久しぶりに雨が降った。雨足は強くないものの、遠くで雷がゴロゴロと鳴っている。光は見えないので随分遠くの音がこちらまで聞こえてきているらしい。
そんな今日は人影もまばらで、入館受付所にはほとんど客が来なかった。
定時ぴったりで仕事を終えようと、屋根のある受付前のペン立てやバインダーを片付けていると、事務所の中からヤマタさんに「カナちゃん」と声をかけられる。
「はたけさんがきてるけど……」
慌てて事務所内に入り、キョロキョロ見渡すと、上司の横に深刻そうな顔をしたカカシさんが立っていた。
「……カナ、火影様がお呼びだ」
嫌な予感がした。とうとうこの時が来てしまったか──そんな気持ちだった。揃って呼び出されるのはいつぶりだろうか。
この前のお昼の話の後だから、今回呼び出された内容はきっとアレに違いない。
私は急いで片付けを終わらせると、「お疲れ様でした」とタイムカードをきってカカシさんと火影室へ向かった。
「急に呼んですまなかったな」
いつも笑顔の火影様は、今日は一つも笑わなかった。
入室した私達をチラリと一瞥すると、視線を逸らし窓の方へ身体を向けてしまう。彼としても切り出しづらいのだろうか。
私達は張り詰めた空気の漂う部屋の真ん中で背筋を正し、じっと火影様の言葉を待つ。
「……カナの帰る方法、そして日取りがようやく確定した」
彼の口から出たのは、聞きたくない言葉だった。
やっぱり、と思う反面あまりにも早すぎる展開に私は思わず俯く。カカシさんの様子を気にしている余裕なんて全く無かった。
「情報班と結界班、それから天文方の調査の結果、カナがいた世界と繋がることができるのは今日から一週間後の満月の夜じゃ」
「一週間後……?!」
カカシさんが驚いたような声で言った。
そこまで早いとは思っていなかったのだろう。私もどうしたらいいのかわからず、ひたすら床を眺める。
悲しいとか、辛いとかそういう気持ち以前に、あまりの時間なさに私はただただ呆然とするだけだった。
「突然ですまない……確証が持てなくてな……伝えるのが随分ギリギリになってしまった」
視界の端で、火影様がこちらへ向き直したような気がした。カカシさんは何も言わない。
「カナ、帰るか帰らないかの選択はお主に任せる。準備の関係で三日後までに返事が欲しい。今の仕事はワシから出勤を取りやめるよう伝えておく」
「わかり、ました……」
振り絞るように出した声は、震えていた。
帰るまでに一週間。その決断をあと三日で決めろだなんて。ギリギリまでどうなるかわからないから、その前に私だけを呼んで考えさせる時間を与えたのだろう。けれど、私の考えは未だに固まっていない。
帰りたいし、帰りたくないのだ。どうやって決めたらいいというのだ。
「それからカカシ、お前にもしばし休暇を与える。任務どころではないだろう。三日の間、二人でよく考えるんだ」
私達は何も返事をしなかった。いや、私は出来なかった。
これから一生のことを、あと三日で決めなければならないなんて、酷すぎると思った。
「あの、火影様」
不意にカカシさんが口を開く。
「なんだ、カカシ」
「ここでカナが帰らなかった場合、次回のチャンスはいつになるのでしょうか」
彼も同じように思っているのだろう。
今回は帰らなくとも、次回にずらせば──その方が心の準備は出来るし、精神的なダメージも少ない。
少々回答に期待しながら、私は床から火影様へとゆっくり視線を移す。
しかし、彼は首を力なく横へ振った。
「……それはわからない。数ヶ月後か、はたまた数年先か……もしかすると、タイミングを逃せばもう帰ることもできないかもしれん」
「そんな……!月と関係しているんじゃないんですか?!」
「確かに今回の件は月の満ち欠けと関係しておる。調査の結果、通常月が最も近づく日が普通年一回のところ、今年は二回あってな。一回目の夜、カナがこちらへやってきた。そうなると、帰るのは二回目の夜。次回はまた来年にならないと分からんのじゃよ……それに帰る方法が一度でうまくいくとも限らない」
だから、帰るのなら最短のタイミングで試みるより他はないのじゃ──その言葉以降、私は目の前が真っ暗になって、何の話も耳に入ってこなくなった。
ふと気づくと家にいて、私はダイニングテーブルの椅子に腰掛けていた。目の前には温かいお茶が注がれたマグカップが置かれていて、ゆらりゆらりと湯気が立ち昇っている。
サーッと窓の向こうから雨が屋根に当たる音が聞こえてきて、私は意識がはっきりとする。
ハッとして辺りを見渡すと、カカシさんがキッチンでお茶を淹れていた。
私はどうやって帰ってきたのだろう。全くわからなかった。
「カカシさん……私は、」
「あれ、気がついた?」
「私、どうして家に……」
「相合傘で一緒に歩いて帰ってきたよ。話の途中から何言っても返事が返ってこないからおかしいとは思ってたけど、もしかして記憶無い?」
「ごめんなさい……」
「無理ないよ。でも元に戻ったみたいでよかった」
カカシさんはやかんを置いて、自分のマグカップを持つと私の隣へ座った。
「大丈夫?」
「はい……」
俯く私の髪を、彼は優しく撫でてくれる。
帰ってしまえばこうしてもらえるのもあと少し。そう思うと、今はその掌の温もりでさえ痛くて仕方なかった。
「やっと話が繋がったよ。暗部が出払ってたのもカナの調査のため、そしてカナが火影様に先週呼ばれたのも本当はこの件絡みだったんだろ。帰る日の話は聞いてなかったのか?」
「具体的な時期はわからないとしか言っていませんでした……ただ、考えておいてって言われただけで……」
「そうか。オレを呼ばなかったのは、オレがカナを無理にでも引き留めようとするかもしれないと思って、あえて言わなかったんだろうな」
カカシさんは冷静な口調だった。もっと彼も落ち込むかと思っていたから、私はじっとテーブルの上のお茶を見つめながら意外だなぁと思った。
それにしても、あと一週間だなんて早すぎる。決断するまでの三日なんてあまりにも早すぎる。
どうしたものかなぁと大きくため息をつくと、カカシさんは私の頭をそっと彼の方へ抱き寄せた。そしてポンポンと一定の間隔で私の頭を撫でる。まるで子供を落ち着かせる時のような手つきだった。
「オレはね、カナのしたいようにすればいいと思ってるよ。オレが傷つくとか、そう言うことは考えないでちょうだい。自分がどうしたいかだけを考えて欲しい」
そんなの、彼のそばにいたいに決まっている。
でも向こうの大切な人たちのそばに帰りたい気持ちはやっぱり変わらない。
両親やお姉ちゃん、友達、それから──あれ、やっぱり私、お姉ちゃんなんていたっけ?一人っ子だったんじゃなかったっけ?──
この前と同じだ。家族の顔を思い出そうとすると、モヤがかかってうまく思い出せない。それどころか、今日は姉の存在自体が曖昧だ。
ショックでおかしくなっちゃったのかな──何か大切なことを忘れているような……
「まだどうしたいか、私にもわかりません……頭の中もぐちゃぐちゃで……先週からずっと考えてるんですけど、決められないんです」
何もかもに混乱しきっている自分を、私はとにかく落ち着かせるように努めた。気を緩めたら泣いてしまいそうだった。
あの流れ星を見た夜、私達は今ある幸せをありのまま受け入れる事を大切にしようと誓った。そう提案したのは私だ。
別れのことばかりを考えて泣いていては、思い出が全て悲しいものになってしまう。幸せな事だって沢山あったのに。そんなのは嫌だ。
だから私は、もう出来る限り泣かないと自分の胸に誓った。
「あと三日あるから。ゆっくり考えればいいよ」
カカシさんも穏やかにそう言った。
彼の言う通り、帰るか帰らないかを決めるには三日もあるのだ。
残された時間はネガティブに振り切るのではなくて、一日一日を大切に過ごしていけばいい。
私は一度カカシさんの腕から離れて彼を見ると、笑顔で頷いた。
「そうですね。焦らず、ゆっくり考えてみます」
「そうだ、休みも貰ったし、気晴らしに旅行にでも行こうか」
いいところがあるんだ、と彼は微笑む。
なんだか最後の思い出作りのような気がして少し嫌だったが、まだ私は彼に帰ると言ったわけでもないし、そう決めた訳でもない。
彼の言葉の通り、「気晴らしに行く」だけだ。何も気負いする必要はない。
私は笑顔で「はい!」と応えた。
「それと……あのさ、もし帰ることにしたらなんだけど」
私がマグカップに口をつけると、急にカカシさんが困ったような表情で私を見つめる。
お茶を飲みながら「ん?」と反応すると、「オレも向こうの世界に行ってみたいな」なんて恥ずかしそうに言った。
驚いて、私はうっかりむせ返りそうになる。
「え、嫌だった?」
「いや、そんなことは!」
「前に、カナが案内してくれるって言ってただろ?まさか冗談だった、なんて言わないよねぇ」
カカシさんは、スパリゾートでご飯を食べている時、私の口から出任せた嘘をきっと見抜いていた。私は嘘をついてしまったことに胸を痛めていたが、まさか実現するチャンスを与えてくれるなんて。
「でも、そんなことしたら……カカシさん帰れなくなっちゃうんじゃ……」
マグカップを置いてから彼にそう問うと、「いい考えがある」と彼は手を十字に組んだ。
「影分身の術!」
ボン!という音と共に彼の横にはもう一人の彼が現れる。
昔、大福を買ってきてもらった時に見せてもらった術だ。
「なるほど!」
「ま、多少のリスクはあるけど、術が解ければ記憶だけオレのもとに返ってくるし、帰れなくなる心配もない」
完璧だろ、と彼はニンマリ笑ってピースサインをした。
つられて私も笑みが溢れる。
「カカシさんは、本当に凄いですね。私のこと、なんでもわかってくれてるみたいです」
「そんなんだったら告白に躊躇なんてしてなかったよ。いつだってカナはオレにとってミステリアスな存在だからねぇ」
「やだ、私がミステリアスだなんてかけ離れてますよ」
「あはは、冗談冗談」
限られた時間の中で、あと何回こうやってふざけていられるのだろうか。
ニッコリと三日月型になった彼の瞳の奥を眺めると、少しだけ哀しい色が見えるような気がした。
遠くではまた数回、雷鳴が鳴り響いていた。
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