかなかいい眺めだね。あとでこの風呂にものんびり入ろうか」
「もう着たんですか?!」
「男は楽だからね。さ、探検にいこうか」
カカシさんは後ろからそっと私の頬にキスをする。
「そうだ、カメラも持っていこう」
カメラは、今日のためにカカシさんがわざわざ借りてきたと言う。旅行なんて普段行けないから、たくさん写真を撮るんだと言って、ここに来る途中もひまわり畑や、何でもない道端で私をパシャパシャ撮っていた。被写体慣れしていないため、恥ずかしくなって「フィルムが勿体無いですよ」と言っても全然聞いてくれなくて、それどころか「たくさんあるから気にしないで」なんてヘラヘラと笑って、忠告する私の顔さえもおさめていた。
ローテーブルの上に置いていたカメラを手に取ると、私達は部屋を出て、館内をうろついた。うろつきながら、宿の人にお願いをしてたくさん二人の写真を撮ってもらった。
なんだかこれじゃあ本当に最後の思い出作りをしているみたいだなぁと、カメラに笑顔を向けながら私は哀しくなる。
一通り回って見るところがなくなると、私達は一度部屋に戻り、大浴場へ足を運んだ。
大浴場は内湯が二つと、湖を臨む大きな露天風呂があり、いずれもとても広かった。私は顔と髪以外を全身洗った後、露天風呂に浸かりながらぼんやりと広大な湖を眺める。
少しオレンジ色の濃くなった日差しと、湖の脇に生えている木々が湖面に映り込み、ゆらゆらと揺れていた。
四方から聞こえるセミの声には、ヒグラシの鳴き声が混じり始め、もうそんな季節かと切なくなった。
こちらへ来た時は、まだ初夏の頃だった。検査のために入院した病室から眺めた木々はまだ緑も浅く、日差しも柔らかかった。それが今は空が高くなって、真っ青だった水色も薄まり、毎日のように見ていた入道雲もどこかへ行ってしまった。
私は一つの季節をここで過ごしてしまった。
長い人生で捉えればたったの数ヶ月だが、私の心に与えた影響は計り知れない。
そして、悩む。私はここにいるべきなのか、帰るべきなのか──
いくら影響を与えたとは言え、たったこの数ヶ月のことで自分の一生を変えるのかと思うと、簡単に決めることは出来なかった。この間に芽生えた愛情のために、家族や、社会的立場や、二十数年間持っていた向こうの世界での「私」という存在を捨ててしまっていいのだろうか。
私が向こうの世界を捨ててこちらに残れば、カカシさんは必然的に私の人生を一生背負わなければならなくなる。
それはカカシさんにとって、重荷にならないだろうか。忍者という命を削って里を守るという大切な使命がある彼に、そんなことをさせていいのだろうか。
それに、彼の感情だって一時のものかもしれない。人の気持ちなんて、永遠に変わらないなんて保証はない。
もし彼が心変わりをしてしまったら、私は本当に一人ぼっちになる。支えてくれる人なんて、この世界には彼以外にはいないのだから。
あれこれ考えすぎてのぼせると、シャワーで冷水を浴び、熱を冷ましてから浴場を出た。
いざ着替えて部屋に戻ろうとした時、私はあることに気づく。浴衣の帯が結び直せないのだ。
仕方なく、適当に帯を回して肌蹴ないように浴衣を留めると、持ってきていた羽織で誤魔化して脱衣所を出た。
ガラリと引き戸を引いて廊下へ出ると、男湯と女湯の前にある休憩室処にカカシさんの姿があった。
扇風機にあたりながら、マッサージ椅子に座ってリラックスしているようだった。
「カカシさん……」
彼は私の声に気づくと、マッサージ椅子のスイッチを止めて立ち上がる。
「風呂に入ってるときにふと気づいてさ、帯のこと。心配になって待ってたんだ」
「私も、出るときになって気づいて……」
「でも、とりあえずは大丈夫そうだね。部屋に帰ったらきちんと直してあげるよ」
彼は穏やかに言った。私はつい、変な妄想が頭に過ぎる。本当に結び直してくれるのだろうか。むしろ、風呂上がりを言い訳に全て剥がされてしまうのではないだろうかと。
二人で静かに部屋に戻り、玄関の鍵を閉めると、私は一人でドキドキしていた。
夕食まではまだ時間がある。このまま彼に──なんて延々と妄想を続けながら羽織を脱いでカカシさんの前に立つと、「風呂で考え事でもしてたの?顔、真っ赤」と彼が淡々とした口調で尋ねる。
変なことを考えているのがばれたか、と焦りながらも黙っていると、彼は私が適当に巻いた帯を解いて、テキパキと結び直す。結び終わると、あっさりと座椅子に座ってお茶を入れ始めた。
妄想を打ち砕かれた私は、先程のぼせたこともあってか、ヘロヘロになりながら座椅子に腰を下ろした。
小一時間休むと、先ほどのことはもう忘れようと密かに心に誓いながら夕食の会場へと向かう。
夕食は豪華な懐石だった。新鮮な魚や、中々自分では作れそうもない凝った料理に舌鼓を打ちながら、カカシさんといつも通り他愛もない会話をした。
今日は泊まりだからと、少しだけお酒もいただいていい気分になる。明後日のことなんて、忘れてしまいそうなくらいだった。
「そうだ、まだ部屋の風呂に入ってなかったね。食休みしたら入らない?まだのぼせてる?」
「いえ、もうすっかり」
「良かった。それじゃ決まりで」
風呂に入るタイミングなんて、どうでもいい気がするけどなぁと思いながら食事を進める。
一時的にではあるが、お酒が入って感傷的な気持ちも和らいで部屋に戻ると、ローテーブルと座椅子は端によけられ、布団が並べて敷かれていた。
ふかふかそうな布団を見るなり、私はその上へ横になる。シーツもパリッとしていてとても気持ちがいいが、食べたばかりだからか少しお腹が苦しい。
「ちょっと、まだ寝ちゃダメだって。これからなんだから」
「……え?」
「そろそろ開始十五分前の合図が上がると思うんだけど」
なんのことやらと重たい身体を起こし、眉根にシワをよせて彼をじっと見上げると、窓の外からドン、と大きな音がした。
ハッとして音の鳴った方を見ると、大きな黄金色の打ち上げ花火が窓いっぱいに上がっていた。
「……花火?!」
「そ。今日はこの湖での花火大会なんだ。そしてこの部屋は特等席ってわけ」
私は立ち上がると、急いでバルコニーへ出る。
外は闇に包まれており、湖の右端に花火大会の会場があるのか、灯りがいくつも見えた。
しばらくすると一筋の光が湖面からヒュウと音を立てながら昇り、大輪の真っ赤な牡丹を夜空に咲かせた。灯りのほうからわあっと歓声が聞こえて来る。
「凄い……」
「驚いてくれた?」
彼に視線を向けると、私はもう言葉が出なかった。口を開いたらいろんなものが溢れ出しそうで、きゅっと唇を結んで彼の問いかけに頷いた。
きっと彼は私が帰ることを確信している。確信しているからこそ、ここまでしてくれているに違いない。
普段は撮らない写真を撮っているのだって、きっとそうだからに決まっている。
そうとわかったならば、私は今日は泣いてはいけない。彼の思い出の中で、泣き顔ばかりの私なんて残したくない──そう思った。
私は唇をきつく結んだまま口角をグイッとあげると、無理矢理に笑顔を作って彼の胸に飛び込んだ。
「喜んでくれたみたいで嬉しいよ。あと10分くらいで始まるから。こんな近くで花火を見ながら露天風呂なんて、最高だろ?」
カカシさんは私を優しく包み込んでくれる。
胸板にぴったりとつけた耳に、彼の低い声がビリビリと響く。私はその振動にうっとりと目を閉じた。
ずっと奥に、彼の落ち着いた鼓動が聞こえてなんだか安心する。
「……本当に最高ですね」
彼のぬくもりも、彼が私を心から愛してくれていると感じられることも本当に最高だった。いつまでもこうしていられたらいいのに、なんて到底無理なことを思った。
カカシさんの言う通り、しばらくすると会場の方から何やらアナウンスのような音が聞こえてきた。会場から離れているから内容は聞き取れなかったが、その放送に間髪入れずにオープニングの花火が湖面から次々と上がった。
私達はバルコニーの柵へ寄りかかって空を見上げる。
最初は幾つもの金色のしだれ柳がバッと開いて、次は彩り豊かな千輪菊、それから花火の定番である大輪の牡丹などが代わる代わる、そして絶え間なく広い闇夜に上がり続ける。あまりの美しさに、思わず呼吸を忘れてしまいそうだ。
ドン、と打ち上がる度に胸のあたりが重たく響いて、先程のカカシさんの声の響きを思い出す。愛おしくて、切なくなるような響き。
最後にとびきり大きな音ともに巨大なしだれ柳が空に開き、暗い夜空にすうっと溶けるように光が消えると、盛大な拍手が静かな湖畔に響き渡った。
凄いねぇ、と私達は顔を見合わせて微笑んだ。
せっかくだからこの部屋の露天風呂に浸かりながら見なくてはと、次の花火が上がるまでの間に私達はいそいそと湯船に浸かる準備をする。部屋の中が外から見えないよう電気を消して、浴衣を脱ぐなりタオルで身体を隠すと、恥ずかしさから急いで湯船に飛び込んだ。
二人で同時に身体を沈めると、湯船からザバーッとお湯が溢れ出す。温度はぬるく、長い時間浸かっていられそうだ。それに、広さもなかなかあり、二人で入っても窮屈ではない。
湯口からちょろちょろと絶え間なく聞こえて来る湯の音もとても心地よい。非現実的な空間に、私の心はすっかり寛ぐ。
「今年初めてです、花火」
「オレもだよ」
マスクを外した素顔の状態のカカシさんが、右で嬉しそうに言う。マスクはどこへやったのだろうかと部屋の方を見ると、入り口のあたりにポイと投げ捨てるように落ちていた。急いで外したのだろうか。その姿を想像して、少し可笑しくなる。
「何ニヤケてるんだ」
「いいえ、別に。それより、こんな風にカカシさんと旅行に来たりするなんて思ってもみませんでしたよ。なんか……照れちゃいますね」
「照れる?もう毎日のチューからあんなことやそんなことまで当たり前なのに?」
「もう、そういう意地悪なこと言わないでくださいよ、」
「意地悪じゃなくて事実じゃないの」
カカシさんはたまに私が恥ずかしがるようなことをわざと言ってみせる。私の反応を見るのが楽しいのだと言う。
私はそんな彼の表情を見るのが好きだ。だからついつい余計に反応してしまう。
楽しい雰囲気で見つめ合っていると、真っ暗な湖から花火玉が上がる音がした。私達はお互いの目を真っ暗な湖の上空へと向け直す。
今度は変形花火のようだった。ハートやスマイル、それからカカシさんがしている額当てのマークの花火などが一つずつ順番に上がっていく。
私達はそれらを見上げながら会話を続ける。
「初めてキスされた時は、ドキドキしすぎて息が止まっちゃうかと思いましたよ」
「それじゃ今はもうときめかない、みたいな?」
「えぇ?!そんなことは……!」
驚くほどネガティブな発言に、思わずカカシさんを見る。
カカシさんは「ウソウソ。カナは本当、すぐ驚くんだから」と眉を下げてケラケラと笑っていた。またからかわれてしまったようだ。
そんな余裕な態度の彼に、ちょっとだけふくれると、「もっと驚くこと教えてあげようか」とカカシさん悪戯に言う。
「……なんですか、」
「ずっと内緒にしてたんだけどさ。オレ、実は付き合う前にカナに一回キスしちゃったんだよね」
思わず「え?!」と声を上げると、丁度花火の破裂音と重なり、タイミングの良さにまたカカシさんが声を出して笑う。
私はそれがいつの事なのか気になって仕方なく、ついつい前のめりになって彼に問いかける。
「いつですか?!私全然覚えて無いんですけど?!」
「覚えてなくて当然だよ、だってカナあの時ベロンベロンに酔っ払って眠ってたもん」
ベロンベロンに酔っ払って──思い当たる節がある。職場の歓迎会の日だ。
翌日二日酔いになるくらい酔っていたのだから、眠ってるといってもかなり酒臭かっただろうに、どうしてそんな時にキスをしたのだろう。状況を想像すると、頭がクラクラした。私はしばらく彼の顔を見ないよう努めた。
見てしまったら恥ずかしさでまたのぼせ上がってしまいそうだった。
「軽蔑されると思ったから黙ってたんだ。ごめんね」
カカシさんは呟くように言った。
変形花火が終わったのか、スターマインが始まる。
水上花火と打ち上げ花火が交互に上がって、目の前いっぱいに明るくなる。まるで光の滝のようだった。
時折バチバチとスパーク音の鳴る花火も打ち上がり、視覚だけでなく耳も楽しい。
少し心に余裕が戻ってくると、ずっと気になっていたことを尋ねることにした。
「そういえば、カカシさんっていつから私のこと好きでいてくれたんですか?」
「んー、いつだろうねぇ」
「えー、教えてくれないんですか?」
カカシさんはのんびりとした口調ではぐらかす。
これにはがっかりして、「そんなぁ」と花火から目を離して拗ねてみせると、不意にカカシさんが私の方へ身体を寄せる。湯面が揺れて、湯船の端からジャッと音を立てながら湯が溢れた。
突然のことに驚いて湯船の淵の方へ逃げるが、湯面の下で彼の左腕が伸びて腰の後ろへ回され、すぐに間合いを詰められる。気づけばもう、互いの鼻の先が触れそうなほど近くに彼の顔があった。
水面から立ち昇る湯気で毛先は湿り、頬は上気したように淡く染まっている。私を捉える濡れたように艶やかな黒い瞳は、妙に色っぽい。
「気づいたら好きになってた、じゃダメ?」
囁くように言って、彼は徐に右手で私の輪郭をなぞるようにあてると、静かに唇を重ねた。優しいけれど、長い口づけだった。
触れるだけのキスなのに、私はこのシチュエーションと彼のその艶やかさにすっかり骨抜きにされてしまう。鳴り止まない花火の爆音さえ遠のいていくようだった。
唇が離れても、彼はまだ私を近くで見つめる。
「……私、カカシさんが『任務だから』って毎回言ってたのが引っかかって悩んでたんですよ?」
「それは下心を見せないためだよ。警戒するでしょ、カナは」
「確かにそうですけど……」
「ま、結局好き同士だったんだからいいじゃない」
再びギュッと抱き寄せられ、今度は深く口づけられる。
目をゆっくり閉じて彼の舌の動きを感じながら、今晩のことを想像した。
いつもは愛し合えば身体も心も満たされるけれど、きっと今夜は彼にどんなに愛されようとも、心が擦り切れそうなほどに切なくて悲しくなるのだろう。
どんなに豪華な部屋に泊まったって、食事を食べたって、満たされることはない。ふとした時に、心の奥の奥から哀しさが襲ってくる──
口づけている間、私達の向こうでは幾つもの花火が大輪の花を咲かせていた。先程のキスよりもさらに長く、甘く、そして胸が苦しくなるキスだった。
私達はようやく離れると、同時に水中花火が始まった。
半円状の様々な色の花火が扇型のように連なって、辺り一帯が一気に明るくなる。追い討ちをかけるように、空へいくつもの大玉の極彩色の花火が打ち上げられた。
火花が目の前に迫るように垂れ下がり、まさに百花繚乱と言うべきか。
「わぁ、凄い」
「こりゃ綺麗だ」
思わず漏れ出た声が、カカシさんの声と重なる。
偶然の一致に、顔を見合わせてクスクス笑うと、身体を寄せ合って再び花火に集中した。
水分のせいか、互いに触れている肌がぴったりとくっつくようで、ほんの少しだけ心が満たされる気がした。
ふと気づくと、花火の激しい明かりにそれまでの打ち上げ花火の残煙が照らし出される。煙は、いくつもくっつきあって、得体の知れない怪物のような形をしていた。
水中花火のプログラムが終わると、再び職人さん達が次の花火の準備に入るためか、一度湖畔がしんと静まりかえる。代わりに、湯口から湯船に落ちる水音が静寂を支配し始めた。静けさに耳が慣れると、宿の周辺から虫の音も聴こえてくる。
突然、涼しい風がサーッと吹いて、湖面を撫でながら花火の残煙を攫う。後には何も残らず、ただただ深い闇が生まれた。
もう、夏が終わろうとしていた。
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