飲み会の翌朝、カナは二日酔いを解消しに散歩に行くと言って、帰ってくると何故か泣いたような顔をしていた。
本当ならそっとしておくのがいいのかもしれないが、昨晩ちょっとしたズルをしたオレは、まさか自分のせいで泣かせてしまったのかと焦る。
理由を尋ねるが、本を立ち読みして泣いたなんて言う。ちなみにあまり土地勘のないカナが歩いて行けそうな範囲に、この時間から開いている本屋はない。
カナは泣いたことを隠して嘘をついているわけだ。
素直に全部彼女が打ち明けてくれる性格かといえば、そうではないのは勿論わかっていたが、信頼してもらっているという自負があっただけにくるものがあった。
その日一日、カナの様子はおかしかった。
そんなにオレと一緒に住んでいることがバレたのが嫌だったのか、酔い潰れた自己嫌悪か、それともオレがキスしたのがバレたのか。心当たりが多すぎてどれが理由かわからない。
優しく話しかけてもぼーっとしているし、普段なら休みの日は部屋から出て掃除やら洗濯やら作り置きやらテキパキと活動しているのに、今日は部屋に篭ったきり出てこない。
二日酔いがそんなにひどいのかと心配になって、薬を買ってこようかと言ってもいらないと言う。
手のうち様がなく、オレはただ彼女の様子を見守るしか無かった。
二人とも休みの日は一緒に夕飯を作ることが多かったが、そんな調子なのでオレが勝手に用意してから呼ぶと、カナは少しだけ手をつけ、あとは朝の残りのスープを飲むだけだった。
流石に心配になって、カナの機嫌を取ろうと何度か話しかけてみたが、反応は薄い。拒絶されている感じはなかったので、きっとキスしたことはバレていないだろうと少しだけ安心をした。
その日は結局彼女の様子が戻らないまま終わって、翌日オレは日曜だというのに第七班で他国に赴く任務に出た。
ちなみに、この任務には援護で紅率いる八班も一緒だ。
部下は二班合同での任務に和気藹々と楽しそうだ。
オレ達はまるで学校の引率の先生のように後ろについて、周囲の様子に気を配りながら穏やかな森の道中を進む。
「子供達は遠足気分でいいな」
「たまにはこういう任務も悪くないじゃない」
「そんなウキウキしてられる年でも気分でもないね」
オレは張り切って進むナルトの後ろ姿を眺めながら言った。
ナルトはキバと楽しそうに話しながら先頭を歩いている。その後ろをサスケとサクラがナルトに文句を言いながら歩いていて、そしてそのまた後ろでヒナタとシノが静かに歩いている。
ヒナタはチラチラとナルトのことを気にしている様で、このもじもじする気持ちが今のオレにはよくわかるなぁと、心の中でこっそりヒナタを応援した。
「あの後結局どうなったの?」
あの子、狙われてそうだったじゃない、と紅は興味津々そうに尋ねる。昨日一日がやたら長く感じたせいで、すっかり紅とアスマがあの場に居合わせたことが頭の中から抜け落ちていた。
「あぁ、あの後やっぱりあのうちの一人がカナをお持ち帰りしようとしてたから喧嘩売って連れ帰ったよ」
「カカシが喧嘩なんて珍しい」
彼女はその大きな瞳をさらに大きく見開く。
それから、「なんてふっかけたの?」とワクワクした様子で再び訪ねた。
「えぇ?ふっかけたってほどじゃないけどうちのカナだーとか、オレは一緒に住んでんだぞーとか?」
「なにそれ、喧嘩にならないじゃない」
「いやいや、違うんだよ、ちゃんと前後があるんだから」
「ふーん。で、連れて帰って酔ってるあの子にキスでもしちゃったの?」
「えぇ?!」
オレの動揺した声に、ん?と子供達が全員こちらを振り返る。
教育的によろしくない内容なので、「大丈夫だー、お前らは安心して進めよー」なんて、作り笑顔で咄嗟に誤魔化すと、子供達は白い目でじろりと一瞥し、また前を向き直した。
あぁよかった、とオレはため息をつく。
「……なんでお見通しなんだよ」
「女の勘よ。もしかして、その先もしちゃったの?」
「するわけないでしょ、さすがに。オレってこう見えて紳士だし」
「まぁ、男女が一つ屋根の下暮らしたらそうなるわよねぇ。最初聞いてびっくりしたもの」
「三代目とカナに信頼されるオレだからできる任務なの」
「任務なんて、あの子と暮らしたいだけの大義名分じゃない。よく三代目様も許したわよね」
そうだ。全くその通りだ。
最初は任務だったこの役目も最早意味を成していない。
もうきっとカナだって、監視なんて気にしていないだろう。少し前から暗部の監視も外れているようだった。
おそらく、三代目が外れていいとこっそり命令を下したに違いない。すっかり彼女は里の人間として溶け込み始めていた。
だから、オレのカナのそばにいて様子を見守る役目なんてもうお役御免のはずなのだ。
こんなオレに役目があるとしたら、住居提供役だ。
オレの家に住むのは、そもそもはカナの家が見つかるまでの話のはずだった。もうかなり日が経っているし、カナが別の家に住まわせてほしいと言えばすぐにでもこの家から移れるだろう。しかし、カナもその話をしないし、三代目も彼女に確認せずに静観しているということは、カナもオレと一緒に住むことを望んでいるし、薄々三代目もそれに気づいているということか。
「話変わるけどさ、お前らって喧嘩とかするの?」
不意に頭に浮かんだ質問をポンと口に出してみると、紅が彼女の名前の通り、顔を紅く染めた。
ちょっとだけオレを責める様に、「な……!何よ急に?!」とキッと睨みながら言うと、またまた子供達が訝しげな顔をして全員こちらを振り返る。
紅が焦って、大丈夫よ!と宥めるが、ナルトとサスケの視線が冷たい。オレが何かしたと思っている様だ。
「……カカシ先生達、さっきからなに話してんの」
「先生同士の話だから。気にしないでよ、ね?」
怪しい、といった様子でナルトがじっとりとした目でオレを見る。
「ごめんね、何度も驚かせて。ほら行きましょ」と紅が取り繕うと、隊は再び動き始めた。
「もう、いきなりやめてよ!」
小声で紅が怒りながら小突く。
くノ一の肘鉄はさすがに痛く、思わず「うっ」と声が漏れた。ヒナタだけがチラッと振り返るが、すかさずニコニコと手を振って誤魔化した。
ヒナタは戸惑った様に眉を下げると目を泳がせ、二回瞬きして前を向き直す。気づいたのがヒナタだけでよかったと、小さく息を漏らした。
「これでおあいこだな」
「まったく……」
「で、喧嘩するの?」
「そりゃするわよ。付き合ってたら意見くらい食い違うこともあるでしょ」
「へぇ。お前が泣くこともあるの?」
「まぁたまにね。もしかして喧嘩したの?」
「まさか。昨日カナが散歩に行ったと思ったら泣いて帰ってきたんだ。それから様子もおかしいし」
子供達に聞こえないくらいの声で、一昨日の夜からのことを簡潔に紅に話す。
聞いている間、紅は無言で頷いて真剣に耳を傾けてくれていた。
しかし、案外彼女の感想は「そんなの、カカシが何か嫌なことをしたか、元いた世界が恋しくて泣いたか、帰りたくなくて泣いたかだろうさね」とあっさりしたものだった。
「帰りたくないなんてある?」
肯定してもらいたくて、わざと言う。
「好きな男がいたら、帰りたくないと思うんじゃない?」
「……え、」
「いたらの話よ。カカシとは限らないけど」
ふふふ、と紅が笑う。
カナが泣くのは嫌だが、オレと離れるのが嫌で泣くんだったらそう悪くもない。
カナがもしオレを好きだったら──想像して、マスクの下でぽっと顔が熱くなる。
人として好かれているのはわかっていたが、それがもし異性としても、だったらこんなに嬉しいことは無いだろう。
「そういうの、きっとオレには気を使って隠しそうだからなぁ」
「だから嘘ついたんでしょ」
「紅もそう思う?」
そういえば、と紅が思い出した様に口を開く。
「昨日ガイに街中で会ったんだけど、川原で修行してたら泣いてる女性がいたって言ってたわ」
「それがカナってことか。ガイとはカナを三代目のところへ連れて行く時にすれ違ったんだよなぁ」
「でもね、ガイったら人の顔覚えるの苦手だから本人か自信ないって言ってたわ」
聞いて、らしいなぁと笑みが溢れた。紅は続ける。
「火影様に、カカシといる時は声をかけるなってきつく言われてたから昨日も気づかないフリしようと思ったけど、カカシもいなさそうだったし、泣いてたからつい声をかけてしまった、って」
「なんで泣いてたかは言ってたか?」
「ううん、すぐ大丈夫ですって言ってどっか行っちゃったって」
「……だろうな」
ガイに話しかけられて、カナの引きつる顔が浮かぶ。
きっと、いきなりあの風貌の男に声をかけられたら少しばかり怖かったんじゃないかと心配にすらなった。
「でも、ガイが言うにはだけどね、少し離れたところにムカつくくらいいちゃいちゃしてる熱いカップルがいたんだって」
「カップルねぇ……」
カップルを見て泣くなんて、オレには想像もつかない。
二人の姿を自分と向こうにいる彼氏と重ねてだろうか。それとも、報われない恋に心を痛めてだろうか。
悩んで、後者はさすがにオレ自信自惚れすぎな気がして「やっぱり向こうに彼氏でもいるのかね」と呟く。
「一昨日の飲み会の時はなんて言ってたの?」
「いないって」
「それじゃあいないんじゃない」
「でも、そうやってはぐらかしてるだけかもしれないし」
「聞いてる限り、真面目そうな子なんでしょ?それならそんな嘘つかないんじゃない?」
うーん、と再びオレは考える。
胸の前で腕を組んで、地面を見つめながら歩くと、「よっぽど好きなのね」と紅がクスクス笑った。
「ま、女の子にモテモテでも、任務で忙しくてまともに恋愛はしてないからね、オレは」
かっこ悪い気がして、そんな言い訳をした。
人を本気で好きになるなんて、どのくらい久しぶりのことだろう。そもそも、こうやってきちんと相手のことを見て純粋な気持ちで好きになったことなんて、あったのかすらわからなかった。
「でも、あの子帰っちゃうんでしょ」
「そうなんだよなぁ」
「あの子もさ、もしかしてカカシのことを好きでもそれがネックで踏み出せないのかもね」
「それってカナがオレのこと好きって前提?」
「夕顔も言ってたよ。『一生懸命手料理作って待ってるなんて、先輩のこと絶対好きになっちゃってますよ』って」
夕顔が言っていたと言うことは、だいぶ前からオレのことを──だとしたら、もっと早くに行動するべきだったか。
「そう言う時って残りの時間を二人で過ごしたい〜とか思うのかねぇ」
「さぁ。それは人によって違うんじゃない?」
「えぇ?どうしたらいいのよ、オレ」
「素直に言ったら?」
「だって……勘違いだったら気まずいじゃないの、一緒に住んでるんだから。それにやっぱり下心あったんだとか思われても嫌だし……」
「そんなこと言ってお互いウジウジしてるから進まないのよ。バシッと言っちゃいなさいよ」
「カカシ先生たち!何二人でこそこそ喋ってんだってばよー!」
知らないうちに歩みが遅れていたのか、前を行くナルト達が少し遠くなっていた。
私事の相談事で職務怠慢なんて、忍としてあるまじき行為だ。オレは気を引き締め直して「すまんすまん、ちょっと打ち合わせを」と弁解すると、紅と二人でヒナタとシノの後ろに駆け寄った。
***
三日間の任務が終わって紅と報告書を提出し、家へ帰ろうと思うと随分と足取りが重かった。
紅に素直になれと言われたものの、こう見えてオレは繊細だから、もし素直に言って拒絶されたらと思うと考えるだけでいたたまれなくなる。
今日は平日だ。家に着くと、カナはまだ仕事をしている時間だったので、とりあえず風呂に入って身を清潔にし、任務で持ち帰った洗濯物をまとめて洗う。
そうこうしているうちに、お腹が空いてくる。
一段落して冷蔵庫に何かないかとキッチンへ向かうと、ダイニングテーブルの上に「いくつかおかずを作っておきました。冷蔵庫にあるので、よかったら召し上がってください」と置き手紙があるのを見つけた。しばらくその文字をまじまじと眺めてから冷蔵庫に向かう。
開くと、庫内で綺麗にいくつかのタッパーが重ねられており、品名のついた付箋が一つ一つに貼ってあった。
一度全て取り出して、全種類を少しずつ皿に盛ってレンジで温める。
カナはこれをどんな気持ちで作ってくれたのだろうか。想像しながら、レンジのオレンジ色の光の中でくるくると回る料理をぼうっと眺めた。
しばらくして帰ってきたカナは、すっかりいつも通りに戻っていた。
いつも通りの笑顔、いつも通りの声のトーン。目も腫れていない。
額当ても外して、リラックスした格好でダイニングテーブルで本を読んで待っていたオレの顔を見るなり、機嫌が良さそうに「なんか久しぶりな気がしちゃいますね」なんて笑っていた。
「ご飯、ありがとね。美味しかったよ」
「いえ!用意しておいてよかったです!」
「それと、仕事は大丈夫だった?」
尋ねるや否や、カナは困った様に眉を下げる。
「あぁ……その、やっぱり色々誤解されたみたいで、」
「すまないね。なんて言われた?」
「話の流れで付き合ってる……みたいな感じになっちゃったんですけど、決して断言はしてないので!」
「付き合ってない男女が一緒に住むなんて、それこそ奇異な目で見られそうだもんねぇ」
カナはぎこちなく口角を上げた。気まずいのだろう。オレにも、職場の人にも。
これ以上この件についてはあまり話したくなかったのか、突然「今日はお夕飯食べますか?」と彼女が話題を変える。
オレは彼女が聞いてきたのと同時に言いかけた「断言していいよ」の一言をゴクリと飲み込んで、帰ってきて食べたばかりだからいいやと笑顔で返した。
「食べたくなったら自分で用意するよ」
「わかりました。何か残ってますか?」
「全部ちょっとずつ貰ったから、カナの分は残ってるよ」
「あ、じゃあ残り食べてもいいですか?今日のは我ながら美味しくできたんですよね〜!特に煮物!」
先程の気まずさをかき消すようにカナが明るく振る舞う。なんだかいつも通りのようでいて、痛々しく見えてしまうのはどうしてだろう。
いっその事、紅が言うようにオレが素直に気持ちをぶつけてしまえば、彼女も変な気を使わなくて済むのだろうか。
「うん、今日のもとっても美味しかったよ。本当、カナのご飯が毎日食べたいくらい」
いつも通りの褒め言葉のように見えて、少しだけいつもとは違うアプローチを混ぜてみる。
カナは一瞬にして固まる。意識しているのが手にとるようにわかった。
それでもすぐになんとも思ってないフリを始めて、ヘラヘラと笑う。
「やだなぁ、カカシさんったら冗談が上手いんだから」
「冗談じゃないよ。本心」
追い討ちをかけるように、オレは彼女のつぶらな瞳をじっと見て微笑む。
カナの頬がほんのり赤く染まると、ぷいと不自然に目を逸らされた。
「……褒めても何も出ないですよ」
「カナの手料理が食卓に出てくればそれで十分」
これ以上彼女をからかうと(と言っても素直な気持ちを伝えているだけなんだけれど)怒ってしまいそうだったので、オレは本を閉じて「じゃあ、ちょっと部屋で休むよ」と席を立つ。
すると、カナはハッとしたような顔をして、「まさかわざわざ帰りを待っててくださったんですか?」なんて尋ねてくるから、最後の一押しで「カナの顔を久しぶりに見たかったからね」ともう一度微笑んだ。
カナは顔を真っ赤にして何も言わない。気づくと首から鎖骨のあたりまで赤みを帯びていて、わかりやすいなぁと吹き出しそうになった。
今まで見てきた彼女の反応と、この今の照れ様を見て、彼女のオレへの好意は確実だった。これはきっと自惚れではない。
でも、そうとわかっていながら踏み込めない自分が憎かった。踏み込んで、この後に待つ別れで深く傷つくのが怖い──そんな風に臆病になってしまう自分が憎かった。
「今日は久しぶりにいい夢が見れそうだよ」
そう言って廊下の方へと歩き出す。
ポンポンと彼女の頭を軽く触りながら「おやすみ」と言って彼女の横を抜けると、こうやって彼女の反応を確かめて彼女への恋心を昇華しようとしている自分がひどく弱く、惨めに思えた。
オレはもう彼女の顔を見ずに自室へと入った。
ドアを閉める途中、背後から「おやすみなさい」と震えるような彼女の声が聞こえたのは気のせいだったか。
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