あれから私は毎晩のように夢を見るようになった。あの、もう一人の私が出てくる夢を見てからずっとだ。
ちなみに、鬼のような姿の神様は出てきたり、出てこなかったりする。
もう一人の私は、最初のうちは何か私に伝えたがっているようだったが、声は聞こえていなかった。私の声は届いているようなのに、向こうの声だけがこちらへ聞こえないのだ。何か透明な壁のようなものが私たちの間にあるようだった。
しばらくすると、ようやく微かに聞こえるようになって、神経を研ぎ澄ませると「行っちゃダメ」と言っているのがわかった。
しかし、聞こえるのはその一言だけで、後は何も聞こえない。
なんだか気味が悪くて、目が覚めるといつもこの夢のせいで疲れていた。
カカシさんに相談しようかと思ったが、とても楽しく前向きに過ごせていたから、夢のことはしばらく話さないでいた。
余計な心配をかけたくなかった。
「おはよう」
「おはようございます」
私達は同じベッドで眠り、毎朝彼の腕の中で目が覚める。
毎日当然のようにキスをしたり、身体を重ねたり、まるで普通の恋人ように過ごしていた。
気まずくなったら嫌だからと気持ちを抑え込んでいた頃には考えられない事だったから、毎日幸せで胸がいっぱいだった。悲しいことは努めて考えないようにして過ごした。
「それじゃあ行ってくるね」
「はい。お気をつけて」
カカシさんは任務で朝早くから出かけて行くので、大抵私は見送る係になる。
毎朝玄関先で行ってらっしゃいのキスを交わして彼が出て行くと、窓から彼の姿が見えなくなるまで見送るのが日課になった。新婚夫婦にでもなった気分だ。
私は毎日彼の後ろ姿を見つめながら、幸せであることに感謝をした。
もちろん向こうの世界の家族達を忘れたわけではない。
でも、何故かその記憶に違和感があるような、変な感じがした。まるで、もう一人の自分の記憶を眺めているような──
その日は曇りの日だった。
どんよりとした空が重苦しくて、アカデミーへ任務の依頼にくる人もまばらで仕事にハリが出ず、ヤマタさんと少しお喋りをしながらぼけっと仕事をしていた。
「おお、カナ。仕事の方はどうじゃ」
「火影様?!」
昼休みになる少し前、突然受け付けの向こう側にひょっこり火影様が顔を出す。私は急いで立ち上がり、そのはずみで手前の机に思いっきり脚をぶつけた。思わず「いたっ」と声が漏れる。けれども、この国の偉い人の前で痛がってる暇はない。
痛みを我慢しながら笑顔を作って挨拶すると、火影様は「そんなに慌てんでもよい」と愉快そうに笑った。
「す、すみません……」
「ちと一緒に昼飯でも食わんか?」
「……お昼ご飯ですか?」
さて、お昼休みまではあと何分だったかなと後ろの時計を振り返ると、同室の職員達がものすごい顔でじろじろと私を見ていた。
きっと私と同じ気持ちだろう。なんでこんなところに火影様が来るのだ。しかもこんな小娘を訪ねて──そんなところだろう。
「す、すみませんが、火影様のお呼び出しですので……少し早いですがお昼に行ってもよろしいでしょうか……」
恐る恐るそう声を発すると、その場にいた全員が無言でこくこくと頷いていた。
帰ってきたら質問攻撃だろうなぁと途方に暮れながら事務所を出ると、窓口の方で上司や先輩達が全員起立をして火影様と私を見送ってくれた。
カカシさんの件でも目立って、ここでも目立って、どちらかと言うと静かに暮していたいタイプの私は肩身が狭い。
火影様に聞こえないくらいの小さなため息をもらすと、彼の後について、火影専用休憩室へと向かった。
「なんだ、弁当を持ってきていたのか。悪いことをしたのう」
「どうせあまりものですから。むしろこんなに美味しいものをご馳走していただいちゃってすみません」
休憩室では、高級仕出し弁当が用意されていて、向かい合う形で火影様と昼食を取ることになった。
弁当を持ってきていたが、こんな豪華な食事の前で余り物を詰めただけの貧相な弁当なんて絶対に広げられない。
私は食べ方に気をつけながら、少しずつ高級弁当を味わう。
火影様も、お年を召されているのに良い食べっぷりだ。
「カカシにも弁当を持たせているのか?」
「任務の時は食べる暇もないみたいなので、待機の時くらいだけですけど」
「ほー、若いもんはいいのう」
冷やかすように言う火影様に、「いえいえ、そんな」と思わず眉を下げる。
緊張はするが、相変わらず優しいおじいちゃんと言った雰囲気で居心地はいい。
久しぶりにお会いするので、声をかけていただいて嬉しいと言うのが率直な気持ちだった。
「どうじゃ、カカシとは。仲良くやってるか」
いきなり踏み込んでくる彼に、付き合いはじめたのを言っていいのか分からず、私は「とてもよくしていただいてます」とだけ答えた。
すると、彼は何故か途端に呆れ顔になる。
どうしたものかとオロオロしながら次の言葉を待っていると、火影様は「カカシのやつ、結局カナに惚れおって」とため息混じりに言い、左右に首を振った。
「何日か前に思い詰めた顔で報告しに来おった」
「ご、ご存知だったんですね……」
「まぁ予想した通りじゃ。男女が一つ屋根の下に住んで、何も起こらないわけがあるまい」
「お恥ずかしい限りです……」
「なぁに、カナが幸せならそれが何よりじゃ」
「ありがとうございます」
予想されていたと言う点に、自分のしたことが若気の至りで片付けられてしまうのではないかと猛烈に恥ずかしくなるが、火影様はそんな事もせず「安心したよ」と温かい眼差しを向けてくれた。
その言葉に私もほっと胸を撫で下ろす。
「ただ、そんな時にこんなことを言うのも心苦しいんじゃが──」
持っていた箸をそっと置き、火影様は急に真面目な顔になる。私も食べる手を止めて居直る。
「カナ、お前が向こうへ帰る手がかりが掴めた」
思わずゴクリと唾を飲み込む。
とうとうこの日がやってきてしまった。
私は鳩尾のあたりが急に鉛でも抱えたかのように重くなるのがわかった。
耳に全ての神経を集中させ、ひたすら彼の次の言葉を静かに待つ。
「ただ、それがどのタイミングでどのようにすれば良いのか確信が掴めておらぬ。あと少しのところまではきているんだが……それと、もう一つ調査中の件もあってな……」
ようやく元の世界へ帰ることが出来る。
それはとても嬉しい事のはずなのに、私の胸の中は渦を巻き始めた。見ないようにしていた現実を突きつけられ、一瞬にして穏やかでなくなる。
私はもうすぐカカシさんのそばにいられなくなる──そう思うと、私の口はすっかり開かなくなってしまった。
「まぁそれはこちらの話だからお主は気にせんで良い。それと、カカシのことじゃ」
火影様は淡々と続ける。
「カカシはな、幼い頃に父を亡くし、友を亡くし、そして成長したのち慕っていた師をも亡くした。あのようにマイペースで穏やかそうに見えて、真面目で繊細な男じゃ。それゆえ、幼い頃より心に深い闇を抱え込んでいる。ま、今は仲間やナルト達と関わってだいぶ薄れてきてはいるがな」
聞き覚えのある話だった。ご両親が亡くなった話は本人から聞いたが、そのほかの話は確かヤマタさんが言っていた話だろう。師、というのは先生のことだろうか。
そんなにも大切な人ばかりを失ってしまったら、私はまともに生きていられるだろうか。想像を絶する彼の過去に、心がチクリと痛む。
「驚くことに、カカシの闇はさらに薄まりつつある。カナ、お主が現れたことによってじゃ。しかし、お主は帰るべき世界がある。きっとカカシはまた一人になったら……」
火影様はその先を言わなかったが、何を言いたいのかはなんとなく分かった。
きっとまた一人になったら、彼の闇はさらに深まる──そういうことだろう。
私はふと、星空の下で見たカカシさんの表情を思い出す。寂しくて、哀しくて、今にも泣き出しそうな子供みたいな顔。
私が帰ってしまったら、彼は毎日あんな顔をして過ごすのだろうか。
そうだとしたら、帰るという選択肢は流石に惨すぎる。
しかし、火影様はこう言った。
「カナ、ワシは無理に帰れとも、帰るなとも言わない。お主の好きな方を選択してくれれば良い。この世界にいると言うならワシはこの国の住人としてお主を迎えるよう動くし、帰りたいと言うなら帰れるよう全力を尽くす」
こんなの、私に選ばせているように見えて誘導しているようにしか思えない。
私は「ありがとうございます」と一旦お礼を言うと、口をキュッと結んだ。ここではすぐに結論を出せない──そう思った。
「非常に難しい選択だろうが、よく考えてみてくれ。あと、この件はまだカカシには黙っておいてくれぬか」
「わかりました」
カカシさんに秘密にする理由はなんだろう。私が帰らないことを期待して、不必要に彼を傷つけないためか。それとも、彼が私を引き止めて私の意思決定を乱すのを回避するためか。
じっと考えてみても、私には火影様の真意は掴めなかった。
「最後に二つ聞きたいんじゃが、カナは……忍術は使えなかったかの?」
「はい、全く使えませんが……」
「そうか。では、双子の姉妹などはおらぬか?」
家族の顔を思い出そうとする。お父さん、お母さん、お姉ちゃん、そして私。それがしののめ一家だった。しかし、何故か顔にモヤがかかってはっきりと思い出せない。特に姉は全体が霞んでいて、姿さえ朧げだ。
どうしてか不思議だったが、とりあえず「双子ではありませんが姉はおります」と彼の問いに答えた。
それよりも、向こうに帰る時が迫っているということで頭が一杯で、そんなことを気にかけている余裕なんて少しもなかった。
「そうじゃったか。突然変なことを聞いてすまなかったな」
火影様は何故そんな質問をしたのかは教えてくれなかった。私も、あえて聞く事はしなかった。
とにかく、カカシさんのことで頭が一杯だった。
その後は、食べるのを止めていた弁当を再び頬張りながら空気を変えて、火影様が私の部署の職員の話や、私の仕事の周囲の評判などを明るく教えてくださった。まるでラフな考課面談のようだった。
私はもう全然食欲が無くなってしまい、しかし残すことも出来ず、なんとか無理やり胃に押し込んで完食をした。
おかげでとても苦しい。
少し食休みしたところで、昼休みもあと10分くらいになったので、私達は火影専用休憩室から出ることにした。
扉を出て右に誰かいる。ふと見やると、見覚えのある少年が歩いていた。
「あ!カナちゃん?!とじーちゃん?!」
「ナルトくん!」
ナルトくんは「なんで火影のじーちゃんといるんだってばよ?!」と私と火影様の顔をキョロキョロ見比べる。
すかさず火影様が真面目な顔で「ランチデートじゃ」とふざけると、「うげっ」と顔を引きつらせていた。
「お前こそなにしとるんじゃ、こんなところで」
「今日はカカシ先生ってばピンチヒッターで別の任務に急に呼ばれてさー、手持ち無沙汰になっちゃって」
へへへ、と笑うとナルトくんは不意に私の手元を注視する。
私の手に握られているものは一つ。
どう見ても弁当が入っているように見える巾着袋だ。
「あー!もしかしてじーちゃん、カナの手作り弁当食べた?!」
「んないいもん食わしてもらえるわけないじゃろ」
「私の弁当なんて全然良くないと思いますけど……」
控えめに言った私のツッコミは、同時にぐーと鳴ったナルトくんのお腹の音でかき消される。
「お腹空いてるの?」と聞けば、彼はお腹をさすって照れ臭そうに笑うばかりだ。子供らしくて可愛らしい。
「もし嫌じゃなかったなんだけど、このお弁当、よかったら食べてもらえない?」
「え?!いいの?!」
「うん、おにぎりとちょっとしたおかずしかないけど。お箸も割り箸が入ってるからそれ使って」
「やったー!カナちゃんありがとう!」
ナルトくんは目をキラキラさせて私のお弁当を受け取ると、「カナちゃん、じーちゃん!じゃーねー!」と大きく手を振りながらどこかへ走って消えていった。よっぽどお腹が空いていたのだろうか。
ナルトくんに喜んでもらえて、尚且つ食べ物も無駄にならずに済んで、一石二鳥だ。
「かわいい子ですね」
「あぁ、ただの無邪気なガキんちょじゃよ」
カカシさんはあの子にどんな風に指導しているのだろうか。きっと、あのラーメン屋で会った時みたいに色々ぼやきながらも、面倒見がいいからきっちり教えているんだろうな。その姿を想像すると、自然と口元が綻ぶ。
私の頭の中はカカシさんでまた一杯になった。
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