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「うわ」

少し陽が落ち始めた頃、コンビニを出てすぐの駐車場脇のスペースでのことだった。先程買ったばかりの缶チューハイのプルタブを、プシュッといい音をさせて開けていたら、会いたくない人に会ってしまった。それでそんな声をあげたのだった。

「お前、またそれやってんの?女としてどうなのよ」
「いいでしょ、疲れてんだから」 

それ、というのはバイト帰り、コンビニに寄って缶チューハイを飲みながら家路に着くことだ。今日はつい先日、新作のレモンチューハイが出たから楽しみにしていた。

カカシは前に、同じサークルにいた同学年の男の子だった。
元々サークルに顔を出す事は少なかったが、もう半年くらい前に辞めてしまった。だから会うのは週一回ある必修でもない一般教養科目の授業と、こうやってたまにバイト帰りに鉢合わせる時くらいだった。

「なんかうまそうだな、一口ちょうだいよ」
「いや」
「ケチ」

だからそんなに仲がいいわけでもなく、たまに会う友達──いや、どちらかというと知り合い程度の関係に近かった。酒の席を一緒にしたのも数回程だろうか。しかし、彼はなかなか馴れ馴れしいところがあって会うとこんな感じでちょっかいを出してくるのだった。
本来なら迷惑がって寄るコンビニを変えるところだが、私には一つだけ変えない理由があった。
カカシをなんとなくいいな、と思っていたからだ。
どこがいいかと言われたら少し言葉に困るが、私が思う距離感より馴れ馴れしくされても不快に思わない空気感や、間の取り方の上手さが心地よかった。それ程深く話したこともなかったが、その心地よさを本能的に感じていた。
それでも、素直にその感情に従えないのにはきちんとした訳があった。
彼は、とにかく顔がいい。顔がいいから、それに魅せられてそう感じてしまっているのではないかと思えてしまい、私は躊躇していた。
サークルでの様子を見ていても、相当数の女の子に人気があるようだった。
飲みの席に行けばすぐに周りは女の子だらけになるし、アプローチだってたくさんかけられていた。それを見て、周りの男の子達は素直に羨ましがる人もいれば、嫉妬して彼の悪口を言う人もいた。近づこうとすれば「あいつのこと好きなんだろ」とすぐに揶揄する人もいた。
しかし、カカシはもれなく男にも感じが良かったので、悪口を言う奴らは段々と淘汰されていった。

「じゃあいいや、オレも買ってくるからちょっと待っててよ」
「え?私もう帰るんだけど」
「いいから、ちょっと待ってって」

私はチューハイの缶に口をつけたまま、調子良く手をひらひらと振るカカシをじっと目だけで追う。ガラス越しに、どの酒を買うか選んでいる横顔さえかっこよくて私はため息が出そうになった。
どうしてこうも魅力的なんだか──
中身をよく知らないまま見た目がタイプというだけで恋に落ちれば、後は減点方式で長く続かないのではないか……とそんな風に思う。
それに、こんなに素敵な彼だから平々凡々な女なんて目にも留まらないのだろう。彼に想いを寄せるだけ無駄だろう──私は心の中で自分で自分を嘲笑った。

「お待たせ」

私は待っていたというより見惚れていたに違かったが、カカシはまるで私が彼が戻ってくるのを心待ちにしていたかのような口ぶりで言った。そうか、私は彼を待っていたのかと錯覚しそうな程だった。
戻ってきたカカシは、左手にずっしりと重たそうな大きな袋を下げていた。一体一人でどれだけの酒を飲むと言うのか。
そこから一つビールの缶を取り出すと、軽やかな手つきでプルタブを引いていい音をさせた。そしてすぐに口元へと運ぶ。

「夏の暑い時に飲む酒も旨いが、涼しくても酒は旨いな」
「人のこと批判しといてなによ、それ」
「批判?そんなこと言ってないけど」
「言ったでしょ、女としてどうなのって」
「それは聞いただけじゃないの。オレはそういうお前の男らしいところ、嫌いじゃないよ」
「嘘おっしゃい、それに男らしいって女の子に言う言葉じゃないし」

「ケッ」と顔をしかめ、私はまたレモンの香りのするチューハイを喉へ流し込んだ。口の中でシュワシュワとはじけて、鼻へと爽やかな香りが抜けていく。それから口内の粘膜を刺激しながらどんどんと身体の下の方へ降りていった。
いつもはもう少しゆっくり飲むのに、今日は若干の気まずさからペースが早い。いつの間にか缶が軽くなってきた。このままじゃあ楽しみにしていたのにあまり味わえずに終わってしまう。
私は今日は退散しようかと考えた。しかし、カカシは私がそう決断するのに余計なことを言いはじめる。

「嘘じゃないってば。ねぇ、今日はこんな天気も爽やかだし、どこかで飲まない?」

私は少しだけ驚いて、缶の中へ「え」と心の声を小さくもらす。

「やだ?」
「二人で?」
「別に呼んでもいいけど、待つの面倒くさくない?」
「まぁ……」

もっと言うなら、本当はもうすぐに帰ってメイクを落としてベッドにでも横になりたいくらいだった。けど、それを言わなかったのは、いや、言えなかったのは、ほんの僅かな彼への好意故に違いなかった。

「じゃあ、どこにしよっか」

カカシは私の返事をはっきりと確認せずに話を進める。まるで私が二人で飲むことを躊躇しているということなんて頭の片隅にも無さそうだった。
上手いこと流されて、わたしはつい「家のすぐ近くの公園……?」と返事をしてしまう。

「この時間はお迎えのお母さんとか来るからちょっとね」
「うーん……じゃあ河川敷の階段とか?」
「あそこ虫が多いんだよ」
「えぇ?」

じゃあ、場所なんて無いじゃない──そう喉まで出かかって、私はハッとした。これは無いと見せかけて彼の都合の良いように誘導しているのだ。

「んー……そうだ、もっといいところあるじゃない。例えばお前んちのベランダとかさ」

カカシは前に一度、私の家に来たことがあった。もちろん一人で来たわけじゃない。
私の家は駅から近い。スーパーにもコンビニにも近くて便利で、そこそこ片付いているからか、よくサークルでの家飲みの会場にされていた。
されていた、と言うと嫌そうに聞こえるが、そう嫌いでもなかった。一人暮らしは寂しいし、みんな帰りはきちんと片付けて帰ってくれる人たちばかりだったので私も家飲みは楽しみだった。
カカシはサークルに来なくなる直前に開催された、四月頭ごろにうちへ来ていたす
その際、途中で喫煙者の先輩とベランダへ出て行ってしばらく戻ってこなかったことがあった。ベランダが気に入ったのだろうか。

「えっ、私の家?」
「家っていうかさ、ベランダよベランダ。オレ、あそこ気に入っててさぁ。爽やかな秋の夕暮れに景色眺めながらのーんびり飲みたいってわけ」

男女二人、家でお酒を飲むには随分とまったりした口調だった。「余計なことはしません、変なこともしません」そう私を言いくるめるようなわざとらしさは全く感じられないと言えば嘘になるが、こんなに魅力的な彼が、バイト帰りにコンビニで一杯やっていくおじさんみたいな私を、酒の勢いでどうにかするなんて考えられはしなかった。ましてや、女なんて選り取り見取りの彼が、こんな手近なしみったれた私なんかで済ませるなんて。

「じゃあ、誰か呼ぶ?」

変に期待していると思われても嫌なので、私は聞いた。

「好きにしてちょうだい。ま、ベランダは二人が限度ってとこだろうけど」
「それって、呼ぶなってこと?」
「そういうわけじゃないけど」

こういう時、なんの好意もない相手ならば「家には呼ばない」とすっぱり斬れるのだろう。私もこれでも恋をしているのだなぁ、となんだか自分の中の女に無性に悲しくなった。
そして深く考えることを放棄した。別に、何かあると決まったわけじゃあるまい。良いじゃないか。それに何かが起こったとしても、若気の至りやら夏の終わりの思い出として上手く片付けられるんじゃないかと思った。
秋が深まれば私達は、就職活動という多忙の渦の中へと飛び込むのだから。
彼との縁を経つのはとても簡単なことだ。単位は足りそうだから授業は出なければいいし、このコンビニだって寄らないで別の道を通れば顔を合わせずに済む。だから、何か過ちを犯してしまったとしても、彼を忘れるなんて容易いはずなのだ。

「まぁいいや……いいよ、そのかわり夕飯前には帰ってね。観たいドラマがあるから。あと、一応言っとくけど部屋の中では寛がないでね」

それでも私は少しだけ予防線を張った。

「大丈夫、飲んだらさっさと帰るよ」

カカシは相変わらずのんびりした口調で笑った。

つまみは沢山あったので、私達は何も買わないでそのまま私の家に向かった。家飲みが頻繁に開催される私の家は、いつも誰かしらが持ってきて食べきれなかったつまみが置いてある。おかげでお菓子にはいつも困らない。
カカシと歩くのは、なんだか変な感じだった。皆で会うのは何回もあったけれど、二人きりになったことはなかったから嫌にドキドキした。デートにしては色気がないけれど、変な緊張感があった。おそらく、緊張しているのは私だけだっただろう。カカシは相変わらず余裕の表情で、機嫌が良さそうに鼻歌を歌ってコンビニからの道を歩いていた。



「やっぱりいい眺めだなぁ、ここ。春は向こうの公園の桜が見えてさ、それがすごく良かったんだよ」

私の部屋のベランダには、脚の高い小さな木製のミドルブラウンの丸テーブルと、セットの椅子を二つ置いている。私達は、そのテーブルへつまみと缶のアルコールを並べられるだけ並べて、お互い遠くの景色を見ながら酒盛りをした。
陽は多分落ちていて、世界は水色だった。空は昼間の青空とは違う彩度の低い水色で、グレーがかった紫の雲と夕焼けの赤さを染み込ませたピンク色の雲がぐちゃぐちゃに浮かんでいた。部屋は上から二番目の階なので、眺めはとても良かった。

「まぁ確かに。春はいいかも」
「この空だって最高じゃない」

カカシを見ると、空を見て満足そうに微笑んでいた。
私はその笑顔に、素直に「連れてきて良かった」と思った。

「ところでこれ」

突然カカシがテーブルに手を伸ばした。見ると、安いライターを掴んでいる。

「危ないよ、置きっぱなし」
「あ、ごめん」

私は受け取ると、服のポケットへとしまった。

「定期的にタバコ吸いにくる奴でもいるのか」

カカシは私をじろりと横目で見ながら聞いた。真顔だった。

「いや、こないだみんなで飲んだ時に誰か忘れてったみたい」
「ふーん。まだサークルいるんだ」

私が答えると、あっさりとした返事だった。

「いるよ。まぁ、もう就活だからそろそろうちも静かになるだろうけど」
「そうだな、二日酔いで説明会遅刻なんて目も当てられないからな」

ははは、と楽しげな声で彼は笑った。こうしている間にも陽はどんどん地平線の彼方へと引っ込んでいく。

就活の話を皮切りに、私達は意外と話が弾んだ。あまり深く話をしたことがなかったから知らなかったが、本が好きなところや価値観、それから考え方が似ている気がした。話していて、まるでずっと前から友達だったような錯覚をするくらいに。
前から心地よいと感じていた感覚はこれだったのか、と話しながら終始感心していた。

気づけば、すっかり夜になっていた。夏の終わりとはいえ、夜はとても冷え込む。
まだ酒も残っていたので、「部屋で寛がないで」と言っておきながら私は部屋の中へ入るよう彼を促した。
カカシは一瞬驚いたような顔をしていたが、私の滲み出る楽しげな雰囲気を察したのか、素直に従った。
それから私達は、ベッドの方に背を向け、ローテーブルの前に座ってテレビ見ながら飲み続けた。深く酔うことはせず、ほろ酔いの状態が続くように、途中でお茶を挟んだり、ジュースを挟んだりして一番いい状態を保ちつづけた。
そのせいもあってか、私達はさらに盛り上がった。バラエティ番組を見ながらあーだこうだ言って、くだらない事でゲラゲラ笑い合って、互いによくなじんでいた。酔いのせいなのだろうけれど、永遠にこの時を続けていられる気がした。

しかし、そんなわけもなく。
テレビを見ていると、私達はなんとなく一瞬静かになった。別に意図的にでもなく、本当にたまたま二人とも話題が無くなって、ぼーっとしていただけだったと思う。
私も、会話が途切れても別段違和感を感じる事なく、近くの小包装のチョコレートに手を伸ばし、包みを破いて口に放り込んでその味を堪能していたところだった。

「あ〜、酔った」

不意に、右隣に座っていたカカシの頭が、テレビの方を向いたまま私にもたれ掛かる。
この空気は嫌だ──きっとこれは、甘い空気を醸し出そうとしている。本能的にそう感じると、私は無言でカカシの頭を押し返そうか迷う。しかし、どこか嬉しく思っている自分もいて、思うように身体が動かなかった。
どうしようもないので、私はまたチョコレートの包みに手を伸ばした。
すると、今度は彼の左腕が私の腰へと回される。心臓が強く脈打ち始める。耳の奥でドクドク鳴って、首筋のあたりが熱くなる。
これには流石に私もまずさを感じ、口を開いた。

「……そうやっていつも女の子をその気にさせてるの?」
「いつも?まるでオレが誰にでもやってるみたいじゃない」

カカシはとぼけたように言った。

「たまに聞くけど、そういう噂」
「へぇ、そうなんだ」
「本当なの?」

カカシの方は見ずに、私はテレビへと視線を固定したまま聞いた。顔を見るのは少しだけ怖くて出来なかった。
彼はしばらく黙ったあと、低めのトーンで「お前はその噂を知って、オレに抱かれてもいいと思って部屋に上げたわけ?」と尋ねた。
あまりにもストレートな物言いに、私は何も答えられなかった。

「ねぇ、答えてよ」

彼の口からそう言い放たれた瞬間、視界が大きく揺れた。
次の瞬間にはもう、ベッドの方へ向けられていた後頭部は床に敷いていたラグの上についていて、私の視界は私に覆いかぶさるカカシでいっぱいになった。

「……私は、」

そこで言葉に詰まった。考えが甘かったと後悔した。
事は起こってしまったし、私はもうこの数時間ではっきりと彼への好意を自覚してしまった。しかも、見た目がどうのこうのなんて関係ない。その居心地の良さにすっかりはまってしまった。きっと、関係を結んでしまえばすぐには離れられないくらいに。
もう後戻りができなくなりそうな、ギリギリの淵に私は身体を横たえていた。

しばらく沈黙が流れる。
その間、カカシは真っ直ぐに私を見ていた。私もじっと彼の瞳の向こうを眺めていた。身体と心臓はやたら拍動しているのに、頭だけは嫌に冷静だった。
しんと静まり返った部屋にテレビからの笑い声が響き渡る。それはまるで、私を嘲笑っているかのように感じた。そして、着ていた服越しに、温かなカカシのぬくもりを感じた。
この数枚を取っ払ってしまえば、もう、私に残された道は傷つくだけだ。身体から関係が始まったとしても、その先は見えている。
私は考えに考え抜いて、ゆっくりと言葉を吐き出した。

「……私は、カカシを信じてるよ。だから、そんな事なんて一ミリも考えてなかった。でも、カカシがそのつもりなら私は受け入れるよ」
「信じてる?オレに事実かどうか聞いたのに?」
「それは……そうだったら悲しいなって思ったから、噂が嘘だったらいいなって思って確かめたの」

私がそう言うと、カカシは頭をだらりと下げた。
数秒そのままでいて、次に顔を上げるともう彼は笑っていた。

「……な〜んちゃって」

カカシは後退して私の上から退いた。視界から彼が消えて、シーリングライトの明かりが眩しい。
何事かと私は驚きつつも、上体を起こしてカカシを見た。

「お前、隙だらけ。気を付けろよ」
「何?からかったの?」
「からかってはないよ」
「絶対ウソ!」
「オレを信じるんじゃなかったのか?まぁそうプリプリ怒るなって」

都合のいいように言葉を切り取ってカカシは不敵な笑みを浮かべる。
私はまだ収まらない動揺を隠しきれないまま、服と髪の乱れを直し、並べられた酒とジュースの空き缶達へと視線を落とした。
不完全燃焼のままで良かったのか、それとも残念に思っているのか自分でもよくわからなかった。

「そうだ、いいもの買ったんだった」

突然カカシは立ち上がると、部屋の隅に置いていたコンビニの袋のそばへ寄った。何やらガサゴソやって、小さな袋を手にして私の方へそれを突き出すようにして見せる。

「ジャジャーン!線香花火、家のすぐ前の公園でやろうよ」

気まずい空気を和やかにしようという作戦なのだろうか。わざとらしいくらいに明るい声のトーンだった。

「……そうやって誤魔化す」
「なに、もしかして期待してたの」

反撃したつもりが、カウンターを喰らってしまう。私はそのまま閉口し、彼を睨むようにして見つめた。
カカシはそんな私の視線なんてお構いなしに、鼻歌を歌いながらそのままの格好で玄関へとフラフラ出て行った。

「さむっ」

靴を履きながら玄関のドアを開けてカカシが呟く。それから私の方を振り向いて、「十本あるから、五回勝負ね」と小さく手まねきした。
まるでさっきのことなんて、何もなかったみたいだった。やっぱりからかわれただけか──私もあまり気分を引きずらずに普通にしなくちゃならない気がして、ため息をつきながら立ち上がり、近くにかかっていた上着を羽織って彼の後を追った。余韻に浸る暇すら無い。

「……うぅ、さむっ……」

吹き込んできた風に、思わず身を縮こませる。

「そう言えば、あそこの公園って花火やって平気だっけ」
「禁止って書いてなかったから大丈夫」
「ならいいけど……あ、ちょっと待って」

ふと、誰かが夏に海に行った帰りに置いて行った子供用のおもちゃみたいなバケツを思い出し、私は廊下の横にある収納棚から埃にまみれたそれを取り出す。洗面台で半分くらいの水を入れると、狭い玄関の中で待っていたカカシの元へ急いだ。

「お、忘れてた」

カカシは私が持っていたバケツの取手に手を伸ばすと、ひょいと手から奪い去って先に玄関を出た。バタン、と大きな音がして、急に静かになる。私はひとつ大きく深呼吸をすると、ペチンと両掌でで頬を挟み、気をひきしめた。
靴を履いてから重たい玄関扉のドアノブに手をかけ、ゆっくりと押し開ける。暗い廊下に出ると、その身体には不釣り合いなほど小さすぎるバケツを右手に持って寒そうに肩をすくめたカカシがぼーっと立っていた。
なんだかその姿が、すかしているのに間抜けに見えて、気づかれないようにこっそりと笑った。


外は、すっかり秋のにおいがした。
空気がとても透き通っていて、風が吹くと肌がひんやりとした。深く息を吸い込むと、綺麗な外気に肺から身体の中のアルコールが抜けていくようだった。

「勝負って言ってたけど、勝ったらなんかしてくれる?」

公園について、カカシが線香花火を袋から取り出している途中、私が横から話しかける。

「そうだな……何か一つ相手のお願いを聞く、とかどうだ」
「カカシにしてはありふれてるね」
「オレはありふれた普通の人だけど。嫌?」
「別に。いいよ」

淡々としたやりとりをこなすと、カカシから五本の線香花火が渡された。お互い風向きを考慮して、好きな向きでしゃがむ。火種はライターしかないから、結局横並びになった。

「火、オレがつけるからライター貸して」

私はポケットからライターを取り出すと、カカシに手渡す。
案外慣れた手つきでフリントを回すと、「せーの」で線香花火へ火をつけた。
線香花火は一度激しく先端を燃やすと、火薬部分が縮み、玉のようになった。それからジジジ、という音を立てて火花を散らし始める。バチバチと音を立てて暗闇に幾つも橙色の花を散らすと、やがて勢いが弱まり、そのまま消えた。それも、私の線香花火もカカシの線香花火もほぼ同じタイミングだった。

「なんだ、引き分けか」
「絶対負けないんだから」
「何かオレに叶えてほしい願いでもあるのかな?」
「……別にないし。あったとしても教えない」
「ふふ、じゃあ次に行こうか」

私たちはそんな風にふざけながら、どんどん線香花火に火をつけていった。どうしてだか火をつけると急に風が止んで、まぁるい光はなかなか地面に落ちない。とてもいい勝負で、四回戦まで全て引き分けだった。
とうとう最後の一本になると、流石に相手の線香花火に息を吹きかけて邪魔をしたり、笑わそうと変なことを言ったりしてみたが、それでも最後まで綺麗に形状を保っていた。

「……あらら」
「……こんなことある?」

ジュウ、と音を立てながらそれぞれ最後の一本の火が消えた。
最後までこんなことがあるのかと顔を見合わせると、お互いあまりにも間抜けな顔をしていて思わず笑った。
きっともう、アルコールなんて抜けかかっているはずなのに、やけに楽しかった。

「そうだ、線香花火って最後まで火が落ちないと願いが叶うんだって」
「あぁ、聞いたことがあるな」
「勝負はつかなかったけど、カカシもなんか叶うといいね」
「願いねぇ……」

カカシはその場でしゃがんだまま、右斜め上へ視線をやって考え込む。
私もその隣で、水が張られたバケツへ花火をポイと捨てると、膝を抱えるようにしてしゃがんでいた。

「いい企業に就職、とか?」
「オレ、これでも教師志望だから」
「えー、そうだったの?!じゃあ、夢は教員試験合格かな」
「夏の終わりのジンクスにしては随分叶うのが先すぎない?」
「そう?じゃあ直近で叶えたい願い事でもあるの?」
「そうだなぁ」

カカシも手に持っていた線香花火の燃え残りをバケツの中へポイと捨てると、その手をそのまま私の顎の下へと伸ばした。ジュッ、と燃えた火薬の部分が冷やされる音が聞こえる。
それから彼の指が顎先へ触れたかと思うと、そのまま引き寄せられ、思いっきり唇が触れ合った。ほんのりアルコールの匂いがして、私は目眩がしそうになる。
そして、勢い余ってバランスを崩してしまった。唇同士は離れるも、しゃがんだ体勢のまま彼の胸へと飛び込んだ。
私はどさくさに紛れて、そのままカカシの胸に顔を埋めた。彼の洋服からはいい匂いがして、その向こうに仄かに私の部屋の匂いがした。

「カナもオレのこと、好きになってくれたらいいなぁって」

カカシがそう言った瞬間、胸板を伝った声の振動が私の鼓膜を震わせた。
そして全身がパチパチと痺れたようになる。思わずまぶたをキュッと閉じれば、まぶたの裏にはパチパチと光線香花火の残像が浮かんだ。
私は夢の中にでもいるのかと、彼の鼓動の音に耳を傾けながらゆっくり、深く呼吸をした。

「ねぇ、叶うと思う?」

何も言わない私に、カカシが期待を込めたような声色で尋ねる。それから、そっと私の背中へ手を回し、顔を私の顔のそばへ寄せた。彼の吐息が耳元で聞こえる。
もう私は何も考えられなくなって、ただそれに身を委ねた。

「……あーあ、酔っちゃった」

私がそう呟くと、カカシは「オレも」とクスリと笑い、もう一度私にキスをした。
その瞬間、公園を吹き抜けた風はとても冷たく、ほのかに線香花火の匂いがした。もう季節が変わる。
私と彼の関係もこうやっていつの間にか変わっていくのだなぁと、口づけられながらぼんやりと思った。

(うつろい)

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