街中がピンクのハートや赤色のリボンに埋め尽くされる華やかな季節がやってきた。
世の中の女性達──特に10代の女の子達は色めき、街のいたるところで楽しそうにチョコレートやお菓子を手に取る姿が見られた。
「なまえさんはバレンタイン、カカシ先生に何かあげるんですか?」
キラキラと目を輝かせるサクラちゃんは、突如私の心へ爆弾をぶち込む。一瞬にして皮膚の裏側にある筋肉がぎこちなく固まった。
仕事が終わって食料品店で買い物をして帰る途中、サクラちゃんに出くわした。
こちらで自分の籍をきちんと持って暮らし始めてしばらく経って、この里の人たちともずいぶん馴染んだ。最初は「カカシ先生の彼女」というポジションに各所から好奇の目で見られていたようだったが、次第に慣れたのか、近所のよく知っているお姉さん(お姉さん、というのは少々聞こえが良すぎるか)として溶け込んでいった。
私は本当にこの里の人間になれたのだ。いや、元を辿ればこの国の人間であったことは確かだが、しばらく失っていた自分の「居場所」が出来てとても嬉しかった。
いつの間にか豊かになった人間関係の中でも、特に親しげに接してくれたのがサクラちゃんだった。
彼女はフレンドリーに話しかけて来てくれるのに、どこか彼女なりの「大人」と「子供」の線引きをしているようで、それがとても可愛らしく思えた。
サクラちゃんは班での任務が終わった帰りらしかった。
彼女曰く、カカシさんは今日の任務とは別件の話で火影様に呼ばれているそうだ。
今日はもしかして帰りが早いのかなと気にはなっていたものの、わざわざ聞くのもどうかと口に出せずにいたので、思わず前のめりになっていた。
そんな時に、サクラちゃんは何の前触れもなく超重量級のボディーブローを私の心に打ち込んできたのだ。
「うん、そうだね」
二人で並んで通りを歩きながら、頭の中がじわりじわりと灰色で埋め尽くされる。一つのことだけしか考えられなくなって、こんな簡単な問いかけにいい返事が思い浮かばない。ついそっけなくなる。
左手に下げた食料品の入った手提げ袋がより一層重たくなったような気がした。
「やっぱり手作りチョコとかケーキですか?」
サクラちゃんは体ごと私の方を向く。熱い眼差しにたまらず、私は視線を右上に逃した。
「まぁ、そんな感じかな。カカシさんにバレたくないから、ここでは言えないけどね」
「サプライズなんですね!素敵!」
「そういうわけでもないけどね……あはは、」
はしゃぐ彼女を横目に、数日後にまで迫ったバレンタインデーの事を想う。それだけで頭が締め付けられるような心地がした。
私はどうしてもカカシさんに何をあげたらいいかわからないこのイベントに、もう一ヶ月以上心を乱されていた。
カカシさんは甘いものが得意でない。一緒に生活していたらこれはよくわかる。
まず、家に甘いものが置かれていないし、買ってきたとしても私の食べるペースでしか減らない。しばらく一緒に暮らしているのに、一緒に甘いものを食べて美味しさを分かち合ったこともない。
以前大福を食べて胃もたれを起こしてそうで──これは後から聞いたので、当時はわからなかったが──、私がバレンタインだからと言って何かをあげる事で、彼を困らせてしまうのではないかと危惧していた。
そうは言っても、イベントごとには乗っかりたいのが乙女心というものだ。好きな人に喜んで貰いたい気持ちもありながら、好きな人に可愛らしいお菓子を渡す、そんな甘い振る舞いにもちょっぴり憧れがあるのかもしれない。
押し付けがましいのは重々承知だが、何せ恋人になってからはじめてのバレンタインなのだから、彼が甘いもの嫌いだからとスルーしてしまうのは残念すぎる。
といっても、いい案が浮かぶわけでもなく。ただただどうしたらいいかわからないまま、日に日に迫り来るバレンタインにジリジリと焦がされていた。
「いいなぁ、カカシ先生はなんでも喜んでくれそうで」
突然サクラちゃんが唇を尖らせる。
「そうかなぁ?」
思いがけないことだったので、私は意図が読みきれず曖昧に答えた。
「だって、カカシ先生って好き嫌い無さそうじゃないですか。野菜も平気でバリバリ食べるし」
「えぇ?カカシさんも好き嫌いはあるよ。天ぷらとか」
「野菜」というところが子供らしいなぁ、と笑いを含んだ声で返した。
「そうなんですか?意外ですね。でもいいじゃないですか、別に甘いもの苦手じゃないし」
ぎくりとして、口をつぐんだ。サクラちゃんは私が全身こわばっているのに気づかない様子で続けた。
「私の好きな人、甘い物が嫌いなんです。きっとあげても無理して食べてくれるようなタイプじゃないし、ウザがられそうだし、やめておこうかなって思ったりもしたんですけど……やっぱり他の女の子があげてるの見たら後悔するなって思って諦めきれないんです!」
彼女も同じように悩んでいたのか──残念ながら私にはどうもしてあげられないなぁと脱力した。
そんな私の力加減と反比例するように、サクラちゃんは「こういう時、何をあげたらいいですかね?!」と両手に拳を握ってぐいと迫ってくる。
「う……うーん、それは難しいよね……」
「もしカカシ先生が甘い物が苦手だったら、なまえさんは何をあげよう!って思いますか?」
一番悩んでいることを問いかけられ、頭の中にあの灰色が染み込んでくる。視線はサクラちゃんからくすんだ茶色の地面に落とされ、私は小さく唸った。
「……お酒とか?」
「えー、まだ私達お酒飲めないですよ」
うっかり、未成年の質問に対して酷い回答だと反省した。
「甘くないチョコとか、甘さ控えめの焼き菓子とか?」
「食べてくれるかなぁ、」
彼女に視線を戻すと、曇った眼差しで私を見つめていた。
「相手の苦手の度合いにもよるから、本当に難しいよね。チョコでも、香りが良くてビターなものなら好きって人もいるだろうし」
「そうですね……」
「でも、きっと嬉しいとは思ってくれるんじゃないかなぁ。私が男の子だったら、女の子がくれた物ならありがたくもらって、それが例え苦手でも少しは食べてみようかなぁと思うけど。それに、やっぱり乙女心としては女の子っぽいものをプレゼントしたいよね!」
「そうなんですよ!」
彼女の顔の周りに、パッと花が咲く。
こんな素敵な女の子にチョコを貰えるのなら、私が男なら例えどんなに苦手でも気持ちは嬉しいんじゃなかろうかとしみじみと思った。
「けど、やっぱり好きな人に喜んで貰いたって気持ちが強いなら、好きな人の好みとか、立場とか、状況とか色んなことを掛け合わせて考えてみたらいいんじゃないかな」
まるで自分に言い聞かせているかのようだった。
私がずっとぐつぐつ煮え切らずにいたのは、自分の欲求と、彼に喜んで貰いたいという相反する感情の中でぐるぐる巡っていたからだった。
どうするのが一番良いのか、今の私にはなんとなくわかりそうな気がした。
「掛け合わせる……」
歩きながら、神妙な面持ちでサクラちゃんが虚空を見つめる。
しばらくそのまま歩いていると、突然彼女が私に焦点を合わせ、「なまえさん、私何となくいい案が浮かんできました!」と声を弾ませた。
「えっ、本当?!」
思わず私もちょっぴり大きな声が出る。
「はい!帰って早速試作してみます!」
サクラちゃんはキラキラと顔を輝かせて、私に「材料買いに急ぎます!なまえさん、ありがとうございました!また!」とお礼を言って駆け足でその場を去っていった。一片の迷いもない、すっきりとした表情だった。
あまりの唐突さに私はついていけず、呆気に取られたまま「気をつけて……」とぽつりと呟いた。彼女の足元からわずかに立ち上った砂埃にかき消されそうなほど小さな声だった。
さて、これで彼女は一抜けだ。
私は荷物を一度ぐいっと持ち上げ、手提げ袋を右手に持ち直した。ずっと同じ位置で下げていたから、手のひらに持ち手が食い込んで痛かった。同時にため息が出る。
何をあげたらいいのか何となくわかったとはいえ、じゃあ何をどうしたらいいのか具体的なところまではさっぱりだった。
今、私に足りていないのは少しの閃きだ。考えろ、私──
道の両脇に目を走らせる。多種多様な店がある。そして店毎に異なった商品が綺麗に並べてある。こんなにたくさんあるのに、カカシさんにぴったりのものが無いなんて。
ふと、通りにある書店が目に留まった。いつだかに忍術書を買った、古い本屋だ。
カカシさんも昔、私のために雑誌を読んでカフェサンドを作ってくれたっけ──そんな懐かしいことを想いながら、何か参考になるものが無いかふらりと店先へと立ち寄った。
そこにはバレンタインらしく、様々なお菓子作りの本が平積みされていた。美味しいと評判のお菓子屋さんの特集が組まれた雑誌などもある。
私はそのうちの一番目立つ表紙のもの手に取ると、ぱらぱらとページをめくってざっと目を通す。
とある一ページで、私の指は止まった。
美しいのに甘く無い、という文句。これだ、と思って私はその本をいそいそと会計へ持っていった。
知らない誰かが私を見たら、先程のサクラちゃんと同じような表情をしているのだろうか。
「カカシさん、あの……」
バレンタイン当日。丁度、そろそろおやつの時間になる頃だ。
今日は珍しく暇なのか、カカシさんは部屋着姿でダイニングチェアにくつろいだ様子で腰掛けていた。いつもの愛読書を片手に、シンプルな黒のマグカップに口をつけ、少しだけ熱そうに顔を歪めてコーヒーを飲んでいる。
「ん?どうした?」
真っ赤なリボンをかけた白い小箱を後ろ手に持ち、頬のこわばりと胸のつかえを感じながらテーブルを挟んだ正面に立って彼を呼ぶと、本から顔を上げ、私を見た。途端にニヤリとした顔つきになる。
「あ、その顔」
「え?」
「もしかして、くれるの?バレンタイン」
あっさりバレてしまったなぁと私は耳の辺りが熱くなる。
カカシさんは持っていた本をテーブルへ置いて、私の方へ身体を向け椅子へ座り直す。上半身の体重をテーブルへあずけるように前のめりになっていた。
「なんだ、バレちゃいましたか」
「そりゃあ今日はバレンタインだからね。日付変わったあたりからずっと楽しみにしてたんだから」
「それはちょっと早すぎですって」
思わず口元が緩む。「笑ってくれた」とカカシさんは少し嬉しそうだった。
「何かなぁ。楽しみ」
「そんな、手作りなので大したものではないですが」
「手作りか。嬉しいなぁ」
カカシさんは目を細め、嬉しさを噛み締めるように呟いた。本当に幸福そうで、私はこんな彼の表情が見られたことがたまらなく幸せだった。
大切な人の幸せは、そっくりそのまま私の幸せだ。
テーブル越しに箱を手渡すと、彼はそれを大切そうに両手で受け取る。愛おしそうに、しばらく箱を見つめていた。
私はすぐそばにあった彼の向かいのダイニングチェアへ腰を下ろし、じっと彼の様子を見守った。
「あぁ、なんかグッときちゃうな。気になるから今開けてもいい?」
私は急に緊張してきて、黙って頷いた。
「何だろう。バレンタインだし、チョコ?」
「甘いものは苦手だと思ったので色々悩んだんですけど、これなら食べられるかなぁと思いまして……」
彼の白くて指のすらっとした美しい右手が、丁寧にリボンを解く。そのまま片手の内にリボンを収めると、優美な指づかいで蓋を開いた。彼は中身を見るなり、小さく「わぁ」と驚いたような声をもらした。
「とっても綺麗だね。なんていうの、これ」
視線は箱の中へ向けたまま尋ねる。
「オランジェットというお菓子です。輪切りにしたオレンジを洋酒のシロップに漬けて、ビターチョコを少しだけかけてみました」
「へぇ、美味しそうだね。それにとっても綺麗だ」
カカシさんはリボンをテーブルの上に置き、右手の人差し指と親指で一枚つまんで光に透かせて見せた。
チョコレートのかかっていないところはガラス細工のように艶のある透き通ったオレンジを色をしていて、我ながら上出来だ。
綺麗なまぁるい形は、今の私達の幸せをそっくりそのまま形取っているような気がした。どことなく、″あの日″の赤い満月のようにも見える。
「なんか、食べるの勿体ないなぁ」
「食べて欲しくて作ったんですよ、食べてください」
「だって飾り物みたいに綺麗だし……あ、これはいい意味でだよ。それに、なまえの手作りだし」
「カカシさんが食べたいと言ってくれればいつでも作りますよ」
「ありがとう。それじゃあいただこうかな」
カカシさんは持っていた一枚を口に運ぶ。チョコレートがかけられている部分との境目を真ん中にして、バランスよく一口。
「美味しいね。果肉のところは洋酒の香りがとっても良くて、チョコのところはほろ苦くてとってもいいよ」
「お酒との相性もいいみたいですよ」
「そうだね、確かにウイスキーとかに合うかもしれない」
よくわかってるじゃないの、彼がにっこりと微笑む。
つられて私も顔の隅々まで笑顔になるのがわかった。
「なまえったらバレンタインなんて準備してる雰囲気なかったから、あんまりそういうの興味ないのかなって思って、期待しないふりしてたんだ。けど、オレが想像してたのより遥かに素敵なものを貰っちゃったな」
「よかったです。甘い物なんて迷惑になるかと思って結構悩んでたんで」
「別にオレはなまえがくれたら何でも嬉しいのに」
「でも、苦手な物なんて貰ったら……」
「それとこれとは別でしょうよ」
すっと彼の左手が伸びてきて、私の頭を優しく撫でた。
「大事なのは気持ちだからね。さてさて、ホワイトデーはどうしようかなぁ。何か欲しいもの、ある?」
「あまり気をつかわないでください。あげたくて作ったようなところもあるんで」
「いやいや、そういうわけにはいかないでしょうよ」
眉をハの字に下げ、困り顔で言った。やっぱりカカシさんは優しい。
喜んでもらえたことに素直に喜びを感じつつ、私は悩みに悩み抜いたバレンタインが成功し、気づかないうちに身体が軽くなっていた。頭の中の灰色もどこかへ抜けて、バレンタインにふさわしい甘く透き通った薄桃色に塗り替えられていた。
「私はなんでも嬉しいですよ」
心の底からそう思った言葉をぽつりと呟くと、彼は「あら、そりゃオレと同じだ」と嬉しそうに言った。
もう一つ、と再び彼が摘んだ薄くて丸いビードロのようなオレンジは、やっぱりキラキラと輝いていてた。温かい部屋の中、二人の幸福な気持ちでゆっくりと満たされていく。
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