頭がガンガンする。
それから遠くで鳥の囀る声が聞こえる。
あれ、私何してたんだっけ──瞼を閉じたままぼんやり考えてみる。
確か、仕事終わりに歓迎会へ行って、楽しく飲んでいた筈だ。そして、二軒目に行ってまた楽しく飲んで──記憶がない。
いや、待て待て待て。二軒目に行ってトイレに立った記憶まではある。女の子に個室の前まで一緒に付き添ってもらってそれから──
「あれ……」
まずい。記憶がない。何度思い返してもそこからの記憶がない。
途中カカシさんの夢を見たような気もするし、見ていないような気もするし、何もかもがモヤのかかったようにぼやけていてはっきりと思い出せない。
今私はどこにいるんだろう。身体は横になっているようだ。背中に硬い感触はない。しかもあたたかい。布団の中だろうか。
家だろうか、それともどこか違う場所なのだろうか。
ぐるぐる頭の中で考えて、ある時ぱっと意識が鮮明になると、私は目を見開いて飛び起きるように上体を起こした。
「家だ……」
家、といってもカカシさんの部屋だが、そこには見慣れたいつもの部屋が広がっていた。すっかり明るい太陽の光が差し込んでいて眩しさすら感じる。朝だ。
焦ってちゃぶ台の上にある時計を確認すると、朝の8時を過ぎていた。
まずい、仕事に遅刻する!と口から心臓が飛び出しそうになるが、よくよく思い出すと今日は土曜日だと気付き、また力なく布団に寝転ぶ。一気に身体が鉛のように重くなった。
しかし、一体どうやってここまで帰ってきたのだろう。
職場の人に送ってもらったのだろうか。それとも一人で帰ってきたのだろうか。そうだとしたら自分を褒めてやりたい。
元いた世界でも何度かお酒で記憶をなくしたことがあったが、その時は大抵目が覚めたら友人か同期の部屋の冷たい床か玄関の床の上だった。
そんな私が、ここまで一人で帰ってこれるわけなんてない。
あぁ、これはきっと何かしでかしているに違いない。そして、カカシさんに嫌われただろうと腕で視界を覆う。
推測するに、家に帰ってきてものすごい醜態を晒して、カカシさんがここまで連れてきてくれたのだろう。想像すると恥ずかしくて堪らない。布団に顔を埋めて大声で叫びたい気分だ。
どうやって謝ろうか。考えても二日酔いの頭ではぐるぐると同じことを考えるだけで、まるでいい案が思い浮かばない。
それに、昨晩風呂に入っていないせいか首筋がベタついて気持ちが悪い。
とりあえず歯を磨いてシャワーを浴びよう。それから言い訳は考えよう。私は重たい身体を再び起こして部屋を出た。
廊下に出ると、物音一つしない。
どうもカカシさんはまたいつもの朝の散歩に出ているようだった。料理を作ったような匂いはしないから、起き抜けで出て行ったのか。
家の中は静か過ぎて、キーンと耳鳴りがするようだった。
帰ってくる前に身支度を整えてしまおうと、浴室に駆け込む。
カカシさんが帰ってきたのは、髪の毛も乾かし、化粧も丁度終えた頃だった。
「おはようございます」と彼を玄関まで出迎えると「もう起きたの」と驚いた顔をしていた。
両腕には、朝食を買いに行っていたのか食料品店の袋を両腕からぶら下げていた。
私はそれを一つ受け取ると、一緒にキッチンまで運ぶ。
特に彼に変わった様子は無かったが、私に荷物を渡すときに「ありがとう」と爽やかな笑顔で言って、キッチンに向かうまでは無言だったので、やっぱり何かあったんじゃないかとつい邪推してしまう。
二人で冷蔵庫の前までたどり着くと、彼がせっせと冷蔵庫に食料品を詰め始める。私は彼の後ろに立って、袋の中の荷物を手渡した。
「昨日はすいませんでした……」
「え、覚えてるの?」
カカシさんは食料品を冷蔵庫にしまっていた手を止めてこちらを振り向き、さも「覚えて無いと思った」と言いたげな様子でキョトンとしていた。
私はもうこの時点で激しく後悔しながら「全く覚えていないので何かやらかしたんじゃないかと思いまして」と呟き、丸く見開かれた彼の瞳を見つめた。
この反応から想像するに、きっとよっぽど酷く酔い潰れていたのだろう。私は情けなくなった。
「それと私、どうやってここまで帰ってきたんでしょう……」
「あはは、どこまで記憶はあるの?」
「二軒目で、お手洗いに立ったところまでは覚えてるんですけど」
恐る恐る彼の様子を伺いながら喋ると、急にクスクスと笑い出す。それから、「オレがね、迎えに行ったんだよ」とまた冷蔵庫に視線を戻して手を動かし始めた。
私はやっぱり自力でなんて帰れなかったことが分かると、心中でため息をついた。この人の前では酔いたくなかった。
家で飲まないなんて言って、先日はさも分別のある女のように気取っていたが、これでは家でのコップ一杯のビールなんて、飲んでも飲まなくても同じだったなぁと数日前の自分を鼻で笑った。
「わざわざ来てくださったんですか?」
私は彼の背中に問いかける。
「いやー、日付変わっても帰ってこないからちょっと心配になって大通りのあたりをうろうろしてたら、見つけちゃってさ」
「ごめんなさい、本当に……」
「いやいいんだ」
買ってきたものが全て適切な場所にしまわれ、買い物袋がぺしゃんこになると、彼はそれを丁寧に畳んでキッチンの隅の棚に仕舞った。
私は邪魔にならないよう、ダイニングテーブルのある方へ避けた。
それからまた彼が口を開く。
「それより、オレも謝らないといけないことがあって」
「何でしょう?」
カカシさんは私の方に身体を向ける。
そして、キッチンカウンターを背にして寄りかかると、気まずそうに「一緒に住んでることをバラしちゃったんだよね」と眉を下げた。私は思わず、両手で口を覆う。
「本当にごめん。でもこれには訳があって」
「私が何かしたんでしょうか……」
「カナ、べろんべろんに酔い潰れてたでしょ?それを職場の人かなぁ、手を引っ張ってどこかへ連れてこうとしてる感じでさ。オレが連れて帰るのをなかなかそいつが納得してくれなくて」
ざっくり聞いただけで、顔からサッと血の気が引いていく。
彼は、言葉を選んでいるようだった。直接的な言葉で私を傷つけないように。
今まで酔い潰れても危ない経験が無かったからと、いかに自分がとんでもない行動をしていたかを痛感させられる。返す言葉が見つからなかった。
「もちろん未遂の段階で連れて帰ってきたから安心して。でも、来週から仕事はしにくくなっちゃうかも。ごめんね」
「私こそ、ご迷惑おかけしてすみません……」
調子に乗って迷惑をかけて、本当はもっと言うことがあるはずなのに、この一言しか私には浮かんでこなかった。申し訳無さだけで胸がいっぱいだった。
「それと、もう頼むからお酒は禁止ね。何かあったら三代目に怒られるどころじゃ済まないだろうから」
そうだった。私がこの人の家に住んでいるのは、保護と監視という任務があるからだった。
すっかりこの生活に慣れて忘れてしまっていた。
出会った頃は、彼はよく「任務だから」と言っていたのを思い出す。
言われる度、私は「あぁ、この人は真面目で責任感が強い人なんだなぁ」と思い、向けられる厚意が好意でないことを少し残念に思っていた。思えば私は、出会った頃からなんとなく彼のことを好きだったのかもしれない。
それじゃあこの両耳のピアスも、任務だから買ったのだろうか?そんなどうしようもない事を思いながら、彼が火影様から与えられている任務のプレッシャーを想像すると、以後羽目を外すような行動は一切慎もうと思った。
「もちろんです……、本当にすみませんでした」
「そんな謝らなくていいよ。無事で何よりだし。それに、面白いものも見せてもらったからね」
彼はキッチンに寄りかかったまま脚を組むと、満足そうな表情になる。
「え?」と戸惑っていると、カカシさんは悪戯をバラす子供みたいに「酔うと性格が変わるんだね」と楽しげに言った。
「歩けなくなって途中おぶってかえったんだけど、普段は真面目で控えめな感じなのに、子供みたいにはしゃいでて面白かったよ」
「あぁ……もう恥ずかしいところを……」
「あれが素?」
「そんな!ただ酔うとちょっと気が大きくなると言いますか……」
「ふふ、たまには普段もああいう感じでもいいと思うよ、オレは」
彼は何故か嬉しそうだった。
そんなに私は面白い事を言ったのだろうか。そんなに笑える言動をとったのだろうか。
だとしたら恥ずかしくて消えてしまいたい。
ふと、私が酔ったカカシさんを介抱したらどんな気持ちになるだろうか想像してみる。きっと知らない一面を見れて嬉しいだろうなぁと思った。
私は、私が粗相をしたのではなく、同じ気持ちでいてくれたらいいなとありえない事を願った。そう思わなければ、冷静でいられることができなかった。
「話を戻すけど、一緒に住んでるってことを突っ込まれたら、オレは口裏を合わせるから都合のいいように話していいよ」
「それじゃカカシさんにご迷惑が、」
「それは考えなくていいよ。この件で嘘をついて傷つく人もいないしね」
彼はまた困ったように眉を下げて笑った。
それからキッチンにもたれかかるのをやめてシンクの方を向き直し、手を洗い始める。
「それより、朝ごはんつくるけど食べる?」
「ちょっとまだ胃が重くて……」
「そう。じゃあ一応スープとか作っておくから、気が向いたらどうぞ。今日はオレも休みだから、ゆっくり部屋で休んでおいで」
「ありがとうございます」
引かれたりしてはいないのか、それとも彼が大人でそれを隠しているだけなのか結局はわからなかった。カカシさんは最後までいつも通り優しかった。
部屋に戻りながら、もう一度昨日のことを思い出す。
浮かれてお酒を飲んで、訳が分からなくなって。途中変な夢を見た。
暗い部屋で一人私が寝ていると、どこからかカカシさんの声がして私を呼ぶ。姿は見えなかったが、左手があたたかくなって、やがてそのぬくもりは唇へと移っていった。
あれは夢の中で確かにカカシさんと確信していた。
朝起きて自分の布団に寝ていたのだから、ぬくもりもキスも、まごうことなき夢であることはわかっていたが、嬉しくて嬉しくてたまらなかった。何度も何度も、頭の中でその熱と感触を繰り返し思い出した。
部屋は私が朝起き抜けたままで、アルコールの臭いが重苦しく充満している。私は窓を開け、換気をした。
今日は湿度が低く、窓から心地よい風が抜ける。いい天気だ。
二日酔いのときは、水分をよくとって散歩をするといいと聞いたことがある。
私は布団を畳んで、シーツや枕カバーを洗濯機に突っ込むと、キッチンで朝食を準備しているカカシさんに一言言って散歩に出た。
外の空気はからりとしていて、呼吸をするたび少しずつ身体の中の残ったアルコールが抜けていくようだった。
たっぷりと朝の透き通った光が全身に降り注ぎ、その熱でうっすらと肌を湿らせる。
私は近くの食料品店に入ると水を買い、時々それを飲みながら近くの川沿いの堤防を歩いた。
堤防は川から二段高くなっていて、間には河川敷が広がっている。キラキラとゆったり流れていく水を、斜め上から眺めてただひたすらにぼーっとした。
休みの日だからか、子供や家族連れが多い。
カカシさんは明日から三日間任務に出るという。
書状を他国へ届ける任務らしいが、少々危険が伴うそうで、もしかするとそれ以上に時間がかかるかもしれないと先日言っていた。
不意に、河川敷で楽しそうにピクニックをしている若い恋人同士が目に入った。レジャーシートの上で女が座り、男が膝枕をされながら話をしている。
公衆の面前でよくいちゃつくなぁと思いながらも、私は羨ましいなぁとため息をついた。
元いた世界にも彼氏はいないし、ここでも叶わぬ片想いをして、挙げ句の果てには好きな人が夢に出て喜ぶなんて、なんて哀しいのだろう。
昨日は酒で失敗もしたし、本当に自分に嫌気がさす。情けない。
いっそのこと、思いっきりフラれてしまえば楽になるかと言えばそうでもないだろう。もう何遍このことを考えただろうか。うじうじネチネチ、また自分を一つ嫌いになった。
それにカカシさんは、私をフるにしても、キッパリと諦めがつくような言い方をしてくれないような気がする。私を傷つけないために、私を泣かせないために。
いずれにせよ私はこの世界をモヤモヤしながら生きていくことには変わりないのだ。
いつかはカカシさんに二度と会えなくなる日が来るし、いつかは彼のことを忘れなければならない日が必ず来る。そう思うと、鼻の奥がツーンとして目頭の辺りがじりじりと熱くなった。今にも声を上げて泣き出したかったが、あまりにも人が多い。
私はどこか座って落ち着ける場所がないかと辺りを見回すと、少し先に河川敷に降りられる階段があるのが見えた。早足で歩いて辿り着くと、なるべく下の段の、目立たなそうな隅に腰を下ろした。
ふぅ、と一息ついて、ボトルに入った水をゴクッと飲む。
私は先程のカップルが気になって元来た方を見ると、女が男の頭を愛おしそうに撫でていた。
私はまたため息が出て、同時にぽろぽろと涙をこぼした。カカシさんも、好きな人にはあぁやって甘えるのだろうか。
私はほとんど彼のことを知らない。いつも彼が話してくれるのは楽しい話と、当たり障りのない世間話ばかりで、あのおばさんが言っていた彼の暗い過去や、彼の本心を聞いたことはなかった。
それは当然私が知る必要のないことで、知る必要のある存在になれないことが私は哀しかった。
風が涙に濡れた頬を撫で、ひんやりとする。私はそのまま静かに、ひっそりと泣いた。
鼻が詰まるので、口で呼吸をする。喉が乾くので、何度も水を口に含んだ。あっという間に水のボトルは空になった。
しばらくそうしながら鼻をすすっていると、「お嬢さん、どうしたんですか」と低い声で呼びかけられた。
まずい、誰だろう。手で涙を拭って声のした方を振り返ると、おかっぱ頭で濃ゆい眉毛をした見知らぬ男が立っていた。強烈な見た目をしており、一瞬にして全身に緊張が走る。
ヤバイ人に声をかけられてしまったと私は急いで立ち上がり、「大丈夫です!」と男を刺激しないように後退りをした。
「泣いていましたが、何か悲しいことでも?」
「いえ、本当に大丈夫ですから!お気遣いありがとうございます!」
「何か困ったことがあったら、この木ノ葉の気高き碧い猛獣、マイト・ガイがきっと力になりますよ!」
私は「ありがとうございます、用事があるので失礼します」とお辞儀をすると、サッとその場を離れた。
男は見た目に反して普通の人だったのか、私を追いかけてくる事はしなかった。
本当はもう少し外の風に当たりたいと思っていたが、また街中であの人に遭遇しても怖いので、まっすぐ家へ帰ることにした。
空のボトルは途中のゴミ箱へ捨てて帰った。
玄関のドアを開けると、カカシさんが丁度彼自身の部屋に入ろうとドアを押し開けているところだった。
私の顔を見るなり、目を丸くして「どうしたの?!」と動作を止める。
「まさか、昨日の職場の男にでも出会した?!」
「いや、全然。ちょっと本を立ち読みしてたら感動してしまって思わず、」
あはは、と笑って誤魔化す。私は家へ上がるとそのまま顔に笑顔を貼り付け、彼の横をぬけて手を洗いに洗面台に向かう。灯りをつけて、ぱっと鏡に映った私は、目の縁と鼻先がほんのり赤く、いかにも泣いた顔をしていた。
私は手を洗いながらまじまじとその顔を見つめた。めんどくさい女──我ながらそう思った。
洗い終わった手を、壁にかけてあるタオルで水気を拭き取ると、電気を消して再び廊下に出る。
カカシさんはまだ部屋に入り切っておらず、ドアから体を半分のぞかせていた。
「何でもオレには言ってくれていいから」
そう言うと、彼は優しく微笑んで部屋に引っ込んでいった。
その背中に、「言えるわけがない」と私は心の中で反抗した。
また喉が渇いたので水を飲みにキッチンへ行くと、火の付いていないコンロに、蓋をした鍋が置いてあった。そっと蓋をあけて中を見てみると、コンソメのいい香りがする野菜スープだった。まだ作り立てなのか、湯気が立っている。
私はお玉とスープカップを用意すると、一掬いしてカップに注ぎ入れた。それからカップに口をつけ、味見をしてみる。
野菜の水分が出たのか、少し塩気が少なくて優しい味がした。スープは喉を通ると、泣いて塩分を失った私の身体にすっと染み込んでいく。
まるで彼の優しさが詰まっているような気がして、私はまた少し泣きそうになった。
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